長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

子どもの貧困 2  解決策とこれから

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/12/224919

の続きです。

 

子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)

子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)

 

 

 

  • 第5章 現金給付を考える

 

 子どもの貧困対策を論じる時、もっとも激しく意見が対立するのが、「現金給付か、現物給付か」という論点である。

 そのお金を親がどのように使うかを限定できないため、教育や保育サービスなどの現物給付のほうが優れていると考えている人は多い。

 対するのは、個々の子どものニーズは親がいちばんよく把握しており、それを超える決定を行政ができると考えるのは過信であるという議論である。

 アメリカのさまざまな現物給付の効果を測定した結果、現物給付のほうが優れているという説にはならなかったのである。

 現金給付は、世帯が最も必要とする部分に届く。仮に、現物給付によってさまざまなニーズ全てをカバーするようにするのであれば、政府は膨大なリストのプログラムを準備しなければならない。

 一方で、お金で解決できないものもある。これは主に教育や保育など、市場原理に任せておくとサービスの量と質が確保できないもので、公的サービスとして現物給付が望ましい。

 

 児童手当、児童扶養手当、遺族年金、生活保護制度。

 これらの制度の受給者数と支給額をみると、日本の社会保障制度はすでに、貧困の子どもがいる世帯について十分大きな給付をしているように見えるかもしれない。

 しかし、他の先進諸国に比べると、日本の貧困世帯に対する給付はまだまだ小さいといわざるを得ない。

 日本では、再分配後の(子どもの)貧困率のほうが、再分配前より高い、という逆転が起こっていたのである。

 現行の児童手当は、子ども手当て時代から引き続いて、金額、その普遍性ともに拡充されているが、子どもの貧困率の削減のデータが公表されるまで、まだ月日を待たなければならない。

 

 日本の厳しい財政事情においては、現金給付の中でも、どこに焦点を当てるかプライオリティをつけなければならない。

 まず、子どもの貧困率の逆転現象を解消することを最優先の課題にすべきである。日本の再分配の状況は、先進諸国に比べても大幅に劣っている。

 そのためには、児童手当や児童扶養手当といった現金給付を拡充させることが不可欠である。

 まずは、依然として、圧倒的に高い貧困率を示す一人親世代について、さらなる現金給付の拡充が必要と考える。

 生活保護制度は、一般市民からの批判も多いので、より広く母子世帯・父子世帯をカバーする児童扶養手当の拡充は検討されるべきであろう。

 もう一つの重要な要素として、乳幼児期を重視することを提案したい。とくに貧困の影響が大きく現れるのがこの世代である。

 

  • 第6章 現物(サービス)給付を考える

 

 乳幼児期の現金給付の拡充と同時に、保育政策の一層の拡充が必要である。

 重要なのは、親の就労対策としての保育政策ではなく、子どもの貧困対策としての保育政策である。

 子どもをみていることを目的とするのではなく、貧困の影響を最小限に食い止めることを目的とする制度となれば、その制度設計から大きく異なってくるであろう。

 保育所にて、貧困層の親のニーズを把握し、福祉事務所や就労支援など必要な支援に繋ぐことが出来る。言い換えれば保育所が福祉の総合窓口となるのである。

 しかし、実際には、現状の保育所マンパワーでは、そこまでの支援は困難である。保育や幼児教育の専門家であっても、福祉の専門家ではないからである。

 学校にスクールソーシャルワーカーが必要であり、病院に医療ソーシャルワーカーが配置されるべきであるように、保育の現場にもソーシャルワーカーの役割を果たす人材が必要である。

 また、医療のセーフティーネットの強化、給食の栄養プログラムとしての活用、発達障害・知的障害への対策強化、放課後の格差を解消するプログラム、メンターシステム、学習支援などが必要であろう。

 

 親に対する現物給付について考えたい。

 本書では、子どもの貧困をとくに意識した親への現物給付として、妊婦への支援と精神疾患や障害を抱えた親に対する支援の二つを取り上げたい。

 日本には母子手帳という素晴らしい制度があり、妊娠した時点で役所との接点がある。これを利用して、貧困層の親への積極的な支援を始めるきっかけとするべきである。

 母子世帯や貧困世帯において、親の健康状態(とくに精神状態)が悪い確率が高いことは日本のデータでも確認されている。

 しかしながら、親が何らかの問題を抱えていても、即、子どもに困窮のサインが見えないこともあり、現状では、子どもへの支援の手が差し伸べられていない。

 医療サービスの現場において、家族の問題にまで手を差し伸べることは困難かもしれないが、福祉や教育行政と連携しながら、親の疾患や障害の影響が子どもにまで及ぶことを食い止める姿勢が必要であろう。

 

  • 第7章 教育と就労

 

 子どもにかける教育費が、家庭の経済状況によって大きく異なることは疑いの余地がない。

 この格差を完全に解消することは政策的には不可能である。なぜなら、政府は親が子どもを塾に通わせたり、私立学校に通わせることを禁止することは出来ないからである。

 問題は、すべての子どもに与えられるべき最低限の教育費はどこか、という点であるが、おそらく義務教育をまっとうに受けるための教育費はそこに含まれるという点では国民的合意が得られるといってもよいであろう。

 現在、これらの経費をカバーするための制度が、就学援助費であるが、必要な経費の全てをカバーしているとは限らない。

 

 より深刻なのは学力の格差であるが、教育費の問題はお金で解決することができるが、学力の問題ははっきりとした解決策がわかっていない。

 しかし、学力格差の問題を考えずに、教育費の格差の解消を図っても無駄である。

 子どもの貧困対策として行うべきことは、まず最低限必要な学力をすべての子どもにつけさせることで、言葉を替えれば、これは落ちこぼれをなくすことである。

 一つの案は、教育予算を増額することである。それでは、どのような予算拡充であれば効果があるのだろうか。

 一つが教師の給与である。すべての教師の給与を一律に引き上げることが教師の質の向上に効果があるという確証はない。

 対して、比較的に有望な政策と考えられているのが、学級規模の縮小である。

 二番目に有望な費用対効果が報告されているのが、「サクセス・フォー・オール」という教育カリキュラムの導入である。

 このカリキュラムは、読解力に焦点を合わせた教育内容であり、とくに貧困層の子ども達を対象として開発されている。

 教育費の格差や学力格差の縮小と同等、実はいちばん大事であると筆者が考えているのが学校生活への包摂である。

 子どもにとって、社会の大きな部分は学校であり、そこで包摂されることが、子どもの貧困対策の大前提となる条件であるからである。

 具体的には、不登校や欠席の状況をつかんで、不登校のリスクの高い子どもを把握して、初期対応をとること、対人関係を配慮しながら学級編成等を行うこと、スクールカウンセラーや養護教員を交えたチームで対応することなどである。

 同時に、子ども達をシビアな労働市場から守る施策も必要である。労働法や社会制度などについて、自分の身を守る最低限の知識を学校教育の中で徹底させることが不可欠である。

 

  • 終章 政策目標としての子どもの貧困削減

 

 2013年6月19日、「子どもの貧困対策法」が成立した。

 法は、子どもの貧困の状況を毎年公表することを政府に義務付けている。子どもの貧困の状況を把握する指標について、法は定めていない。

 筆者の考える子どもの貧困指標と政策の有効順位の考え方を提示したい。貧困指標は、他の先進諸国が採択しているものを参考に、日本に最適な子どもの貧困指標を模索することとする。

 なかでもイギリスの例が有名であるが、実質的には相対的貧困率と物質的剥奪指標の二つの指標から成り立っている。

 将来の選択の幅を残すためにも、数値目標の設定のためとモニタリングのためと両方の目的に使えるようにデータの準備をしておくべきであろう。

 

 まず、数ある政策の選択肢の中から実施するプログラムを選定する際には、以下の3つのクライテリアが重要なのではなかろうか。

 1、実験的な枠組みにより効果が測定されているもの

 2、長期的な収益性が確保できるもの

 3、とくに厳しい状況に置かれている子どもを優先するもの

 一つ目と二つ目は、政府の財政的な健全性を保つためのものである。また、この収益性を重視した政策の選択方法は、懐疑的な人々をも説得する材料となる。

 三つ目は、効果の大きさという観点と、人道的な観点から加えられている。

 

 筆者の考える現金給付の優先順位は二つである。一つは、貧困率の逆転現象を解消すること。そして、是非、ひとり親世帯の貧困率の削減を組み込むべきである。

 もう一つは、乳幼児期の子どもの経済状況を改善すること。今でも、児童手当は三歳未満の子どもを優先するように設計されているが、さらなる拡充が望まれる。

 

 現物給付は、普遍的な性格を保ちながらも、もっとも不利な立場におかれている子ども達への給付が確保されるように、所得制限方式ではない選別の方法を探ることである。

 子どもの貧困に対する政策は、子どもだけへのサービスでは収まらない。子どもを守るという視点から、親へのサービスを考えなくてはならない。

 

まとめ

 

 対策法も成立し、保育所関連の動きも目に見えて動いてきたようで、これらがどれだけ子どもの貧困を解消していくことになるか、僕もよく注視していきたいと思います。

「子どもの貧困」と普遍的制度 (1)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakatadaigo/20140131-00032162/

http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakatadaigo/20140131-00032163/

で中田先生が言及されていた、阿部先生の新刊です。

 

 

子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)

子どもの貧困II――解決策を考える (岩波新書)

 

  先の中田先生の記事もショッキングな内容ですが、本書の内容もショッキングな内容であり、できるだけ多くの皆さんに読んでほしい多くの子どもの貧困に対する知見や内外の研究成果を集めた力作となっています。

 

はじめに

 

 2008年は、日本の社会政策学者の間で「子どもの貧困元年」といわれる年である。

 この年から子供の貧困問題が始まったということではない。この年に初めて、日本で子どもの貧困がマスメディアや政策論議の机上にのった、という意味である。

 「子どもの貧困元年」から五年。政策は著しく動いた。この五年は、期待と失望と再度の期待というような目まぐるしい展開の連続であった。

 筆者を含め、霞が関も、有識者も、決定打となる答えを示せていないのである。

 しかし、海外においては、子どもの貧困に対する膨大な試行錯誤の蓄積があるし、日本においても、さまざまな取り組みが始まっている。

 本書は、これら子どもの貧困政策に関する国内外の研究のこれまでの知見と洞察を総動員するものである。この本の全ての読者が、子どもの貧困についてどのような対策を打てばよいのかを考える。

 そのプロセスによって、日本での対策が少しでも前に進めばよいと願っている。

 

  • 第1章 子どもの貧困の現状

 

 日本の子どもの貧困率の手がかりとなる確かな行政データは、就学援助費の需給率であろう。就学援助費とは、低所得者世帯の子どもの義務教育にかかる費用を国と自治体が支援する制度である。

 所得制限を下回るすべての世帯が受給しているかどうかが定かではないので、下方推計となる恐れもあるが、少なくとも子どもの貧困の規模を示す手っ取り早い目安である。

 近年、この割合が激増している。97年度には公立中学校に通う子ども達の6.6%であった受給児童数が、2011年度には15.58%にまで増加している。

 就学援助費の受給率は前述の通り精確さに欠ける面がある。そこで相対的貧困率を見てみよう。

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 子どもの貧困率をみると、85年の10.9%から09年の15.7%へと上昇していることが分かる。

 2009年の相対的貧困率は、就学援助費の受給率とほぼ同じであり、6~7人に一人の子どもが貧困状態にあると推測される。

 この図から気づいていただきたいことが三つある。

 一つは、85年の時点においてさえ、日本の子どもの貧困率はすでに10.9%あったことである。すなわち、「子どもの貧困」は決して、リーマンショック以降の「新しい」社会問題ではない。

 二つ目は、85年から09年にかけて、多少の増減があるものの、子どもの貧困率が右肩上がりに上昇し続けていることである。これは、貧困率の上昇が、単なる景気動向に影響されているものではないことを示している。

 三つ目が、子どもの貧困率の上昇のペースが、社会全体の貧困率の上昇のペースに比べて速いことである。

 国際的に見ても、日本の子どもの貧困率は決して低くない。とくに、日本の一人親世代に育つ子どもの貧困率は58.7%と突出しておりOECDで最悪である。これは、一人親世代の大半を占める母子世帯の貧困率がとくに高いためである。

 さらに、親の学歴別に貧困率をみると、学歴による格差は明らかである。親の学歴が中卒である場合は貧困率は45%と半数近くとなるが、大卒以上であると8%となる。

 

 次に貧困の「深さ」に着目していこう。

 教育学においては、親の所得と子どもの学力がきれいな比例の関係にあることが実証されている。

 子どもの健康状態についても、貧困層の子どもとそうでない層のこどもには、統計的に優位な差がある。

 相対的貧困のとりわけ恐ろしいのは、その影響が学力や学歴の格差に留まらない点である。

 最新の海外の研究によると、相対的貧困が子どもに及ぼすいちばん大きな悪影響は、親や家庭内のストレスがもたらす身体的・心理的影響だという。

 子ども期に貧困であることの不利は、子ども期だけに留まらない。この不利は大人になってからも持続し、一生、その子につきまとう可能性がきわめて高い。

 子ども期の貧困経験が、大人になってからの所得や生活水準、就労状況にマイナスの影響を及ぼすのであれば、その不利がさらにその次の世代に受け継がれることは容易に想像できる。

 

 諸外国においては、「貧困の社会的コスト」という観点から、貧困対策の費用を捻出する根拠を導いている。

 もし、国がA君の子ども期に、彼が貧困を脱却する可能性を高めるような支援をしていたらどうであろう。

 国は、A君が払ったであろう税金・社会保険料を受け取ることができるうえに、生活保護費や医療費などの追加費用を払う必要がなくなる。

 つまり、長い目で見れば、子ども期の貧困対策はペイする可能性が高い。逆に言えば、貧困を放置することは「お高く」つく。これが「貧困の社会的コスト」である。

 一つの問題は、このようなコストを計算するためのデータや施策が日本では揃っていないことである。

 完璧なデータが欠如しているなかで、私たちは、さまざまな仮定をおいて貧困の社会的コストの推計をしていくしかない。

 

 貧困そのものに対処をしなくとも、経済状況さえ改善すれば貧困はおのずと解消していくという議論がある。

 しかしながら、それをあまり期待できない要素はそろっている。

 まず、景気の動向にかかわらず、根本的なトレンドとして、貧困率は上昇している。このトレンドが逆行しない限り、景気が回復しても、子どもの貧困率の上昇は止らないであろう。

 そして、日本はGDP比でみる貧困層への社会支出はきわめて小さいのである。そもそもが、貧弱な貧困政策なので、GDPが増加しても急激にその貧困削減効果が大きくなるわけでない。

 

  • 第2章 要因は何か

 

 (1)金銭的経路

 貧困の連鎖の経路として、まず念頭に浮かぶのが、教育に対する投資である。

 (2)家庭環境を介した経路

 貧困や低所得が子どもの成長に影響する経路についての一つの有力な説が、「家族のストレス」説である。

 恐ろしいことに、親のストレスが及ぼす子どもへの影響は、胎児の段階から蓄積されるのである。強いストレスを抱えた母親から生まれた子どもは出生体重が少ない。さらに、生まれた後も情緒的な問題を抱えるリスクが高くなる。

 貧困にあることは、子育て時間にも影響する。また貧困と社会的孤立は密接な関係にあり、当然ながら貧困層の親は、社会的に孤立している割合も高い。

 (3)遺伝を介した経路

 最も頑強に語り継がれている仮説が「遺伝説」である。しかしながら、親から子への認知能力の遺伝が、貧困の連鎖を引き起こす影響は限定的であるというのが、学術的に分かってきている。また、認知能力と、成人後の所得の関係もそれほど強いわけではない。

 (4)職業を介した経路

 親と子の社会的地位が継承されるもう一つの大きな経路が職業である。

 自営業をはじめ、有形・無形の資産が存在し、このような資産を受け取れる子どもは、親から何も受け継げない子どもに比べ有利なのはいうまでもない。

 (5)健康を介した経路

 成人の健康度合いと経済状況には明らかな関係がある。経済状態が悪い人は、健康状態も悪いのである。

 近年は、子どもにおいても、子どもの健康と経済状況に相関があることが明らかになってきた。

 なぜ、子どもの健康には格差が生じるのか、医療経済学からは二つの説が提示されている。

 一つは、貧困世帯の子どもは病気や怪我をしたとき、その影響が大きいということである。

 もう一つの説は、そもそも、貧困層の子どもは、そうでない子どもに比べて、病気や怪我をしやすいというものである。

 実は、この健康を介した経路は、教育を介した経路と同じくらい大きいのではないかと欧米では考えられている。

 健康を介した経路の中でも、子どもの貧困との関連がとくに強いと疑われるのが、発達障害と知的障害である。

 筆者が言いたいのは、貧困層の家庭においては、このような障害の影響がより顕著であるのではないかという点である。

 どのような家庭でも発生するものであるが、家庭の経済状況によって、対処が遅れてしまい、その症状からの影響がより大きく表れてしまう可能性がある。

 (6)意識を介した経路

 貧困層の子どもは、親からの期待も低く、自分自身も自分が社会にとって価値のある人間と思っていない。

 このような自尊心・自己肯定感の低さは海外においても報告されている。

 (7)その他の経路

 一つが地域である。アメリカでは居住地域における富裕層の率や、貧困層の率は、子どもの学力に影響するという研究成果がいくつも存在し、また、地域によって学校の質に違いがあるのも事実である。

 また、目標となるような大人の欠如も、貧困の子ども達が抱える問題として指摘されている。

 そして、家庭環境に問題を抱える子どもは、早く自立を迫られることが多い。彼らは劣悪な労働市場で働かせられることになり、女子の場合には風俗産業に身を投じることも少なくない。

 

 これらの経路の相対的な強さをはかるためのデータベースは現実には存在しないので、社会科学的にどの経路が一番重要かという問いに対して解を出すのは事実上不可能である。

 全ての経路を考慮した分析は不可能であるものの、一部の経路を考慮した分析であれば試みられている。

 一つ目の研究は、発達心理学からの成果である。菅原(2012)は、家族ストレスモデルと家族投資モデルの強さを同時に分析している。

 菅原によると、家族ストレス経由の関連は知的側面よりも情緒的側面により強く見られ、反対に家族的投資経由の関連はより知的側面との間に強くみられることが確認できたという。

 二つ目は阿部(2011)である。子ども期と成人期の貧困の連鎖を見ているが、要因として「低学歴」「非正規労働」「現在の低所得」の三つを挙げている。

 いちばんよく語られる経路である「子ども期の貧困→低学歴→非正規労働→現在の低所得→現在の生活困窮」のパスであるが、この分析からわかることは、私達が想定しているおりも大きく多彩な経路が学歴-労働パス以外にも存在するということである。

 

ここの経路を抑えれば、すべてうまくいくといったような、魔法の解決策は存在しないであろう。たしかなことは、私達には、貧困の要因の完全解明を待つ余裕はないということである。

まず、本章で紹介したさまざまな経路の中でも政策的に介入できるものと、介入できないものがある。

また、比較的介入のイメージが湧きやすいものもある。知的障害・発達障害への早期発見と手厚い支援で手当てをすることは可能であろう。

 

  • 第3章 政策を選択する

 

 さまざまな政策オプションをすべて実施できれば申し分ないが、今、日本の財政は危機的な状況である。

 たくさんの政策の選択肢の中から、実施する政策を選ぶ際に、一つの判断基準となるのが政策の効率である。

 実際には政策効果の検証は非常に難しい。そもそも、多くの日本の政策は、効果測定が念頭に置かれていないので、それが計れるように制度が設計されていないのである。

 だとすれば次に考えられるのが、外国で効果があったプログラムを日本に適用することである。この方法はずっと賢明だが、注意が必要である。

 まず、考えなくてはならないのが、プログラムが前提としている社会の状況や社会的保障制度が国によって異なることである。

 仮にさまざまなモデル事業を実施することが可能であるとしよう。次は何を効果として計るかという問題である。

 プログラムAが学力テストの点数を10点上昇させた、プログラムBは将来病気となる確立を10%減らした。私たちはどちらのプログラムを選ぶべきなのか?

 

 その際に忘れてはならない視点が、費用対効果である。このような観点で、貧困対策プログラムの効果を計った研究はアメリカに存在する。

 まず、子どもの貧困対策プログラムの多くは、大きい収益性が期待できることである。いくつかのプログラムでは、費用の数倍から10倍以上の効果が推計されている。

 

 政策やプログラムの評価の手法を知ることは、これからの日本における政策を考えるうえで貴重な示唆となる。

 まず、数ある政策の選択肢の中から実施する政策を選ぶために、長期的な収益性の観点が欠かせないことである。

 子どもの貧困に対する政策は、短期的には社会への見返りはないかもしれない。しかし長期的にみればこれらの政策はペイするのである。

 すなわち、子どもの貧困対策は投資なのである。費用でなく投資と考えることによって、政策の優先順位も変わってくるであろう。

 次に、プログラムの実施においては、そのような投資の収益性が測定できる制度設計、モデル事業を取り入れるべきである。

 最後に、プログラムの選択においては、その対象者を吟味しなければいけないことである。より効果が高い層に、政策の恩恵が集中するような設計をするのが望ましい。

 これは簡単に言えば、とくに難しい状況に置かれている子どもを優先するような政策を選択していくことである。

 

  • 第4章 対象者を選定する

 

 貧困に対する政策には、川上対策と川下対策がある。この二つの決定的な違いは、貧困者や弱者を選別するかどうかである。

 川下対策は貧困者のみを対象とする制度であるため、貧困者かそうでないかの判定をしなければならない。

 対象者の的を絞って選別するので、川下対策は選別的制度である。

 対して川上対策は、判定をせずに全ての人を対象とする。裕福であろうとも貧困者であろうとも同様に扱う。その人の権利として受け取るものである。

 救済なのか権利なのか、この二つには給付をする側にも、給付を受け取る側にも、決定的な意識の差がある。

 意識以外にも、普遍的制度と選別的制度は、大きな違いが多々ある。普遍主義論者は、川下対策に対する批判をこう展開する。

 第一の批判は政治的なものである。日本においても生活保護バッシングの高まりとその後の生活保護の改革があった。

 その時々の世論や政策論の色合いによって川下対策が縮小されたことは記憶に新しい。

 あくまでも社会の一部の人を対象とするため、反感も受けやすい。逆に普遍的な制度であれば、権利として確立し縮小不可能となる。

 長期的には、貧困層の子どもに確実に給付を続けるためには、普遍的な制度とするほうが良い

 第二の批判は、川下対策で受給することは、受給者を社会から孤立させることである。対象が絞られれば絞られるほど、その対象者となることは社会的排除の引き金となるのである。

 第三の批判が、選別にかかる費用の問題である。一人ひとりの個人の世帯所得をきちんと把握しようとするための行政コストがばかにならないというものである。

 このコストは行政側にも受給者側にとっても非常に大きい。

 第四の批判は、所得制限があることによる労働インセンティブの低下である。その点、普遍的制度は働こうと働くまいと給付の内容が変わらないので、労働インセンティブには影響を与えない。

 そして、第五が漏給の問題である。どんなに精緻な選別のプログラムであっても、漏れてしまう子供がいる。

 貧困対策プログラムの補足率はどの国においても100%とはいかない。日本の生活保護については、厚生省の32~87パーセントという推計もあるが、研究者らの間では10~30%というのが通説となっている。

 

 それでは、普遍主義の欠点、逆に言えば選別主義の利点はなんであろう。

 選別的制度の最大の利点、そして、普遍的制度の最大の欠点は、財政負担が大きいことである。

 むしろ、同じ財源規模であるならば、所得制限を課して、より多くの資源をニーズの高い子どもに給付すべきであるという主張がなされるだろう。

 広く薄く給付をするのではなく、狭く厚く給付をしたほうが効率的という議論は、貧困対策の推進派からも消極派からもあがる。

 しかし、不思議なことに、普遍的制度に対するこの批判は現金給付のみに強く主張されるものの、多くの他のタイプの普遍的制度については主張されない。

 誰も、富裕層の師弟が国のお金で義務教育を施していることを税金の無駄遣いとはいわない。

 医療サービスも富裕層も同じ三割負担である。

 

 ここまでの議論で不足しているのが、費用負担の論議である。

 誰に給付すべきかだけでなく、誰がその費用負担をするかを同時に考えなければならない。

 普遍的制度には大きな財源が必要である。財源負担は、しっかり累進的にするべきであるということに前提を置いている。

 富裕層に高い給付をするものの、それを上回る負担もしてもらうことで、財源を確保することをめざしているのである。

 このような指向の政府はおのずと大きい政府となる。

 

 多数の先進諸国のデータを分析した結果、普遍的な制度をもつ国ほど、所得格差を縮小することに成功してたのである。

 普遍的制度を持つ代表的な国はスウェーデン、選別的制度の代表はアメリカである。

 なぜ、普遍主義の国のほうが高い格差縮小の効果を持つのか。その理由は、再分配された富の絶対量である。

 つまり、普遍主義の国のほうが大きい政府となり、結局のところ、再分配される富の規模が大きかったのである。

 しかし、近年になって、この選別主義のパラドックスを覆す研究が発表されている。

 結局のところ、貧困削減にゆうこうであるかどうかに一番効いてくるのは、再分配のパイの大きさであって、普遍主義か選別主義かという違いではなさそうである。

 

 日本においては、国民皆保険、国民皆年金をキーワードとした社会保障制度が整備され、一見普遍的制度が主要となっているように見える。

 しかし、どうも日本の国民の多くは普遍的な現金給付をバラマキと感じており、高所得層への給付を快く思っていないようである。

 日本の財政状況や、普遍的制度に対する感情を考えると、普遍的な制度が選択される可能性は小さいといえるであろう。

 だとすれば、選別的制度の欠点を最小にしつつ、効果的に対象者を選別する制度設計を考えていかなければならない。

 ターゲティングについては、所得制限を念頭において話をすることが多い。

 他には地域を絞る、学校や施設のタイプで絞る、子どもの年齢で絞ることなども一つの手法である。

 どのような制度であれ、その恩恵を受ける子ども達が、このような感情をもたずにすむような制度設計を考えなくてはならない。

 

まとめ

 

 どれもまっとうな内容であり、あとはどのような制度設計をしていくかは政治問題、つまり有権者の意思決定に関わる問題であると思われます。後半へ続きます。

 

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(下) 5 天安門事件と南巡講和、そして中国の未来

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/09/222358

の続きです。

 

現代中国の父 トウ小平(下)

現代中国の父 トウ小平(下)

 

  様々な改革を打ち出す中で、世界は東側諸国の体制の崩壊に直面していました。もちろん、中国にも関係の話ではなく、あの日がやってきます。

第5部 鄧小平時代に対する挑戦 1989年~1992年

 

  • 第20章 北京の春 1989年4月15日~5月17日

 

 世界が見守る中、1989年の4月15日から6月4日にかけて、中国では何十万人もの若者が北京など大都市の街頭に繰り出した。

 デモのきっかけは、胡耀邦が4月15日に早すぎる死を迎えたことだった。

 彼らは初めのうち、共産党尊重し、交通の妨げにならないよう秩序を守って後進した。このとき、彼らはいかなる政治的課題も掲げていなかった。

 ところがデモの規模が拡大し、その声の大きさが増して内容が急進化するにつれ、デモ隊と当局の間の緊張が高まった。

 89年6月4日、秩序回復のため軍隊が北京の街頭で武器を持たない市民達に発砲すると、両者の衝突は頂点を迎えた。

 折りしも東欧では、多くの政治指導者が市民の要求に屈して統制力を失い始めていた。鄧小平は中国で同じことが起こるのを防ごうとした。

 胡耀邦の葬儀のあと、鄧はより直接的に党のデモ対応を指揮し始めた。秩序回復のためであれば、当局にいかなる措置をもとらせるつもりだった。

 

 胡耀邦の死はいかなる人にとっても衝撃的な出来事だった。

 誰も胡がこんなにも急に亡くなるとは考えもせず、強硬派を含む非常に多くの人々が彼の死を悼んだ。

 中国の一般大衆は、胡耀邦のひたむきな情熱と人間としての温かみ、そして党に対する誠実で献身的な姿勢に長く心を動かされてきた。

 知識人たちのために果敢に戦った胡は彼らの希望の星であり、善良な幹部の象徴にもなっていた。彼は崇高な理想を持ち、汚職には縁遠かった。

 にもかかわらず胡は、1986年の学生デモに寛容すぎたと非難され、翌年には冷酷にも総書記の座から追放されていた。

 1989年のでもは、民主主義を積極的に推進せず、胡耀邦の取り組みを消極的にしか評価しなかった鄧小平への暗黙の批判でもあった。

 多数のデモ参加者が胡に個人的な関心を寄せていたわけではなかった。むしろ彼らは胡の死を自由と民主主義の拡大のきっかけに活用しようとした。

 周恩来の死を悼んで行われた1976年のデモと、湖の死を悼んで行われた1989年のでもは、それへの参加者を勇気付け、中国の指導者を悩ませるのに十分なくらい良く似ていた。

 デモは、76年の天安門事件とまったく同じ場所で行われていた。より人道的な政府を待ち望む中国人たちの間で、今や胡は周に代わって時代の英雄になりつつあった。

 

 4月15日の夕刻、死が発表されてから数時間のうちに、北京大学の壁はその死を悼むポスターで埋め尽くされた。

 翌16日には約800人の学生が、天安門広場の中央にある人民英雄記念碑のそばまで行進して追悼の花輪を供えた。

 広場に集まる学生の数がさらに増え始めると、追悼集会はいくらか政治的な色彩を帯びるようになった。

 彼らはさらなる自由化と民主化の容認などの要求を掲げていた。18日の午後11時頃、激昂した数千人のデモ隊が中南海の新華門へ向かって、中へいれろと要求した。

 李鵬が指摘したように、デモの方向性は4月18日に哀悼から抗議へと変化したのだった。

 追悼している間、鄧小平は彼らを抑圧する措置をなにも講じなかった。ただし、彼は、追悼期間が終わればすぐに学生達に警告を発するつもりだった。

 強硬路線を主張していた李鵬は、この時点で、趙紫陽に代わって一時的にデモを取り締まることになった。

 趙紫陽はかなり前から北朝鮮を訪問することになっており、帰国したら中央軍事委員会主席に昇進することになるとも鄧に言われたという。

 この時点ではまだ。鄧が趙を自分の後継者と考えていたことを示している。

 李鵬は4月26日に不法デモを禁じる社説を出したが、この社説は多くの学生リーダーを逮捕するぞという、政府によるあからさまな脅しだった。

 この社説は、学生達の火に油をそそぐものでしかなかった。デモのリーダーたちは、敵は鄧小平と李鵬だと明示し始めた。

 デモ隊は考案の隊列をいともたやすく突破するほどに拡大した。警察隊は流血を恐れる当局から自制を命じられていたのである。

 多くの人々が学生達に共感していたため、李鵬が取り締まりにあたる基層幹部から支持を維持し続けるのは難しかった。

 一般市民が政府と党に対する抗議デモを支持し、緊張が拡大するなかで、高官達の見解も二極化していった。

 統制の強化が必要であると考えるグループと、寛容になって耳を傾けるべきであるというグループである。前者は李鵬を筆頭として、後者は趙紫陽の下に結集した。

 李鵬趙紫陽は懸命になって一般市民に意見の違いが露呈しないようにしたが、5月になる頃には、両者の間に軋轢が生じていることが香港のメディアが憶測し始めていた。

 

 5月15日から18日にかけて行われたゴルバチョフ訪中は、中ソ関係の歴史的な転機であると同時に、鄧小平にとっても個人的な勝利を意味した。

 過激派の学生リーダー達は、ゴルバチョフが北京にいる間は逮捕されないと考えて、ハンストを5月13日に開始した。

 政府の役人達はハンストで死者が出れば一般大衆の感情に火がつきかねないと考え、ストライキ参加者に対して自制的になった。

 ハンストは党の指導者達にとって完全に想定外であった。趙紫陽に、広場を一掃するのであればなにをしてもよいという大きな裁量権が与えられた。

 5月14日、ゴルバチョフが到着する前に広場を空にすることの重要性を良く理解していた数人の著名な知識人たちが、仲裁にむけて懸命な努力をした。

 しかし、市民から大きな同情の念を集めたことで、学生達の不屈の決意はより固いものになっていた。

 彼らは広場を離れることを拒否し、学生支援のためにさらに多くの群集が集まってきていた。

 政府はやむをえず、鄧とゴルバチョフの会談を天安門広場の隣の人民大会堂に変更したが、デモ参加者たちはその間、窓ガラスを割るなどしてここにも突入しようとした。

 中ソ和解を取材するために北京に集まった世界中のメディアは、学生達が展開する抗議行動に魅了された。

 世界中の多くの観客に見守られた学生たちは、人民解放軍による攻撃はありえないとさらに自信を持つようになった。

 

  • 第21章 天安門の悲劇 1989年5月17日~6月4日

 

 鄧小平が軍隊を投入して戒厳令を布告する方向へ突き進んでいる間、趙紫陽らリベラル派の幹部は、暴力的弾圧を回避するため、最後の死に物狂いの努力を試みた。

 趙は4月26日の社説を撤回しない限り平和的解決はないとの持論を繰り返した。しかし、鄧は明らかに、趙の意見を受け入れるつもりがなかったのである。

 4月25日、社説を発表すると決めたその日に、鄧は人民解放軍に警戒態勢をとるよう命じた。

 5月初めにはすべての兵役休暇が取り消された。

 5月17日、彼は次の一歩を決定するため、政治局常務委員会メンバーに加えて、中央軍事委員会との連絡係を招集した。

 鄧小平は他の者の意見を聞いたあと、結論を切り出した。

 秩序を回復するには警察では足りず、軍隊が必要だ。しかも当分の間、その配備計画は伏せておく必要がある、と。

 李鵬たちはその場で鄧小平の意見を支持した。胡啓立は多少の懸念を口にしたが、はっきりと反対したのは趙紫陽だけだった。

 会議が終わると、趙紫陽は側近に、自信の辞表を用意するように頼んだ。

 彼は自分が戒厳令を布告できないことも、この決断が彼のキャリアの終わりを意味することも知っていたが、同時に歴史の正しい側に名を残せるとも革新していた。

 翌朝5時事、趙紫陽は学生達を見舞うために天安門広場にやってきた。

 今や趙の動きを監視している李鵬に付き添われながら、彼はハンドマイクを握り締め、

 「われわれは来るのが遅すぎた。……君達は我々を批判するが、君達にはそうする権利があるのだ。」と語った。

 そして学生達に、ハンストを中止し、体を大切にして四つの現代化のために活躍して欲しいと訴えた。

 一部の徴収は趙のこのメッセージを、もう学生を守れないという警告だと受け取った。趙が公の場に現れたのはこれが最後となった。

 5月28日趙紫陽は自宅に軟禁された。鄧はその後、八年生きたが、趙の手紙にいっさい返事をしなかったし、二人が顔を合わせることも二度となかった。

 

 ゴルバチョフが19日の朝に北京を発つのを待って、同日夕刻から五万人の兵士をすばやく送り込み、20日朝に天安門広場へ到達させることが決まった。

 その次の段階では、学生らも高官らも予想していなかったことが起きた。五万の軍隊を、北京の市民が妨害し、完全に立ち往生させたのだ。

 市民は固定電話で知人に呼びかけを行い、トランシーバーを持った者が主要な交差点に待機し、人々に軍の到着を通知した。

 海外の報道関係者は、膨大な数の市民が四方八方から集まり、数十万の群集となって北京の街に繰り出す様子を目の当たりにした。

 市民の間では学生への同情も大きかったが、戒厳令に対する反感が非常に強かった。

 ともあれ、5月24日までに、軍隊は首都の郊外に退き、そこへとどまった。

 

 鄧小平は大衆の支持を取り戻すため、軍隊が天安門広場を占拠した直後に、この弾圧とは関係のない新指導部を発表したいと考えた。

 鄧と陳雲そして李先念が、江沢民総書記に選ぶことをすでに決めていた。

 鄧は、中国の指導者には断固とした態度、改革への熱意、科学技術の知識、そして対外問題を処理した経験が重要だと考えていたが、江はこれらを併せ持っていた。

 5月31日、李鵬は江に北京に飛んでくるように言った。翌日、鄧は江がすでに正式に最高指導者に選ばれたことを通知したのだった。

 

 天安門広場に武装軍の投入を決断するにあたって、鄧小平が多少なりとも躊躇したことを示唆する証拠はない。

 北京郊外には計15万程度の軍隊が配置されていた。弾圧の際に道路が封鎖されないように、5月26日には少数の兵士を北京近郊に送り込み始めた。

 6月3日までの数日間、学生は軍隊の動きに感づいてはいたが、北京の中心部にどれだけの兵士が潜入しているのかはまったくわからなかった。

 さらにほとんどの学生は、自分達のデモが銃撃事態を招くとは想像すらしていなかった。

 

 出動は計画通りに行われた。

 午後10時半ころ、最も激しい抵抗と暴力が見られた木犀橋付近の部隊は、空に向けて発砲を始め、スタン擲弾を投げたが死者は出なかった。

 午後11時になってもなお前進を阻まれていた部隊は、群集に向かって実弾を撃ち始めた。(AK47自動小銃が使われた。)

 天安門広場に相当数の部隊が到着したのは真夜中過ぎだったが、一部の警察と私服の兵士は数時間前に到着し、すでに準備を整えていた。

 軍隊が天安門広場に入場してきたときには、推定10万のデモ隊がなお残っていた。

 デモ隊はまさか実弾を撃ち込んでくるとは考えてもいなかったが、負傷した仲間が運び出されると、残っていたものたちはパニックになった。

 午前二時には広場の残留者はわずか数千人となった。

 学生リーダーが、去りたいものは去ってよい、残りたいものは残れと放送した。

 兵士達が近づいてきたため、候徳健を含めた4人が、戒厳部隊と接見し、広場からの平和的退去を申しいれた。短い話し合いのあと、人民解放軍の軍官は同意した。

 候は合意を発表し、残っているものにただちに避難するように告げ、約3000人が急いで広場を離れた。

 

 午前5時20分には、約200人の挑戦的なデモ参加者のみが残った。

 彼らは兵士達に強制的に連行され、5時40分には、命令どおり広場からデモ隊の姿は完全に消し去られた。

 デモの学生リーダーたちは追跡され、逮捕された。しばらく拘束されただけの者もいれば、監獄送りになった者もいた。

 趙紫陽の部下も投獄され、デモ参加者の中には20年以上経った今もなお釈放されない者もいる。

 

  • 第22章 逆風の中で 1989年~1992年

 

 諸外国がデモ参加者を支援し、制裁を科したことで、国内の統制を維持することが極めて困難になっていると鄧小平は考えた。

 外国からの批判に追随する者が出てくることも明白だった。

 一週間後の6月16日、鄧小平は、自分は第一線の仕事から引退するつもりなので、暴動鎮圧の仕上げは第三世代の新指導部に委ねたいと伝えた。

 江沢民に権力を譲った後、鄧小平は重要な問題に関して最終判断を下す責任から解放された。

 天安門の悲劇の直後、鄧小平は中国に制裁を科した諸外国を非難した。

 また、1992年に政治の舞台から退く前、彼が愛国心をかきたて排外的な傾向を示すようになっていた宣伝部の取り組みを批判した記録はない。

 90年代に諸外国が制裁を緩和すると中国は、こうした排外的な愛国主義と、鄧が77年以降に進めた他国との良好な関係を回復する取り組みとを、両立させていかなければならなかった。

 

  • 第23章 有終の美 南巡談話、1992年

 

 北京の指導者達は90年には、鄧小平の講義にも、経済発展の加速化を求める上海の指導者の訴えにも心を動かされなかった。

 そのころ、彼らは均衡重視派の親玉で慎重な経済計画を重視する陳雲から、より強い指導を受けていたのである。

 陳雲と鄧小平は表立って争うことを避けたが、それぞれの支持者たちは二人に代わって公の場で考えを表明しあった。

 依然として保守派が優勢を占めたため、鄧はいつものやり方に踏み切った。言い争って時間を無駄にするより、支持者を増やすために行動に出たのである。

 92年1月17日に鄧小平を乗せた特別列車が北京駅を出発したとき、中央の党指導者は江沢民も含め誰一人、このことを知らされていなかった。

 その間、経済発展の加速化を認めてもらいたがっていた南方の指導者たちは、鄧の側につき、喜んでリスクをとって鄧のメッセージを伝えて回った。

 鄧小平が北京に戻る数日前の二月半ばには、江沢民はすでに鄧の改革推進への呼びかけを支持すると公言していた。

 江は報告によって、自分が改革開放を大胆に進めなければ、鄧は自分を更迭するつもりだと悟った。しかも彼は、鄧が北京の重要な指導者や各地の幹部から絶大な支持を得ていることを、その南方視察から見てとった。

 鄧小平の視察のニュースが全面的に報じられて政策が変化すると、彼の演説は「南巡談話」として知られるようになった。

 江は鄧になお試され、暗黙に脅されていると認識していたという。江が全面的に改革を支持しなければ、鄧は軍の後押しを得て、喬石を彼の後釜に据える可能性があった。

 陳雲は、中央政治局が満場一致で改革開放の加速を決定すると、それを受け入れた。

 

 20世紀の最後の数十年間、中国の不断の革命は数々の英雄を飲み込んでいった。

 鄧小平自身、三度失脚して三度復活したが、指導者として彼と肩を並べていた誰よりもその晩年は恵まれていた。

 鄧小平が公の場に最後に姿を見せたのは94年の春節だった。それ以降、彼の健康は悪化し、会議に参加する体力もなくなった。

 そして97年2月19日の真夜中過ぎ、パーキンソン病と肺炎の合併症によって92歳で死去した。

 本人の希望に沿い、鄧の角膜と臓器は医学研究のために寄付され、遺体は火葬された。遺灰を納めた箱には中国共産党の党旗がかけられた。3月2日、遺灰は大海に撒かれた。

 

第6部 鄧小平の歴史的位置付け

 

  • 第24章 中国の変容

 

 改革開放を進めたのは鄧ではない。それは権力を握る以前、華国鋒の下で開始されたのだ。

 鄧小平はむしろ、移行期に総合的なリーダーシップを発揮した総支配人だった。

 中国の驚くべき経済発展は鄧小平の下で始まり、彼が死を前にして踏ん張り、最後に南巡談話を行ったことでさらに加速した。

 

まとめ

 

 胡耀邦の死によって起こったあの事件が、まざまざと他のどの本よりも詳しく描写されています。鄧小平を扱った本書ですが、読んでいてシンパシーを感じたのは趙紫陽の生き方についてでした。天安門事件を含め評価の難しい鄧小平の人生ですが、本当はその趙を後継者に考えていたこと、もしくは江に一切の火の粉をかけないように自分が汚れ役を全部引き受けたことと、困難な時代を生き抜いてきた彼の凄みのようなものが感じられるのでした。

 

 

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上・下) 4 現代中国の父

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/07/220708

の続きです。

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 

 

 

現代中国の父 トウ小平(下)

現代中国の父 トウ小平(下)

 

  アメリカと日本との国交回復により、対ソ連への目処をつけ、また完全に左派の排除にも成功した鄧は、今度は中国自体を大国に対抗しうる発展を目指して、保守派たちとの長き戦いに取り組んでいきます。

 

  • 第12章 鄧政権の船出

 

 1978年12月に最高指導者の地位に昇ったとき、鄧小平にはまだ自分の率いる指導チームもなければ、人びとを結集させられるような中国の将来を明確に示したビジョンもなかった。

 指導権はさしあたり、党主席と国務院総理という公的立場をまだ維持していた華国鋒と、華を支持していた政治局四人との間で共有されていた。

 鄧小平の関心は肩書きよりも、有能なチームと組織を作り出すことにあった。

 最高指導者になった今、党内に依然として行き渡っている毛沢東の超人的イメージにどう立ち向かうかについても考える必要があった。

 鄧は一人の若者として毛に心酔し、何十年もの間献身的に仕えてきた。しかしその結果は、二度彼に見捨てられ、屈辱的な世間の攻撃にさらされただけだった。

 鄧の長男は、毛を崇拝する紅衛兵らの手で、生涯、下半身不随の体におとしめられた。にもかかわらず、歴史問題を扱う際、彼は私情をいささかも差し挟まなかった。

 

 79年半ばまでに、華国鋒はおおむね権力の座から外されていた。華の支持者は更迭され、趙紫陽胡耀邦がしかるべき地位に就くと、歴史決議に関する鄧の政治日程はいっそう進めやすくなった。

 今や政治局は鄧小平の政策の熱烈な支持者が安定多数を占めていた。

 毛沢東の評価にたいする文書の最終草案は、毛沢東思想と偉大なプロレタリア革命家としての毛の貢献への賛美であふれる一方、大躍進と文化大革命での毛の役割については批判的なままだった。

 なんといっても、毛は自分で自分は過ちを犯したことがあると認めていた。

 

 1980年後半に、華国鋒を権力の座から追いやることに最も強く抵抗したのは葉剣英元帥だった。党史をめぐる議論の中で、彼は毛沢東の晩年の過ちを強調することを支持しなかった。

 国家の利益のためには、毛の名声を擁護することが不可欠だと感じていた。

 葉剣英元帥は信念のために闘う意思の強い人物ではなく、むしろ対立を避けるほうを選んだ。事実、彼は鄧小平がトップに中央軍事委員会のトップに就くと、自身の故郷の広東省へ退いた。

 

第4部 鄧小平の時代 1978年~1989年

 

  • 第13章 鄧小平の統治技術

 

 毛沢東が布告を発する皇帝のような存在であったとしたら、鄧は自らの戦闘計画が適切な人員配置の下に実行されるよう、注意深い点検を怠らない司令官により近かった。

 彼は重要な問題と瑣末な問題とを仕分ける能力があり、中国に最も大きな違いをもたらすことに焦点をあて、そこに努力を集中することができるという評価を得ていた。

 党総書記である胡耀邦は党に関する問題の最高責任者であり、国務院総理である趙紫陽は政府に関する問題の最高責任者だったが、すべての重要事項について二人は鄧の最終判断を求め、そのほとんどの場合は書面で意見を仰いだ。

 通常、検討する課題を決めたら後は胡や趙に任せ、彼の支持を彼らが最善と思うやり方で実行させた。

 鄧小平は自分と年齢が近く、数十年に及ぶ付き合いのある、王震、薄一波らの古参幹部と、ときに非公式に会うことがあった。彼らはなんでも打ち明けられる相談相手であり、強い個人的信頼関係で意見を内内に聞くことが出来た。

 彼の統治パターンを支えている原則をいくつかのパターンにまとめることができる。

 権威をもって話し行動せよ。党を守れ。統一的指揮命令系統を維持せよ。軍をゆるぎなく掌握せよ。新たな道を切り開く政策は、広範な支持を得た上で推進せよ。

 非難を回避せよ。長期目標を踏まえて短期政策を設定せよ。長期目標達成に役立つ政策を追求せよ。不都合な真実を暴け。大胆であれ。圧力を加え、収まるのを待ち、再び圧力を加えよ。

 団結を強化し、分裂を最小限に抑える。過去の不満を晴らすのは避けよ。実験により保守派の抵抗をかわせ。複雑で意見の分かれる政策を説明するにはわかりやすい言い回しを使え。

 根本原則がわかるような、偏りのない説明をせよ。派閥主義を排し、有能な幹部を選べ。「雰囲気」を読み、具体化せよ。

 

 (上巻終わり。以下は下巻。)

 

  • 第14章 広東と福建の実験 1979年~1984年

 

 鄧小平の広東訪問後、広東開発への北京の関心が高まった。新たに省党委員会第二書記に任命された習仲勲(習近平の父)が、中国の国際経済への門戸開放に大々的に取り組むために広東に到着した。

 79年1月6日、習のもとに北京からの、外国投資受け入れの公式許可を求める申請案を作成し始めてよい、との知らせが届いた。

 習との話の中で、鄧小平は広東と福建両省に対して柔軟性を与えることに同意した。これらの地域は「特区」と呼ばれた。

 84年には14沿海都市へと開放政策は拡大される。中国の開放は香港の労働集約型の工場主にとって、まさに渡りに船のタイミングだった。

 1980年代を通じ、広東の変革のペースは一貫して国内のほかの地域の先を進んでいた。

 

  • 第15章 経済調整と農村改革 1978年~1982年

 

 78年12月、最高指導層に復帰したばかりの陳雲は、中国経済の潜在的な危機の可能性に注意を喚起した。

 成長の見通しは立たず、予算は均衡を欠き、海外から購入した技術や設備の支払い予定額は外貨準備高をはるかに超えていた。

 毛沢東の死後18ヶ月も経たないうちに、華国鋒は何事にも慎重な均衡重視派の問題提起を無視し、120にも上る巨大プロジェクトを、第5期全人代に提案した。

 鄧は以前は大胆に早くやれとけしかけていたが、陳雲の警告後は、陳雲を後押しし、均衡重視派への支持へと路線を変更した。

 陳雲は多くの他の幹部と同様に、中国経済は58年以来、ずっとバランスを欠いてきたと信じていた。

 1980年も終わりに近づいた頃には、陳雲と均衡重視派は経済政策をがっちり掌握していた。

 

  • 第16章 経済発展と対外開放の加速 1982年~1989年

 

 陳雲の緊縮政策が成功したことが、逆説的ながら、経済発展のさらなる加速を実行する強い論拠を鄧小平に与えた。

 当初から中心的課題とさらたのは、どうすれば中国経済をうまく機能させながら、より統制の少ない開放経済へ移行させることができるかだった。

 経済が上手くいっている間、鄧小平は改革解放を加速するために必要な政治的支持を得ることが出来た。ところが、経済がインフレなどの問題に直面すると、陳雲ら均衡重視派が政治的影響力を盛り返した。

 改革派と保守派の激しい主導権争いが続くなかで、市場の役割の拡大を目指す改革派が優位を占めつつあった。

 1970年代から80年代にかけての中国の劇的な対外開放推進の過程は、鄧小平とともに始まったわけではない。

 しかし鄧が際立っていたのは、その扉を毛、周、華らとは比較にならないほど大きく開いたことである。

 

 

 鄧は最高指導者の地位に上り詰めた直後の1979年1月、中国が台湾と香港に主権と最終的な行政権を持つと宣言すると同時に、こうした地域に高度な自治を認めると表明した。そうした政策の基本思想は周恩来が提起したものであったが、82年、鄧によって「一国二制度」として練り上げられ、体系化された。

 アメリカが台湾を支持しなければ、台湾は中国の軍事占領を避けるために本土復帰への道を選ぶという見方がなされた。

 つまり、中国は、台湾問題の平和的解決を阻むのは台湾と関係を維持するアメリカにほかならないと考えていた。

 レーガン大統領は両国間の緊張を和らげようとした。そしてブッシュ副大統領を派遣し、鄧とブッシュは非公式な基本合意を形成した。

 台湾への兵器売却に制約を設けることを確認したこの合意は、アメリカが「中国の主権と領土保全を侵害する意図も、……『二つの中国』あるいは『一つの中国、一つの台湾』政策を推し進める意図もない」ことを言明した。

 

 香港の主権回復については、これに着手する前に入念な準備が必要だと考えていた。そのため1978年の時点では、それを実行に移す具体的な工程表はまだ作成していなかった。

 79年、香港総督マレー・マクレホース卿が北京で鄧と会談した頃には、イギリスの一部外交官は、97年には香港の主権を手放さなければならないのではないかと考え始めていた。

 主権を放棄したとしても、引き続きイギリス政府が香港の行政権を担うのを認めるのではないか。香港政庁の幹部も市民の多くも、そう期待した。

 ところが、鄧はマクレホース総督に挨拶するやいなや、問題を切り出した。香港が中国の一部であるという前提に立つべきである。

 ただし次の世紀にはいってからも相当長期にわたって、香港は資本主義制度を維持できると、彼は言明したのだった。

 82年マーガレット・サッチャー首相が北京に到着した。フォークランド紛争に勝利してわずか三ヵ月後であった。

 鄧小平は論点を整理した。(1)主権問題(2)97年後中国がどのような統治を行うか(3)97年まで混乱をさけるため中英両政府がどう協力していくのか。

 交渉は一向に進まなかった。サッチャーがそのような条件を飲むはずもなかった。

 その後数年にわたる10回の全体会議の間に、すべての主要な問題をめぐって協議が行われた。

 87年、香港の危機感が頂点に達した頃、鄧は市民を落ち着かせるために起草委員会で原稿もなしに演説した。

 香港の基本的な政治と統治の制度は50年間変わらない、香港の人びとが共産党を批判することを認める。ただし、それを行動に移し政府に立ち向かう場合には北京は介入せざるをえない、と。

 基本法草案は89年に市民に公表され、中国と香港の双方で肯定的に受け入れられた。

 

 78年末、鄧小平は中国とチベット人指導者ダライ・ラマとの関係改善を図った。

 チベット人と漢族の緊張を完全になくすのが不可能なことは、鄧も十分承知していた。

 胡耀邦は北京とチベット人との関係を変えていこうとする決意を大胆に表明した。彼は明らかに誠実だった。彼はチベットが傷つけられてきたという真実を受け止め、チベット人たちの苦しみの責任を党を代表して認め、将来にむけた改善策を打ち出したのである。

 だが、胡耀邦が勇敢な試みを打ち出して一年もしないうちに、彼のもくろみは頓挫した。

 その原因は、胡がチベットと北京の双方で、漢族の党幹部の反発を招いたこと。そして彼の計画がチベット人をなお十分満足させられなかったことである。

 鄧小平は漢族の党幹部の圧力を受け、ダライラマは徹底抗戦を訴える亡命者集団の制約を受け、互いの主張の隔たりを埋めることができなかった。

 89年にダライラマノーベル平和賞を受賞すると、チベット人僧侶は抵抗運動を再開し、それに対抗して共産党のリーダーは再び締め付けを強化した。

 鄧小平もダライラマも、お互いの主張の隔たりを埋めることはできないにしろ、全面的な対決は避けようとした。

 80年代半ばに表出した悲劇の悪循環は現在も続いている。胡耀邦チベットに派遣して以来、チベットと北京の間で、前向きな合意達成に向けた真摯な努力はなされていない。

 

  • 第18章 軍隊 現代化を目指して

 

 77年、鄧小平と葉元帥は中国軍の現代化の土台作りを進めた。

 軍事技術で中国が大きな遅れを取っており、主要な敵のソ連に対抗するには戦略を調整しなければならないと考えていた。

 鄧の考えでは、林彪期に軍の指導者を文官の地位に就けたことが、彼らが軍事問題に専心しなくなった原因だった。

 現代的な装備を徐々に獲得し、専門的な軍隊を建設する目標のために最初にしなければならなかったのは、「だらけて、うぬぼれて、贅沢になり、怠ける」ようになってしまった者たちを追い出し、高齢の幹部を退役させる制度や、規模縮小の枠組みを作ることだった。

 75年に610万人を擁していた軍が、82年までに420万人に、88年までに320万人になった。

 ベトナム侵攻を期に、ソ連との戦争の可能性が縮小したのを見届けると、鄧小平は軍の現代化ではなく、他の三つの現代化、とりわけ陳雲が最重要と主張した農業と軽工業の分野に中国の資源をつぎ込むよう指示した。

 80年代を通して、中国は郡に回す予算の割合を減らし続けた。公式データによれば、79年にGDPの4.6パーセントを占めていた国防費は継続的に減少し、91年には1.4%になった。

 91年の湾岸戦争は、中国の指導者たちに、いかに中国軍が出遅れたかを見せつけた。

 95年以降、江沢民の軍隊現代化の指揮の下で、国防費はGNP成長率よりもずっと急速な拡大を遂げることになった。

 

  • 第19章 寄せては返す政治の波

 

 中国の若者や多くの知識人にとって、78年以降に西洋から吹きつけてきた自由の風は、心が浮き立つようなものであった。しかし、高位指導者達の間では、国民にたいして、どの程度の自由を与えればよいのか意見が分かれていた。

 胡耀邦は自由に対し最も理解を示していたが、保守派は彼に絶え間ない圧力をかけていた。鄧小平は、必要と判断すればいつでも規律を締め上げる用意をしていたが、保守派からの攻撃を受けても、胡への支援を継続した。

 鄧小平は、知識人を完全に遠ざけてしまうことなく党への批判を押さえ込むという、ほとんど無理な課題に挑み続けていた。

 

 高位指導部の後継者問題の解決はしばらく長引いていたが、上層部の新しい幹部を選ぶ際、主に考慮されたのは年齢と教育水準の二点である。選考過程は数ヶ月以上かけて、政治局と党書記処によって相当慎重に進められた。

 新しく任命された若い幹部には李鵬(当時58歳)と胡啓立(当時57歳)がおり、彼らは総理と総書記の候補者とみなされていた。

 江沢民上海市長に、胡錦濤は中央委員会委員になった。もし有望だという評価を引き続き維持し、重大なミスも犯さなければ、彼らは後にもっと高い地位に就くことが見込まれた。

 

 87年1月に学生デモが押さえ込まれると、胡耀邦は失脚し、北京の政治的雰囲気はさらに保守的になった。

 結局のところ、胡耀邦は公式な手続きを経ることなく、総書記の職を解かれた。趙紫陽は総理のまま総書記代行として胡の後任となった。

 多くのリベラル派幹部は、国家のためにあれほど懸命に働き、無視無欲で、うまくいく可能性を持った政策を掲げていた胡耀邦が、あんなにも献身的に仕えてきた人びとから辱められ、解任されたことは悲劇的かつ不当な措置だと考えた。

 解任した後、鄧小平は何度も自分の家にブリッジをしにくるように誘ったが、胡は一度の例外を除いてすべて丁重に断った。

 

 多くの皇帝がそうであったように、毛沢東は死ぬまで権力の座にとどまったために大きな弊害を生んだ。

 このことを良く知っていた鄧小平は、最高指導者にも任期制を導入し、任期が満了すれば引退するという新しい仕組みを作る決意を固めていた。

 鄧は自分の引退を迎えたとき、彼の基本原則を忠実に守り、まあ彼の経済政治上の課題を前進させられる趙紫陽なら、中国を次の改革段階に導くことが出来ると考えていた。

 

まとめ

 

 かつて紅衛兵を動員し、鄧の長男を半身不随にも追いやった四人組など左派を排除した先にあったのは、今度は陳雲や胡耀邦らの自由主義者やリベラル派との軋轢でした。依然として残っている毛沢東の亡霊におびえる保守主義者たちとリベラル派の綱引きの間で、鄧はほぼ今日の中国共産党の原型を作り出すことに成功します。

 しかし、その代償として葉剣英元帥や胡耀邦の失脚がありました。趙紫陽が後継となりますが、とうとうあの日がやってきます。

 

(続きます)

 

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 3 日中平和友好条約と訪日

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/06/215421

の続きです。

 

 毛沢東が死去し、名目的には華国鋒の下で実質的な中国のナンバーワンの地位に登りつめます。四人組の排除にも成功したものの、自由化・成長を目指す胡耀邦らリベラル派や、毛沢東思想の残党ともいえる左派などとの両挟みのなかで、また国外ではソ連の膨張の脅威など問題山積の中で、鄧小平の視線の先にあったのはかつての仮想的アメリカと、そしてかつての侵略者である日本でした。

 

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 

 

 

 多くの人びとは、華国鋒や彼の改革への熱意をあまりにも過小評価していた。海外の直接投資を招き入れるための経済特区を始めたのは鄧ではなく華であった。

 華は77年に鄧小平の職務復帰を遅らせようとはしたが、それでも鄧が導入しようとした変化を支持した。

 彼は対外開放を急速に実現しようとしただけでなく、むしろそれを過度に進めたとして厳しい批判にさらされたのである。

 中央工作会議では鄧小平の復活を支持する声が数多く聞かれた。これに対し華国鋒は、機が熟せば、復活の道のりは見えてくるが、急ぐべきでないといった。

 5月12日には、鄧小平は軍と対外関係に責任を負うことを含め、かつて自分が担っていた職責の全てに復帰することが決まった。

 7月17日、第10期三中全会は「鄧小平同士の職務復帰に関する決定」を採択した。中央軍事委員会、政治局常務委員会委員、党副主席、中央軍事委員会副主席、副総理、人民解放軍総参謀長に復帰が決まった。

 8月初め、自分が華国鋒国家主席のリーダーシップの下で働くことを確認した。少なくとも当面、鄧には華のリーダーシップを脅かすつもりがなかった。

 

第3部 鄧小平時代の始まり--1978年~1980年

 

  • 第7章 三つの転換点 1978年

 

 共産党の公的な歴史は、1978年12月18日か22日にかけて開かれた11期三中全会を、鄧小平の「改革開放路線」が指導した会議としている。

 しかし、実際にはこの会議は、11月の中央工作会議を公的に追認する手続きに過ぎなかった。

 華国鋒も鄧小平も、政治的な雲行きがこれほど完全かつ急激に変化するとは、予想すらしてなかった。中央工作会議は華国鋒によって招集されたが、なにが自分を待ち構えているか、彼が予知していた節はほとんど見られない。

 驚くべきドラマが11月11日から11月25日までの間に起きた。会議の焦点は経済から政治へと移っていた。

 華と彼が唱えた「二つの全て」が批判され始めたのであった。会議が始まると同時に、華国鋒は非常に多くの出席者が満足していないことを自覚した。

 周恩来死去後の第一次天安門事件の参加者に対し厳しすぎる批判をくわえるものであったからであり、また文革中に批判された多くの老幹部の名誉回復に華が消極的であったからである。

 華国鋒毛沢東の死後「右派巻き返しの動き」を批判してきたのは誤りであったことを認め、それが結果的には鄧小平に対する批判につながってしまったことを認めた。

 華国鋒や汪東興は当面の間、中央政治局常務委員会のメンバーにとどまることになったが、鄧は対立をさけることを優先した。そして、権力闘争の進行を国内にも海外にも決して表ざたにしないことをなにより優先した。

 華は党主席、国務院総理、中央軍事委員会の主席の地位にとどまることを認められた。鄧小平も党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席の肩書きを保った。

 しかし海外メディアや外交界は、中国の民衆と同様、実際には鄧が最高指導者の地位に就いたことをただちに察知した。

 会議では、経済最優先の時代には、経済に最も明るい陳雲が高い職務につくべきとの認識が共有された。陳雲は政治の大きな方向と重要人事の決定に対する影響力の点で、鄧と同等であった。

 

  • 第8章 自由の限度の設定 1978年~1979年

 

 三中全会の後で鄧小平は文化大革命の収束と改革開放の新時代へ向けた船出について民衆の広い支持を感じ取り、中国の人びとの表現の自由を拡大する二つの重要な議論を行うことを認めた。

 一つは一般社会へ公開されたもので、天安門広場にほど近い壁で自然発生的に始まり、「西単民主の壁」として知られるようになった。

 もう一つは党が主催した議論の場であり、部外者には閉ざされていた。それは一部の知識人と党の文化担当政策責任者が一同に会し、新たな時代における彼らの任務の指針を模索するものであった。

 西単の壁に集まる群衆は、初めはとても秩序正しかった。しかし数週間後には、民主主義と法の支配を要求し、政治的色合いの強いメッセージを張り出す人たちが現れるようになった。

 何ら取り締まりがなされないため、共産党全体や政治体制、そして鄧さえをも批判し始めたのである。

 動物園の従業員で元兵士の魏京生が、それまでの境界線を超える、鄧小平が「歩むのは独裁路線だ」と名指しの批判をするが、4日後に逮捕されると、壁を訪れる人の数はがくんと減った。

 西単の壁が閉ざされたとき、あえて講義した一般民衆はほとんどいなかった。党内の多くは混乱を防ぐために不可欠であったとして、鄧小平の行動を断固支持した。しかし深く当惑させられた党員たちも多かった。

 二月半ばに西単の壁を是認してわずか三ヵ月後にこれを閉鎖した豹変振りは、毛沢東以後の中国における重要な転換点の一つだった。

 鄧小平にとってもし神聖にして侵すべからざるものがあるとすれば、それは中国共産党であった。党に対する公の場での批判は許されないと協調した。

 知識人たちにとっては「自由の境界が狭められた」という当惑と失望を意味したが、現代化を進めるためには彼らの協力が不可欠であることが、鄧にはよく分かっていた。

 78年以前に許されていた以上の、より大きな自由の基準を認める必要があった。57年の毛沢東とは異なり79年の鄧は主流知識人の支持を失わなかった。しかし、92年に退陣するまで、自由の境界をめぐる一進一退の攻防に立ち向かうことになる。

 

 

 ソ連は1969年までには、中国にとって明らかにアメリカに代わる主要な敵になっていた。そのため、中国は「一本の線」を形成し、同じ緯度にあるアメリカ、日本、西欧各国と団結して、ソ連に対抗していかなければならないとしたのである。

 ソ連から包囲されるのを防ぐため、中国が果敢な行動によって相手に最も大きな打撃を与えうる場所がベトナムだと判断した。

 もし鄧小平が75年末に失脚していなければ、中越関係の完全な亀裂は避けられたかもしれない。

 中国軍の欠陥が深刻だということがわかると、彼は中国のパフォーマンスを向上させることに注意を向けるようになった。

 彼は近隣の東南アジア諸国との協力が早急に必要と認識し、関係強化のためにこれらの国々へ訪問した。

 彼らから支持を得るためには、まず現地の革命派に対する中国の支援を停止し、華人に居住国への忠誠を示すことを奨励しなければならないと分かった。

 これまでにないほど拡大するソ連ベトナムの脅威に対抗しながら、鄧はソ連に対抗する能力を備えた二つの大国、すなわち日本とアメリカとの関係をも強化しようとした。

 

  • 第10章 日本への門戸開放 1978年

 

 彼は、四つの現代化に対して日本以上に協力的な国はないことを知っていた。日本と協力関係を築くには、中国が安定しており、責任あるパートナーになる覚悟があることを日本に確信させなければならない。加えて、かつての敵と手を結ぶことに対する、中国民衆の反発を克服しなければならないことも良く知っていた。

 それは政治的勇気と決断を要することであったが、鄧も日本と八年間戦った兵士として、日本との関係改善に勇気ある一歩を踏み出せる強い政治基盤を持っていた。

 鄧小平が1977年半ばに復活したとき、日中関係を補強するための条約交渉はだらだらと四年もの時間を空費していた。主な障害は、中国の求めた反覇権条項に日本が消極的だったことである。

 当時の中国外交の文脈からすると、その条項の狙いが日本をソ連から引き離すことにあったのは明らかだった。

 しかし78年8月、注意深い言葉遣いでの微妙な変更を検討することで、鄧の「政治決断」の元に日中平和友好条約が調印された。

 ソ連は腹をたてたが、第三国条項があったために甘受した。

 中国が高位指導者を日本に送ることは、田中の中国訪問の返礼として望ましかったが、6年もの間、中国の指導者は誰も日本を訪れていなかった。鄧小平が日本を訪問する条件は明らかに整っていた。

 

 鄧は、2200年に及ぶ交流の中で、日本に足を踏み入れた中国の最初の指導者であった。

 多くの日本人が中国に与えてしまった苦痛に対して遺憾の意を表明した。中国ではテレビがまだ普及していなかったが、中国の民衆は日本人が鄧に対して示した温かい歓迎ぶりを知ることが出来た。

 十日間の滞日中に、鄧はあらゆる階層の人々に会った。彼が北京に招いた人々の多くが、今度は彼を客人として向かえてくれたのだった。

 それまでに会ったことのある人に対して中国人がそうするように、鄧は彼らを「古い友人」と呼び、再会の喜びを伝えたのである。

 園田外相と黄華外交部長が正式な批准書に署名し交換すると、鄧小平は福田を強く抱きしめた。福田は一瞬たじろいだが、すぐに我に返り、それが親善の気持ちの表れであることを理解した。

 経団連の主催する昼食会に出席した際、夕刻近くに日本記者会見で記者会見に臨んだ。

 彼は天皇を初め、日本のあらゆる階層の人びとに丁重な歓待を受けたと述べた。そして福田首相と素晴らしい会談が持てたことに言及し、日中の指導者は毎年会うべきであると言った。その訪問は短かったが、日中両国の友好関係が続くことを彼は強く願った。

 それはまさに日本国民が聞きたいと願っていたメッセージであった。彼が話し終わると会場は総立ちとなり、記者たちの鳴り止まぬ拍手が数分間も会場に響き渡った。

 日本のメディアは、鄧小平の来日の成功と日中両国関係の強化を熱狂的に賞賛した。中国での報道はより公式で抑制されていたが、メッセージの本質は同じであった。

 

  • 第11章 アメリカへの門戸開放 1978年~1979年

 

 ニクソンが1972年に訪中してから、中国はずっと早期国交正常化への期待を抱き続けていた。ところが、いつもアメリカの国内政治が障害となり、中国は5年もじりじり待たされる羽目になった。

 アメリカとの関係正常化を実現するため、鄧小平は多くの問題で臨機応変に対応していく覚悟だったが、台湾問題についてだけは、揺るがすことの出来ない原則があった。

 カーターが大統領補佐官のブレジンスキーを送り込むと、アメリカと中国は正常化交渉をどのように行うか秘密の話し合いを始めた。

 鄧小平は東京を訪れた際、アメリカの台湾の兵器売却に中国が反対しているということには触れずに、アメリカと台湾の経済・文化的な関係の継続には反対しないとだけ述べた。

 アメリカが台湾に兵器売却を継続するのに、アメリカとの国交を正常化するということは、鄧小平の生涯の中で最も重い決断の一つだった。彼がこのとき、なにをどう計算していたのかを示す記録はまったく残っていない。

 国交正常化の合意の妥結は北京とワシントンで同時に公表された。

 鄧小平は6週間後ボーイング707でアメリカに向けて飛び立った。訪米は、二つの国が手に手を携えて世界の平和を築こうとしていることの象徴とされた。彼の訪米は、アメリカ人一般の中国に対する印象を代えたが、中国では人びとの将来に対する思考様式や願望が連鎖的に変化し始めた。

 連日報道されていたTV報道やドキュメンタリーはアメリカの生活を好意的に映し出していた。対外開放によりハイブリッドな活力と知的ルネッサンスがもたらされ、それらが中国の長期的な再建を牽引していくことになる。

 鄧はわずか15ヶ月の間に5回の外国訪問をこなしたが、その後は一度も国外を旅することがなかった。

 

まとめ

 

 70年代後半の中国は西側先進国に対し多くの面で遅れ、教育の再生、そして海外からの知識の輸入、需要は切羽詰った問題でした。国内問題もソ連の脅威も抱えながら、

日米との関係改善という難題に成功します。

 とくに第10章に描かれている訪日の様子は、雰囲気に対する著述内容にやや留保がつくものの今の時代では考えられないような密接な素晴らしい出来事であったことに驚かされます。

 そして、中国はついに経済成長への道を歩み始めます。

 

(つづきます)

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/09/222358

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 2 毛沢東の死、四人組の失脚まで

続きです

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/01/27/231015

 

 一度は失脚したものの、華々しい復活を果たした鄧ですが、晩年をむかえてより疑り深くなった毛沢東や、大きく思想を異にする四人組などの間に軋轢を生んでいきます。

 

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 

 第2部 最高指導者への曲折の道 1969年~1977年

 

  • 第2章 追放と復活 1969年~1974年

 

 江西に送られると、鄧小平と卓琳は小さなトラクター修理工場で雇われて、午前中はそこで働いた。

 北京で攻撃を受けていた三年の間に体重を落としてやつれて見えたが、ここでは体重も戻り健康を取り戻した。常用していた睡眠薬も江西に来て二ヶ月ほどで完全にやめてしまった。

 50年代末期から60年代初めにかけて、毛沢東林彪元帥と鄧小平を最も有望な後継候補としてみなしていた。鄧小平も10人の元帥達とほぼ良好な関係にあったが、林彪とだけはうまくいってなかった。

 66年、毛は林彪を後継者として選んだ。林彪は後継者になるのを三度拒否したが、事実上の命令をうけてそれを受諾した。

 ところが以上に疑り深いは、林彪が自分の生きているうちに権力をうばうのではないかと疑念を持ち始め、71年夏に追放する準備に着手した。

 9月、不安に包まれた林彪が逃亡しモンゴルで墜落するが生存者は一人もいなかった。

 あまりにも突然だったため、世代交代の準備もできておらず、毛はトップの地位を守り続けたが他の指導者達により大きな政策決定の幅を認めた。

 毛沢東周恩来の手を借りるほか、軍の労幹部の葉剣英を呼び戻し軍の秩序再編にあたらせた。

 

 69年の故郷紛争以後、中国とアメリカは外交関係の再編を考慮し始め、71年にキッシンジャー訪中、72年にはニクソン訪中が実現した。

 毛沢東がようやく鄧小平を呼び戻したのは73年の事だった。彼が初めて公式な場に現れたのはその年のカンボジアシアヌーク殿下の晩餐会で、そこでは副総理として紹介された。

 毛は73年11月のキッシンジャー訪中直後にあわせ、一連の会議を開かせ周恩来を批判させた。鄧が周恩来を批判すると、毛は大喜びで呼び出して会談した。

 周恩来は公式には総理の座に留まったが、鄧小平は政治局と中央軍事委員会の正式なメンバーに任じられて、国連の中国代表にも周にかわり鄧を選んだ。

 癌で入院した周にかわって、毛が鄧に周恩来の任務を引き継がせようとしているのが明らかになると、極左派の江青たち四人組からの鄧小平への攻撃が始まる。

 

  • 第3章 毛沢東の下での秩序回復 1974年~1975年

 

 74年12月には毛と周はかつてのように再び協力して働き始めた。毛と周は死ぬまで主席と総理の肩書きを保持していたが、彼らの元で鄧小平が第一副総理、王洪文が第二副主席に任命された。

 王と鄧はこの二人の指導者から指示を受け続け、不満を感じればいつでも更迭できる体制であった。また宣伝部門江青率いる極左派に委ね、鄧が毛の遺産から距離を置くようなら封じ込めることができるようにしていた。

 鄧小平と葉剣英元帥は、毛沢東主席と中央軍事委員会の多数派からの支持を受け、75年には軍隊の規律の回復や規模縮小で大きな前進を成し遂げ、教育や技術水準を向上させる道筋をつけた。

 75年春までに、毛沢東王洪文に対する疑念は深まった。4月末から6月にかけて断続して開かれた政治局会議で、王は江青と一緒に批判され、自己批判をした。5月27日と6月3日には、彼に代わり鄧が初めて政治局会議を取り仕切っている。

 

  • 第4章 毛沢東の下での前進 1975年

 

 毛沢東の逆鱗に触れないように注意を払いながらも、鄧小平は革命を担うのではなく、国家を治めるのに貢献する人材を選ぶため、野心的に戦力的に動いた。彼は理論問題に取り組む文筆家の小さなグループを作ろうと毛に申しでて、この小さなブレーン集団は政治研究室となり、メンバーも増員された。

 鄧小平は他の指導者よりも先に、中国は世界に目を向ける必要があると認識するようになっていた。他国がいかに目覚しい改革を実現してきたか、そして中国がどれだけ後れてしまっているか、他の指導者よりもずっとはっきり感じ取っていた。

 75年には中国が市場開放や資本主義国から学んでよいのかどうかまだ合意がなかった。外枠を押し広げていくために、外国からの技術導入の拡大を促進した。

 11月には毛の同意を得て、主として第5次五カ年計画と76年の年次計画について議論する全国計画会議が開かれた。

 新しく策定されたこれらは、慎重な計画立案者たちにとり勝利を意味したが、より野心的な10カ年経済見通しを策定した理想化の間には食い違いが生まれ始めていた。

 科学機関の再建にも目が向けられ、中国科学院で実際の科学機関の整頓作業を指揮するものとして、鄧は自ら胡耀邦を選んだ。

 ほとんどの知識人にとっては、悪い状況が継続していた。周恩来は74年12月に毛沢東と会談し、再び高等教育の復活への希望を抱くようになった。周栄キン(金が3つ)が教育部部長に任命され、鄧小平も完全に指示したが、政治局から厳しい攻撃を受ける。

 周は病に倒れ病院に担ぎ込まれたが、病院から連れ出され50回以上も批判会議でねじ上げられたが、ついに会議中気を失い、翌日の夜明け前に死去した。

 11月、自分を尊重していないと疑い始めた毛は政治局に再び会議を開かせた。江青極左派の仲間達も、次々と批判に加わった。鄧は議長として必要最低限の発言をしただけで、それ以上はなにも言わなかった。

 その後政治局は二ヶ月にわたり、あまりにも多くの老幹部を次々に復活させ、「右派巻き返し」を図った鄧小平を批判する会議を開き続けた。鄧は毛に個人的な手紙を送り、助言をいただきたいとしたが、毛は返事をよこす代わりに批判運動を拡大した。

 鄧はもうが何を求めているかを理解し、新たな自己批判書を買いて1月3日に提出した。鄧は階級闘争を中心的な目標として据え続けなければならないと宣言するより、罰を受けることを望んだのである。

 自己批判書を提出して5日後、周恩来が死去した。その直後、華国鋒が鄧の後任に任命された。

 75年に毛沢東は、秩序、安定、経済発展をもたらすために譲歩しようとしたが、最後には我慢できない範囲まで鄧小平が手を広げてしまった。

 毛は失脚させ、批判を受けさせることが出来たが、部下の考えを支配する力も、部下達からの支持も失っていた。

 鄧は短期的には蹴落とされたが、頑固に抵抗したことで、後に有利な立ち位置を占めることが出来た。

 

  •  第5章 毛沢東時代の終焉を傍観 1976年

 

 周恩来毛沢東より早く死んだことで、毛は周の争議を手配し、その性質を決める権限を得たが、中共の基準からして周の貢献に対する敬意を最低限にとどめることで、多くの人びとの彼への思いを踏みにじろうとした。

 だが、毛の策略は裏目に出た。中国の多数の人びとは説得されるどころか、彼らが尊敬し思慕する周が、死後に当然与えられてしかるべき評価を与えられなかったことに失望したのである。ラジオや拡声器で周恩来の死が通知されると、一般大衆の間からは彼の死を悼む全国的で大掛かりな動きが巻き起こった。

 鄧小平を要職から追放し、大衆の前で非難する準備を始めてからも、毛は鄧への攻撃を制限した。当面、任務は削減するが、なお仕事を続けてかまわないとしたのである。

 清明節(亡くなった者を偲ぶ日)の少し前の3月25日、四人組の統制化にあった上海の新聞は、鄧に加え、彼の「支援者」だった走資派を批判する記事を公表した。読者には周恩来を意味していることが明らかだった。

 清明節の4月5日、夜があけると天安門広場の大衆の数は10万人に膨れ上がった。人びとは激しく憤り、「われわれの戦友をかえせ」と叫んだ。デモ参加者たちはこの日に自分達の意思を行動で示した。

 少なくとも政治的意識がどこよりもずっと高い北京では、毛は大衆の支持を失い、周恩来が彼らの英雄になり、鄧小平は彼らから最高指導者に就任するのにふさわしい支持率を獲得したのだった。

 毛沢東は鄧小平を完全に権力の座から追放した。それにも関わらず、鄧を子供達と一緒に安全な場所に移し、四人組には鄧の居場所を知らせるなと部下に指示したのである。

 天安門のデモから一ヵ月後、毛沢東は心臓発作で倒れた。意識は失わなかったが、その後かなり衰弱した。6月26日には二度目が、9月2日には三度目がおき、そして9日の午前零時10分、彼は亡くなった。

 中国は国をあげての服喪期間に入り、政治闘争はひとまず脇に追いやられた。

 

 10月に入ると、華国鋒は、四人組にたいして緊急に行動を起こさなければならないと覚悟を決めた。四人組の逮捕には、主席代行だった華国鋒と、中央軍事委員会副主席の葉剣英元帥、中央警衛団の責任者の汪東興が連携した。

 10月6日の夜、午後8時直前王洪文は警備隊に捕まえられ、その後35分間で四人組の脅威は排除された。

 華国鋒は自らの地位を固めるため、鄧小平批判を継続し、その復活を遅らせることを選んだ。多くの指導者たちはこのときまでに、鄧小平がいずれ仕事に復帰するだろうと考えるようになった。

 

まとめ

 

 この時期、周恩来朱徳毛沢東と、中国共産党を代表する大物達が相次いで亡くなります。矢継ぎ早に改革を推し進めようとした鄧は、毛からの疑念と四人組からの激しい攻撃を受けますが、最後には時間が勝利しました。

 国民に愛された周恩来の後継として、次回ではいよいよ鄧小平が最高の地位にたどり着きます。

 

’(続きます)

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/07/220708

ジョセフ・ヒースが経済学について考えてみた

  未読ですが、「ルールに従う」も話題になったジョセフ・ヒースの前著です。経済学と銘打たれていますが、彼個人は経済学の正式な教育さえ受けていないと書いています。しかし通読すれば分かるとおり、明らかに経済学に関する深い理解と違和感をもとに本書を書いています。左右両側への口撃はややわら人形論法な印象を最初受けましたが、述べられている意見は、まっとうなやり方をしかるべき対象にするという、いとも簡単で、そして難しいものです。

 

資本主義が嫌いな人のための経済学

資本主義が嫌いな人のための経済学

 

 プロローグ 

 

 資本主義の批判者はお世辞にも経済学をきちんと学んできたとはいえない。

 この結果として残念なことが二つある。

 一つは、左派のほとんどが、保守派が持説の支持のために決まってもちだすデタラメな論法を見抜けないこと。

 二つ目の問題とは、あまり成功しそうになく、恩恵を施したい相手に役立ちそうもない計画や政策の宣伝だか扇動だかで、善意の人に数限りない時間を無駄にさせてしまうことだ。

 私が学んだのは、「社会」について考えるとき必ず念頭におくべきポイントが以下のように四つあることだ。

  1.人はバカではない

   自分の計画を成就させるには他人のそれに考慮する必要がある。経済学者はこのことを社会的行為の戦略的次元と呼ぶ。

  2.均衡の重要性

   経済学者は社会的行為の戦略面に注目するので、ほかの社会学者に比べて、単なる行動パターンや統計上の相関関係にはさほどの興味を示さない。こうした反応をないがしろにすることが、社会政策が失敗する重要な要因である。

  3.すべては他のすべてに依存する

   実社会では多くのことが現実に多くの他のこと次第だ。市場経済がこのような巨大な相互依存のシステムを象徴している。

  4.帳尻を合わせるべきものがある

   この等価の原則はけっこう油断ならない。

 私は経済学者でないだけではなく、実際のところ経済学の正式な教育さえ受けていない。これは議論の信頼性を損なうためではなく、たんに経済リテラシーは言われているほどハードルが高くないことをしめすためだ。

 

第1部 右派(保守、リバタリアンの謬見)

 

  • 第1章 資本主義は自然 なぜ市場は実際には政府に依存しているか

 

 福祉国家の成功と失敗は右派にも左派にも苦渋をなめさせた。かつて彼らを左右に分かったイデオロギーの核心を捨てさせたのだ。

 どういうことか。端的に言えば左派はコミュニズムを、右派はリバタリアニズムをあきらめた。

 資本主義経済システムはハイエクが「自生的秩序」と呼ぶものとして生じたはずだったが、誤りであることが判明する。

 同じ目的のもとでさえ、全員がその共通の目的に向かって行動するためには、しばしば政府の「見える手」の介入が必要となる。

 市場経済を動かすためには、三つの基本的な協力のシステムが機能しなければならない。デイビッド・ヒュームが「所有の安定」「同意にもとづく委譲」「約束の履行」と述べたものだ。

 この三つの基本法リバタリアンに余儀なくされた最初の大きな譲歩だったが、西省国家の必要が認められたと同時に、転落への第一歩が踏み出されていた。

 ヒュームの基本法は活発な市場経済の土台としては明らかに不適切なことが分かった。所有権と契約法は19世紀の資本主義の基礎の基礎を築いたが、当時の資本主義の問題はろくに機能しなかったことだ。

 おびただしい数の銀行への取り付けに加えて、5回の全米規模の金融恐慌があった。結果として議会が取り組んだのは、資本主義制度の大きな改造だった。

 1914年の連邦準備制度の創設に続いて、1933年には連邦預金公社が設立され、政府の保証によって、取り付け騒ぎそのものがなくなり銀行が最も恩恵をこうむった。

 サブプライムローン破綻時に実業家達が政府に助けを求めてきたように、結果として国は、事実上、商取引の健全性を守るのに莫大な金額を費やしている。

 「小さな政府」や「レッセフェール」の資本主義への傾倒は、原理に基づいた個人の自由の擁護というより、投資する金のある人に恣意的に利益を与えることになっている。

 

  • 第2章 インセンティブは重要だ ……そうでないとき以外は

 

 経済学の核心は「人はインセンティブに反応する」、これこそが誤りの温床なのだ。

 無節操であることと私利から行動することの違いを明らかにするには「トロリー問題(5人轢き殺すか、レーン変更して1人の作業員を殺すか、作業員を突き落とすかのサンデルトロッコ!)」を考えると良い。

 いずれにせよ、作業員が死ぬべきだと考える人たちは、帰結主義者と呼ばれている。行動は厳密に結果によって評価すべきと思っているからだ。

 この帰結主義への傾倒でおかしいのは、この主義を支持する哲学者は概してこれを人がどう判断を下すべきかの理論として用いるのに対し、経済学者はこれを実際に人がどう判断するかの理論として用いてきたことだ。

 「ヤバい経済学」のレヴィットが研究する人たちは外的インセンティブの範囲内で生じる機会に乗じている。この人たちは心理学者が外的動機と呼ぶもの--金、地位、権力に動かされる。

 道徳性を重視する社会学者は「社会学者」と呼ばれるのに対し、そんなものはペテンだと思っている社会学者は「経済学者」と自称するのだ。

 経済学者がインセンティブを過大評価するのは許されるかもしれない。それは、ごくありふれた認知バイアスに陥っているということなのだ。

 何より明白な教訓は、人間心理はひどく複雑だということだ。経済学者のトレードマークともいえる、人間の合理性やインセンティブへの反応についての仮定は、甚だ単純化しすぎたものである。

 この単純化されたモデルが、素晴らしく有力で高度に一般化された結果を生み出すことがあるが、まったく的外れな予測をすることもある。

 この件に気づいて行動経済学の分野に向かう動きが目立ってきたが、残念なことにまだこの分野では経済学入門で教えるようモデルのような説明および予測の力を持つものは生み出せていない。

 

  • 第3章 摩擦のない平面の誤謬 なぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか?

 

 私達は用いる手段に関してだけ効率性を云々するのがふつうだ。

 糸のこぎりは電動のこぎりと比べて、木を切る手段としては非効率極まりない。では木を切るという結果についてはどうか?それは薪にするなど他の目的がないことには効率的とも非効率的ともいえない。

 これに反して経済学者は、結果が効率的か非効率的かを語るのだ。この語の意味に従えば、パレート最適な状態のような結果が「効率的」と称される。

 この効率性の概念と取引の効用にはきわめて密接な関係がある。けれども見えざる手の定理と、取引が効率性を高めるという言説には重大な違いがある。

 見えざる手の定理では、一つの自発的交換からでも効率性が高まることは、誰も疑っていない。しかし見えざる手の定理では、完全な競争市場が完全に効率的な結果を生むというのだ。

 経済学者がこの証明らしきものをするには、54年のアローの一般均衡モデルを待たなければならなかった。

 アローとドブリューが完全競争を説明するために導入した理想化が極めて極端なことは誰にでも分かる。

 彼らの理論の結果が現実の世界に何らかの直接の影響をもつためには、規模の経済があってはならないし、需給の決定に価格が影響される可能性も、取引費用もあってはならない。

 そして最も重要なのが、外部経済(外部性)、つまり他者に課される保障されない費用便益があってはならないことだ。

 誰でもわかるように、現実の世界とはあまり似ていない。

 特定の科学的理論に用いられるモデルを指して、非現実だというだけでは反論になっていない。科学に「摩擦のない平面」のような理想化を用いることは原則として何の問題もないし、経済学者の多くはこうした見地からそのアプローチを支持してきた。

 しかし、現実の世界が完全競争の理想から一転でもずれていたら、最善の結果が得がたいばかりか、完全競争になるべく近づけた状態が次善のほかの選択肢よりも悪い結果を生むことはほぼ確実である。

 物理や幾何学では理想に近くなるが、完全競争に関しては、完全にはとどかない範囲で条件を満たせば満たすほど、完全効率性の理想からは遠ざかってしまう。

 

  • 第4章 税は高すぎる 消費者としての政府という神話

 

 政府は富の消費者のように扱われ、民間部門は生産者のようにみなされる。実際は、国家が生み出す富の大きさは市場のそれとまったく同じである。つまり何も生み出していない。国民が富を生み、国民が富を消費する。

 これらが構成するメカニズムを通して国民が富の生産と消費を整えるのだ。

 政府が提供する便益の画一性については誇張されてることが多い。また、福祉国家が一定の財を提供する場合はたいがい、ごく控えめな程度に抑えて、消費者がその与えられた公的資格に、民間市場でさらに購入した財を上積みできるようにしている。

 だから消費者選択が制限されたことで最も深刻な損害をこうむるのは貧困層であるが、同時に貧困層が国から受け取る万人向けの財は、自力であがなえたであろう財よりはるかに価値が高い。

 

  • 第5章 すべてにおいて競争力がない なぜ国際競争力は重要ではないのか

 

 基本的に貿易は競争関係ではない。競争には勝者と敗者があるが、貿易とは協力関係だ。双方のためになる--そうでなければ貿易はしない。

 とはいえ、国際貿易の熱烈な支持者の多くは、この相互利益の言及によって国際貿易を主張するのではなく、うかつにも、ある種の競争という枠にはめて主張を損なう道を選んでしまった。

 このため、グローバリゼーションは勝者が敗者を犠牲にして利益を得るゼロサムゲームであるとの考えが強まっている。

 生産性は重要だ。しかし重要なのは、ある特定の国民経済内の相対的な生産性だけだ。アメリカの自動車メーカーの従業員が職を保てるのは(たしかに保てる限りのおいて)、ほかのアメリカ人労働者と比べて生産性が高いからであり、メキシコ人と比べてではない。

 一般的には豊かな国は高生産性部門比較優位をもち、貧しい国はたくさんの未熟練労働を要する部門比較優位を持つ。このために貿易の結果として、豊かな国に資本集約型産業の雇用増と、貧しい国に労働集約型産業の雇用増がしばしば重なることがある。

 

 

 自己責任の要求は往々にして、許容度ゼロの「自業自得」式の態度の表明である。もう一方の極端な態度は、道徳上はモラルハザード問題をまったく無視すべきだとの考え方である。

 保守主義者たちは政府の援助を、自立の精神を損なうとして非難している。これは保険制度の一般的な問題を道徳の観点から述べているに過ぎない。

 つまり、保障はモラルハザードを生じがちだというのだ。

 保守主義者たちが認識しそこねているのは、問題のモラルハザード効果はあらゆる保険制度に共通する特徴だということだ。その制度が公的か民間化は関係ない。しかし、あらかじめ選択効果が起こることは無視されている。

 民間保険市場は情報の非対称性に直面して失敗しやすいから、モラルハザード逆選択を生じそうな保険は、「最後の保険者」こと国が提供される場合に実現されがちだ。

 だからモラルハザードを政府のせいにするのは、筋が通らない。そもそもモラルハザード問題があるために、政府がその制度を運営するのが常なのだから。

 

第2部 左派(革新、リベラル)の誤信

 

  • 第7章 公正価格という誤謬 価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか

 

 左派にとって、豊かな工業化社会で食住をあがなえない人がいるのはゆるしがたいことだ。それだけなら問題ない。

 だが、ここで二つの大きく異なる見方がある。問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ。同様に、問題の解決法は二つある。一つ目は価格を変えること、二つ目は国民の収入を補うことだ。

 経済学に通じた左派がほぼ一致して好むやり方が、適当に競争的な市場が形成されるケースでは、価格は市場に設定させ、分配の構成の問題に収入から取り組むというものだ。

 価格操作によって社会的公正という二つのもっともな理由をあげる。

 分配の公正という観点からは非効率である。資源の不適切な割り当てによって多くの無駄が生じる。結果としてゆがめられた価格から市場に予期しない反応が起こる。

 これまで論じたのは価格を下げたいというケースだが、貧しい生産者にチャンスをあたえるために価格をあげたいというケースもある。

 しかし慈善的価格付けは、富の移転を起こすだけではなく、期待には反するが完全に予測しうる結果になるように、インセンティブをもかえてしまう。

 そのような場合には、人道目標はまとまった移転によるほうが、はるかによく達成されるだろう。

 

  • 第8章 「サイコパス的」利潤追求 何故金儲けはそう悪くないことなのか

 

 利潤が資本主義で演じる役割を考える前に、広く蔓延した誤りが二つある。

 一つ目は「営利」と「私利」の単純な混同によるものだ。私企業の経営者にとって利潤の最大化は概して利他的な行動だ。利益はほぼすべて他人の手に渡るのだから。

 したがって、組織の目標と個人が行動するときのインセンティブを混同し、それをもとに道徳的な判断を下せば、とんでもない誤解につながる。

 二つ目は、「社会」が企業に利潤の最大化を白紙委任しているという、広く流布している印象だ。

 実際には、競争市場が構成されている場合だけで、構成されないところでは、ほぼ例外なく、政府の規制により利潤の最大化は明確に禁じられている。

 このため、電力供給やケーブルテレビなど自然独占の状態にある企業は値上げしたければそのつど政府に許可を求めねばならない。

 利潤の道徳的地位をめぐる論争でもう一つの不毛なあいまいさの原因は、「金儲け」と「利潤をあげる」ことの混同である。

 利潤は諸悪の根源で、社会はもっと公益に積極的に関心をもたせることで改善されるとの考えは、社会がすでに私企業から社会的便益を引き出すことにかなり成功してきたという事実を無視している。

 間接的には競争市場を生み出すことで、直接的には規制と課税によって、国家は私企業を高度にコントロールしている。

 

  • 第9章 資本主義は消え行く運命 なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに思えるのに)

 

 景気後退の見かけは需要の全般的な不足である。しかしセイの法則のように、財それ自体から財の需要が生じる。供給がそのものの需要を生み出すのは、供給が需要であるからだ。

 だから一般過剰生産は一般に、法則に例外を認めることが可能でなければ起こりえない。

 純粋な現物交換経済にそのような例外はない。だが市場経済の発達により、事情はもっと複雑になった。

 最初に出てくる示唆は、貯蓄のせいで供給過剰が起こるのではないか、ということだ。

 もし貨幣の需要が急増するとしたら、どのように見えるだろう。ほかのすべての需要が減少しているように見える。

 ちょうどインフレで、すべての財の価格が上昇して見えるが、貨幣価値が下落しているだけなのと同じで、景気後退ではすべての財の需要が減少して見えるが、実は貨幣の需要が増大しているだけなのだ。

 ケインズの革命的かつ多くの人には信じがたかった主張は、現実世界の景気後退はどれも基本的に同じ構造ということだ。

 結局それは経済のなかでの通貨の流通の「不調」が引き起こす貨幣的現象であって、資本主義システムの「固有の矛盾」ではないという。

 問題がシステムの構造的特徴ではなく、システムの残りは無傷に保ったまま不調を修復する方法を考え出すことが出来る。

 市場があるか否かではなく、市場がいかに管理され、いかに包括的で人間的なシステムにされるべきか、協力による便益と負担をどのように分配するかが問題なのである。

 

  • 第10章 同一賃金 なぜあらゆる面で残念な仕事がなくてはいけないのか

 

 結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。

 総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。

 賃金について論じるときは、基本的な経済上の事実をつねに念頭に置いておく事だ。

 第一に、人間の条件の大本は極貧状態ということ。人類史の大半は生存水準スレスレの生活をしていた。

 第二に、不公平は吹聴されるほどの大事ではないことだ。低開発国の根本的な問題は、富の配分が悪いことではなく、十分な富がないことだ。だから何より優先すべきは経済成長である。

 国民所得の労働者への分配率は長期にわたってかなり安定していることにも留意したい。

 実際、どの国の庶民の所得も、その国の社会・政治制度に労働がいかに扱われているのかで決まるのではない。

 それは労働者の生活の質に大きな影響を与えるが、その富を決める最重要の要因ではない。分配率は重要だがそれほどでもない。

 本当に重要なのは労働生産性の平均水準である。これが長期的に結局は賃金を決めるのだ。

 特定の賃金率が公正か不公正かという直感的道徳的判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策につながるのがおちである。

 

  • 第11章 富の共有 なぜ資本主義はごく少数の資本家しか生み出さないか

 

 よいアプローチは、貧困の大半は極めて厄介なもので、貧困者の自滅的行動パターンでさらに悪化するという明白な事実を認めつつも、右派の政策的な含みに応じないことだ。

 そうした政策が問題なのは、保守主義者が自己責任の旗の下に、モラルハザード問題と双曲割引効果(近視眼的な行動に加えて、哲学者が伝統的に「意思の弱さ」と呼ぶ現象を生み出す)との違いを無視してしまうからだ。

 自身の選択の結果に甘んじて生きるよう強制することが、前者には功を奏すかもしれないが、後者にはさほど効果がなさそうである。

 未来を割り引く人の問題点は、確かなインセンティブでもかろんじることだ。このまさに同じインセンティブを解決法として提示しても、結局ほとんど解決にならない。

 極端な双曲割引関数をもつ人たちに必要なのは、有効なセルフコントロール作戦を容易にするためのインセンティブの再構築である。

 期待できる戦略は、国民にいかに生活すべきかを指図する制度と、もっと実り多き人生を送るために必要な責任を果たすのを手伝う制度の区別も付けられない、そんな古い考えに意義を申し立てることである。

 

  • 第12章 レべリング・ダウン 平等の誤った促進法

 

 完全競争市場が完全に効率的な結果をもたらす理想の世界とほぼ同じ理想の世界では、効率と平等の間になんら緊張関係はない。

 資本主義の効率と社会主義の平等は同時に得ることが出来る。この有意義な結果は、厚生経済学の第二基本定理と呼ばれる。

 すべての結果は二つの選択から生じると考えられる。「どれくらい多く」分配するかの決定と、「誰が何を得るか」の決定である。

 原則として、この二つの選択は相互に関係はしない。実際、効率を犠牲にして平等性を高める提案を考え出すなど、いともたやすいことだ。

 真の進歩的な政策の精髄は、効率性のほうに大きな犠牲を求めないで平等性を改善する方法を編み出すことである。現代経済学はそれが可能だと教えている。

 

エピローグ

 

 私達の問題はたいがい問題を直す意思に欠ける事ではなく、直す方法をしらないことである。

 イースタリーが援助と開発に関する近著でこのことを劇的に書いている。

 なんでこんなに多くの子供達がマラリアで死んでいるのか?けち臭い話だ!もっと金を出さなければならないのは明らかだ。

 イースタリーは質問を反転させる。西側諸国が過去5年間で2兆3千億ドルを超える金額を対外援助に費やしたこの世界で、なんで援助機関はまだ、マラリア死の半分を防ぐことが出来ないのか。これは単なる資金不足の問題のはずがないとわかる。

 第一の教訓は、問題は複雑だということだ。

 謬見というのは厳密には、晋なる前提から謝った結論へ導く主張にすぎない。

 謬見がとりわけ経済学の分野で根深いのは、人は複雑な物事をよく理解できないからである。

 手っ取り早い解決法はあるか?ない。だから本書はハッピーエンドとはいかない。これまでに得られたのはせいぜいいくつかの改善点と、ほかにどんな改善が出来そうかを考えるための知的ツール一式くらいだ。そこにこそ現代経済学の価値がある。

 

まとめ

 

 社会学がともすれば悲惨な水準で、噴飯ものの提言を大真面目に主張するどこかの国とは違って、分野横断的にこれほど高い水準の提言を一般向けで語ることのできる哲学者がいるというのは驚きとともに羨ましくもあります。ぜひ「ルールに従う」も読んでみたいと思わせる内容でした。

 

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)