長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 1

中国の経済成長と、最近の日中関係の悪化を見るにつけ、まずその名を語らねばならないのは鄧小平です。私の年齢では「ジャパンアズナンバーワン」も読んだことはなく、エズラ・ヴォーゲル氏の著作を読むのはこれが始めてなのですが、非常に内容の濃い調査と聞き取りにより成立している、他の一級の伝記と比べても見劣りのしないとても素晴らしい内容となっています。多少美談化、超人化の扱いのきらいは目に付くのですが。

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 
  •  まえがき 鄧小平を探し求めて

 

 鄧小平の活動を客観的に記録した最も基礎的な文献は2004年に出版された、75年から97年に死去するまでのほぼ毎日の活動などを記録した「鄧小平年譜」である。

 いくつかの最も敏感な話題には言及せず、政治的なライバル関係にも触れないが、鄧がいつどのような状態で誰と会い、なにを話したのかということを知る上でとても有用である。

 鄧小平個人の考えについて最も深みのある解釈を提示しているのは、彼の末娘の鄧ヨウ(木へんに容)「わが父・鄧小平」と「わが父・鄧小平--文革歳月」である。

 前者は49年以前の生活を、後者は69年から73年にかけて、江西省へと追放された両親に付き添ったときのことを記している。

 英語の文献で有用となったものとしては、「鄧小平帝国の末日」「近代中国の不死鳥--鄧小平」「ニュー・エンペラー--毛沢東と鄧小平の中国」などがある。

 インタビューした元当局者は多様で、一方に鄧小平を賛美する人々がいれば、他方には厳しい批判をするものがいた。後者は彼が胡耀邦や知識人を完全には支持せず、政治改革を推し進める機会を悲劇的に逃してしまったと考えていた。

 

  • 序章 鄧小平の人物と使命

 

 何度か短い中断はあったものの、経歴全体を通して、鄧小平は最高権力の座にいつも十分近いところにいたし、最高指導者たちがさまざまな状況にどう対応するのかを内側から観察することができた。

 中国を豊かで力強い国にする方向を探すという使命を実現しようとするなかで、鄧小平の役割は次から次に根本から変化した。

 1949年以前は革命家だったのが、その後、社会主義国家の創設を手伝う建設者になった。

 文化大革命中の69年から73年にかけ、彼は追放先の僻地で、どのような変化が必要なのか反芻しながら時を過ごした。

 そして毛沢東がまだ生きていた74年から75年にかけ、彼は中国の秩序回復の手助けを許され、結果的に後で自分が実現することの基礎固めをした。

 77年に再復活すると、彼は改革者になり、最初は華国鋒の下で働き、78年以降は最高指導者となった。

 

  • 第1部 鄧小平の来歴

 

  • 第1章 革命家から建設者へ、そして改革者へ--1904年~1969年

 

 鄧小平は42歳で亡くなった母のことを非常に尊敬していた。父は単に、遠い存在であった。父は14年に県の警察署長となった。賭博で負けてほとんど破産してしまったが、その後もずっと小平の教育を支援した。

 第一次大戦で多くの若者が戦争に出てしまったため、フランスでは工場労働者が不足していて、15万人の中国人労働者が雇用されることになった。

 生活費を稼ぐためにアルバイトをしながら、フランスの大学にパートタイムで通うという趣向の、勤工倹学というプログラムを利用して、20年に鄧はフランスに渡った。

 21年7月に中国共産党が設立されたというニュースを聞き、フランスの共産主義者を名乗るものたちも「中国社会主義青年団」を結成する。鄧小平もその場に参加しており、周恩来総書記に就任した。

 23年6月、孫中山が国民党への入党を宣言すると、フランスの共産主義者たちもヨーロッパの国民党組織に参加し、鄧小平も国民党のヨーロッパ支部のリーダーの一人に昇進した。

 やがてリヨンの党組織のトップに任命されるが、デモの組織化の宣伝工作に従事していたことで逮捕の標的にされていることを感じ取り、ドイツ経由でソ連へと逃亡する。

 モスクワには中国共産党のメンバーの養成のために中山大学が創立されていて、そこでの鄧小平に関する記録は「最も優秀な学生の一人である」と褒め称えられている。

 27年1月にはコミンテルンにより陝西省に派遣される。4月に国民党と共産党が分裂すると、上海の党本部に出向き地下活動に従事する。

 8月に、共産党員をあちこちで虐殺していた国民党への対応を話し合うために、共産党の21人の指導者が緊急会議を開く。彼は記録係として参加し文書を作成したが、この会議で始めて毛沢東に出会った。

 1929年、共産党は広西省に鄧小平を派遣し、軍閥と連携し、共産党の根拠地を構築する任務を率いて、百色と龍州の町の制圧に成功する。軍事同盟を構築したり、補給物資を調達したり、チワン族指導者と協力するなど、幅広い重要な責任を担ったが、当時の全ての都市部の武装蜂起と同じように広西蜂起は完全な失敗に終わり、鄧小平と協力したほとんどの指導者は、戦闘か、もしくは指導力を疑われ内部粛清で殺された。

 上海に戻った後、出産を控えた妻を尋ねたが、出産後妻は亡くなり、しばらくして子供も死んだ。次の職務を待つ間、上海の革命家阿金とともに過ごす。

 数ヵ月後、江西の中央ソビエトに派遣される。その付近では毛沢東の軍隊がいくつかの県を征服して地方政府を樹立していた。妻となった阿金と着任した鄧小平は毛沢東を高く賞賛するようになった。

 党中央の幹部達は、鄧小平が敵軍への攻撃を十分に行っていないと非難し、毛派の頭としてのちに「最初の失脚」と呼ばれる糾弾を受ける。阿金までもがこの攻撃に加わり、鄧の攻撃者の一人と再婚してしまう。かつては快活で外交的な人間とみなされていた鄧は、より静かであまり話をしない人間になってしまう。

 蒋介石の執拗な攻撃で、共産党は長征に乗り出すこととなる。この時期生き残りが減るにつれ8万の兵は1万以下に減り、その頃毛と何度も話をする機会があったと思われる。

 

 日本軍が侵略を初め国共合作が成立すると、毛沢東は1937年に最も有能な将軍である劉伯承を129師団の師団長に、その組になる政治委員で第一書記として任命する。

 39年に鄧小平は卓琳と結婚し、じきに三人の娘と二人の息子を授かる。この結婚は58年後に鄧が死去するまでつづく。

 大戦が終わると、シンキロヨと呼ばれる数百万の人口を抱える広い地域で最高の共産党幹部となる。このとき若き共産党指導者の育成が主な任務であったが、このとき選んだ趙紫陽と万里の二人は、78年以降に重要な役割を担うこととなる。

 国共内戦が激化し、やがて三大戦役の一つとなる准海戦役が始まる。国民党約60万、共産党50万以上の軍事史上に残る戦いであった。戦役開始から8日後、毛沢東は層前線委員会の設立を明示、50万以上の共産党軍がとその書記となった鄧小平の指揮下に入る。

 この戦役での鄧の指導力は是非を呼ぶ。防御のための塹壕が少なかったこと、前進を主張し必要以上の犠牲者を出したことによる。しかしながら戦役は後半では相手を圧倒し、蒋介石の軍はこの後共産党軍に圧倒されることとなった。

 1984年、鄧は当時の中曽根首相に一生のうちに最もうれしかった出来事を聞かれ、国共内戦の勝利をあげている。彼が特に強調したのは揚子江の渡河の成功であった。

 49年に共産党は全国を支配する。中国の六大地区の一つ一つを手にするたび、共産党はその地区の統治のための地方局を設立した。六大地区の中で最後に組み込まれた西南局を代表する第一書記には鄧が任命されることになった。

 52年、各地区の指導者達が中央政府に配置換えされると彼は中央政府副総理に任命される。56年になると、くわえて中央書記処総書記、および中央政治局常務委員会のメンバーにも就任する。

 53年、薄一波が財政部部長について、課税見積もりが甘いとみなされ解任されると後任に任命される。

 56年、農業と手工業が集団化、工業が国有化され共産党は第八回党大会を開いた。45年の第七回以降の始めての党大会であった。

 鄧小平は大会で中心的な役割を果たし、共産党中央書記処総書記に昇進して、政治局常務委員会のメンバーになり、共産党最高指導部6人(毛、劉小奇、周恩来朱徳、陳雲に次ぐ)の一人となる。

 毛沢東が57年に反右派闘争を開始すると、この闘争を鄧にとりまとめさせた。この闘争は科学技術について最も優れた頭脳を持つ者たちを破滅に追い込み、それ以外の多数を主流から遠ざけた。直後に進められた大躍進政策が始まるが、後年、鄧は娘に、毛があまりにも甚大な間違いを犯していくのを何故止められなかったか後悔していると語ったという。

 

 大躍進の大きな被害は、毛と鄧の間に溝を作った。

 64年にフルシチョフが失脚すると、毛は個人崇拝の貫徹を要求し、走資派の攻撃のために文化大革命を開始する。大多数の上級幹部が指導的な地位から追放され、劉小奇が咎めると毛の矛先は劉と緊密に協力して働いていた鄧にも向けられた。

 年末以降、何ヶ月もの間メディアは劉と鄧の批判を展開し続け、毛の後継者と目されていた劉は河南省の開封で軟禁され、治療も受けられず、妻が別の牢獄でうなだれている間に死んだ。

 67年、毛は鄧を中南海の自宅に軟禁し、子供達が家の外に追い出されると、子供達の消息は二年間分からなくなった。辱めも受けず、料理人と小間使い一人ずつを維持できたが、それは毛が忠誠への教訓が与えようとしたためだった。

 両親のように庇護を受けられなかった子供達は紅衛兵の攻撃の対象となり、その後いずれも農村に送られた。

 69年に高位指導者はソビエトに対する防衛準備の組織化のため農村に送られ、鄧は江西省に旅立つが、その道のり、彼は中国の問題は毛沢東個人のものではなく、大躍進と文化大革命をもたらしたシステムそのものの、深い欠陥に起因すると考えるのだった。

 

まとめ

 

 上下巻合わせ約1000ページの内容ですが、上記までで約100ページという事でかなり駆け足での鄧の前半生の紹介となっています。中国共産党史についてなら、毛沢東関連の伝記などを中心にもっと詳しい書籍は多々ありますし、抗日戦や国共内戦の描写はやや物足りない印象は受けましたが、毛との恩恨入り混じった感情はその後の彼の行動に関しての重大な伏線となっていきます。

 続きます。