長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

0.01%対99.99% ジョブズやバフェットを私達はどう捉えるべきなのか

 スティグリッツとアセモグル激賞と書かれた帯に惹かれ手に取りました。まだオキュパイ・ウォールストリートも記憶に新しいですが、糾弾されていた1%(世帯所得100万ドルクラス)を扱うというよりは、そのなかの飛びぬけたゲイツやスリム、バフェットから0.01%(世帯所得2400万ドル)以上のプルトクラートと呼ばれる最富裕層についての内容です。

 

グローバル・スーパーリッチ: 超格差の時代

グローバル・スーパーリッチ: 超格差の時代

 

 

  • はしがき 

 

 2009年と2010年の景気回復を見てみる。アメリカ人の99パーセントの所得はたった0.2%しか伸びていない。

 ところが、上位1%の所得は11.6パーセントも増えている。

 新興国の急成長の裏でも同じようなことが起きている。

 本書は、資本家はわれわれに必要な存在であるという考えを出発点にする。

 一方で本書は、結果的に現れる現象もまた重要であることと、プルトクラート、すなわち桁外れの超富裕層の人びととその他の人びととの格差が広がっている状況は、今日の資本主義の作用の結果であり、未来を形づくる新しい現実であることについて論ずる。

 

  • 1 これまでの歴史と、その重要性について

 

 現代に目を注げば、いまの金持ちは昔の金持ちとも異なる。その多くは自力で富を築いた者か、その後継者である。

 彼らは努力家で、高学歴で、世界を活躍の場とする実力者であるから、世界規模の厳しい経済競争を勝ち抜くだけの能力があることを自負している。

 その結果、それほど華々しい成功を収めてない庶民に対しては、アンビバレントな感情を抱くようになっている。

 

 産業革命の結果、世界はがらりと変わった。産業革命プルトクラート、かつて「泥棒男爵」と呼ばれた人びとを生み出すとともに、彼らとそれ以外の人びととのあいだに格差をつくった。

 そして1970年代、世界経済はふたたび大きく変化し、戦後の社会契約もがらりと変わった。

 今日、とてつもなく強力な二つの勢力が経済変化の原動力になっている。テクノロジー革命とグローバル化である。

 われわれが生きる現代は、二つの少し異なる金ぴか時代が並行している状況にある。つまり、西洋には第二の金ぴか時代が、そして新興国には第一次金ぴか時代が訪れているのだ。

 2011年の論文「チャイナ・シンドローム」は、貿易の利得と損失は等しく分配されるわけではないことを鋭く指摘する。

 すなわち、この分配影響によって労働市場は二極化する。「きつい仕事ときれいな仕事」、その中間はいまや空洞になっている。

 著者にスティグリッツは、まさに得意満面で語った。「じつのところ、完全なグローバル化が実現すれば、アメリカの賃金は中国と同じになる。これが完全市場の意味するところだ。」

 社会格差とは金持ちと貧乏人の格差だけのことではない。いまやスーパーリッチとたんなる金持ちとのあいだにも格差が生まれている。

 

 

 経済学界隈で、所得格差の拡大がもたらす社会と政治への影響を深く憂慮しているサエズも、現代のプルトクラートの特徴として、彼らが「労働する金持ち」である点をあげている。

 今日のグローバル・プルトクラートは、自力でその立場を得たことを自己イメージの中心にすえている。そうして、彼らが持つぜいたく品、地位、影響力を正当化しているのだ。

 高卒の若者に比較した大卒の若者の賃金プレミアムは、1979年から2005年までに2倍以上に増えた。重要な事実として、超英才教育は大きすぎる見返りを与えている。

 アイヴィリーグと呼ばれる名門大学の一年生の総数は国内の大学入学年齢の1%そこそこである。この1%は、成人後に所得上位1%を形成するにあたり大変有利になる。

 今日のプルトクラートの多くは、だいたい10年前か20年前に現在の職業についてる。だが、その前にすでに何らかの偉業を達成し、さらに大きいチャンスをつかむに値する人間になっていた。

 

 昔からスーパーリッチは、慈善事業は、それによって精神的な見返りを得られることに加えて、社会に認められる方便になりうるし、不朽の名声をもたらす場合すらあると考えてきた。

 驚いたことに、事前資本家達は、慈善事業のしくみにとどまらず、政府のしくみを変えることまで望んでいる。実際及ぼす力は大きく、一国の社会的セーフティネットを意図せず変えることすらある。

 

  • 3 スーパースター

 

 所得格差の拡大の原因をめぐっては議論がさかんに行なわれ、さまざまな原因が挙げられているが、おおよそ意見が一致してるのは、能力偏向型の技術進歩が、おそらく唯一の重要な要素であることだ。

 専門分野にマニアックな知識を持つ、いわゆるギーク、とりわけ桁外れの成功者が台頭したことで、戦後時代にきっぱり区別がついた。つまり、ミドルクラスが景気回復を勢いよく後押ししていた時代に終止符が打たれた。

 最大の勝者は銀行家である。他人の金の管理という地味な作業にいそしむ大型金融機関に支配されていた金融業界はすっかり変貌した。リスク、レバレッジ、ハイリターンを専門に扱う、因習にとらわれない企業化がのし上がるセクターに生まれ変わったのだ。

 

 クライアントが豊かになった事、クライアントが増えたこと、あるいは金を出してもらう相手との取引条件が良くなったことにより、スーパースターが自らつくりあげた自分の価値に対し、より多くの報酬を支払ってもらえるようになる。

 そして、スーパースター現象はそれ自体を糧にして継続するのである。「持てる者は与えられ、いっそう豊かになる。だが持たざるものは、なけなしの持ち物まで奪われる。」

 われわれのほとんどはスーパースターではないものの、好機さえつかめればスーパースターになれると信じている。実際には、われわれはプレイヤーを支える側の人間である。

 これは、民主主義時代のスーパースター経済の皮肉である。勝者総取り経済においては、トップの空間に余裕がなく、大半の者が弾き出されてしまうのだ。

 

  • 4 革命への対応

 

 新興国で一連の変化が生じている。1980年以降の広範囲に及ぶ潮流により、権威主義体制はもっと民主主義的な体制にとってかわられ、国営の閉鎖的な経済はもっと開放的になった。

 テクノロジー面にも一連の変化が起こった。最終的にこれら二つの大変革は、ペースの速い、不安定な世界をつくりあげた。

 革命的変化はいまや世界的現象になっているが、誰もがそれに対応できるわけではない。革命への対応に伴う経済的な付加価値は、スーパーエリートをつくることに役立つばかりではなく、スーパーエリートとその他の人びととの格差を拡大する力の一つでもある。

 中期的には、世界をあらゆる人びとにとってよりよい場所にしてくれるが、短期的には大勢の敗者を作り出す。

 不確実な状況や故郷を離れることを恐れないならば、新興国のフロンティア経済で一儲けすることは、先進国で市場占拠率をどうにか1%増やすことよりもずっと簡単なのだ。

 ある環境のもとでは、行動しないことが最大のリスクになる。生き残るために大胆な行動をとる必要はないのかもしれないが、成功のためには、たしかに大胆になる必要がある。

 われわれが生きているのは二都物語ならぬ二経済物語の世界である。かつての経済秩序における勝者たちの生活とキャリアが破綻しつつあるのだ。

 

  • 5 レントシーキング

 

 スーパーリッチの時代、われわれはエリートの動向につねに注意していなければならない。

 彼らは政治力を駆使し、経済にさらなる価値を付加してパイ全体を大きくすることではなく、すでに存在するパイの自分の取り分を大きくすることで金儲けしようとする。

 格差が広がるにつれ、割り当てのしなおしによる利得「レントシーキング」が政治問題として注目を集めるようになっている。

 国有企業の二大巨頭であった旧ソ連諸国と中国は莫大な資産を民間の手に譲り渡した。インド、メキシコ、ブラジルなどは、国有企業と天然資源を民間に売却している。

 どの国であれ、目的は政府を外へ追いやることだったが、それを実践したことが、経済史上最大規模のレントシーキングにつながったのである。

 ウォール街、シティ、フランクフルトの銀行家たちも、自国の規制機関と立法機関が自分たちに都合のいい決定を下してくれるおかげで富のほとんどを築いてきた。

 誰が金持ちになるかを決めるのは国である。その点は、自国の政府を選び、その決定に影響を及ぼすことに、プルトクラートが多くの時間と金を費やしている事実にあらわれている。

 いまや、レントシーキングまでグローバル化しつつある。合法的腐敗もまたグローバル化しつつある。危険なのは、レントシーキングを手がけるグローバル・オルガリヒの登場である。

 

  • 6 プルトクラートとそれ以外の人びと

 

 プルトクラートは、アメリカのミドルクラスの窮状に同情的であるとしても、自分たちがその窮状に加担してしまうのは致し方ないという考えだ。

 西洋、とりわけアメリカでは、スーパーエリートの台頭に伴い、ビジネスの利益は経済全体の利益であるという確信が強まった。

 これはあ大きな政府対小さな政府の問題にとどまらないのである。

 むしろ問題は、企業の利益とコミュニティ全体の利益がつねに一致するかどうかであって、一致しないとすれば、政府が、前者にいくら意義を申し立てられても後者を守れるだけの意思、権威、頭脳を持っているかが焦点となる。

 

  • 結論 

 

 国家が成功するか失敗するかを分けるのは、その統治のシステムが包括的か収奪的かであると主張するアセモグルとロビンソンは主張する。

 包括的な国家では、社会の統治や経済的機会への参入の方法に関して、あらゆる人びとに発言権が与えられている。包括的な社会の多くは、包括性を高めることで豊かになり、それが包括性をさらに高める善循環の恩恵を受けている。

 しかし善循環は断ち切れることもある証として「ラ・セッラータ(貴族閉鎖)」の件を引き合いに出している。

 いい例として取り上げられるわけのひとつは、自分達が属する社会を閉ざしてしまったヴェネツィアの寡頭制支配者が、開かれた強い経済から生まれていることだ。

 彼らは最初から寡頭制支配者だったわけではなく、自分達でそのようになったのだ。

 格差拡大に対する反応として圧倒的に多いのは、プルトクラートを善玉と悪玉に分けようとする試みだ。

 しかし、見分けるのは至難の業である。また、善玉と悪玉の差は大きいと考えたがるが、現実にはそれほどでもない。

 包括的経済と収奪的経済は大きく異なるが、経済エリートは彼ら自身と彼らの企業に競走上のアドバンテージを勝ち取る点で互いによく似ている。

 重要なのは善玉と悪玉の差よりも、自分の社会で適切な規則が定められ、その執行を可能にする監視体制が敷かれているかどうかである。

 

感想

 

 かつてNYTのフリードマンはフラット化する世界と喝破しましたが、その過程のなかで、あるいは混乱に乗じて、かつての尺度では捉えきれないほどの桁違いの最富裕層たちが誕生し始めました。決して遠くない一昔前は西武の堤氏が世界一の富豪であったことを考えると、おそるべきスピードであるともいえます。

 本書はアセモグルやスティグリッツだけではなく、ジョブズやソロスやリード・ホフマン(リンクドイン)、シェリル・サンドバーグまで引き合いに出されていてなかなか面白い内容であるし、経済だけではなく政治学的な方面も射程に捉えた良書であるといえます。邦題やデザインがやや低俗なイメージも与えかねないのは、内容の素晴らしさに比べるとやや残念ではあります。

 

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

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フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

 

 

 

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源

国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源

 

 

 

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源

国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源

 

 

「日本人になった祖先たち」のDNAで読み解く日本の古代史

 先日も卑弥呼の時代と思われる鏡が魔鏡であったというニュースがありましたが、あの鏡も中国では発掘されておらず、また未だ邪馬台国の場所さえ確定されてないという停滞した日本の考古学ですが、科学的なアプローチから日本の歴史を知ろうという試みも進んでいます。

 

日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)

日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス)

 
  •  第1章 遺伝子から人類史をさかのぼる

 

 個々の遺伝子を特定の血縁で追求することは不可能ですが、親の持つDNAがそのまま子孫に伝わるものも存在します。

 それが母から子どもに伝わるミトコンドリアのDNAと、男性に継承されるY染色体を構成するDNAです。

 ミトコンドリアのDNAは構造が比較的単純で80年代から研究が続けられており、各地域民族のデータがかなりそろっています。

 Y染色体の方は、ようやく世界各地の人が持っている変異の全貌が明らかになりつつあるところで、系統の研究に関してはようやく制度の高いものが出つつあるところです。

 ミトコンドリアDNAの多様性に関する研究の結果、DNAの制限酵素切断パターンとregion Vの九塩基欠損によって大きく四つのグループに分けられることがわかりました。

 それぞれのグループにA~Dの記号が付けられ、このグループを専門用語でハプログループと呼びます。ハプロとは「単一の」という意味です。

 その後も制限酵素認識部位の変異が、世界の各集団で続々と見つかり、数十のハプログループが認識されるようになりました。

 現代人の遺伝子に見られる変異の分布が偏りを持っているとき、その分布の状態から人類の拡散の様子を類推することができます。

 

 

 人類集団は大きく四つのグループに分かれます。そのグループをクラスターと呼びますが、DNA分析による区分けでは四つのクラスターのうち、三つまでがアフリカに住む人だけから構成されています。

 残りの一つのなかに、先のクラスターに含まれなかったアフリカ人と、それ以外の世界のさまざまな集団に属する人たちが集まります。

 さらに、この最後の集団のクラスターを見ると、分岐の先のほうでより小さなクラスターに分かれています。

 その一つはアフリカ人だけを含んでいますが、残りのクラスターは、片方がアジアの集団だけから構成されており、もう一方はヨーロッパ系の集団とアジア集団の混合したものでした。

 この二つのクラスターは前者がM、後者がNと名づけられています。

 つまり人類集団は大きく分けてL0、L1、L2、L3、M、Nとなります。

 

  • 第3章 DNAが描く人類拡散のシナリオ

 

 アジアに向かった集団がオーストラリアにたどり着くのが47000年くらい前、東アジアにもほぼ同時期に到達したと考えられます。

 ヨーロッパの考古学や人類学では世界のどの地域よりもくわしい研究が行われています。

 ヨーロッパには4万年ほど前に私達の祖先が到達したと考えられていますが、そこにはネアンデルタール人が住んでいて、約1万年にわたって共存していたと考えられています。

 現在のヨーロッパ人が持っているミトコンドリアDNAのハプログループは、Nから派生したもので、それぞれJ、H、V、T、Kという名称が付けられています。

 ハプログループJを用いた計算結果では、ヨーロッパ到達の時期が約一万年前という数字が得られ、ちょうどヨーロッパに初期農耕がヨーロッパに持ち込まれた時期に一致しています。

 現在のヨーロッパではJは約13%を占めており、残りは1万5千年以上前にヨーロッパに到達したハプログループに属しています。

 

  • 第4章 アジアへの二つの道筋

 

 アフリカから東アジアへの拡散を考えるときに大まかには二つのルートが想定されます。一つは南アジアを経由するもの、もう一つはヒマラヤ山脈の北を通過する経路です。

 一般にはインドの人たちは言語や考古学からヨーロッパ人と同系の人たちと考えられていましたが、実に60%はMの系統に属するものでした。

 ハプログループMは南ルートでユーラシア大陸を進んだと考えられます。

 もう一つの中央アジアルートでは、この地域を対象とした詳細なDNA研究が行われておらず、この本が書かれた時点では人類拡散の様子を再現することはできませんでした。

 

 南北アメリカ大陸について、最近の学説では先住民は大きく三つのグループ、南北アメリカの大部分の先住民を占めるアメリンド、アメリカ北西部に住むナデネ、さらにエスキモー(イヌイット)・アリュートに分かれます。

 言語学の研究結果から導かれた移住のシナリオは、形態人類学や遺伝学的な研究結果が必ずしもそれを支持してはいません。

 今のところアメリカ先住民とアジアの広い地域の集団が共通の祖先を持つ可能性があるという程度に理解しておくのが妥当のようです。

 

 

 日本人の由来を考えるとき、今日本に存在するすべてのハプログループの系統を個別に調べていけば、その総体が日本人の起源、ということになります。

 下記のリンクの先に割合のグラフがあります。

 http://www.terumozaidan.or.jp/labo/technology/10/03.html

 日本人にもっとも多いハプログループはDです。D4、D5の双方で日本の人口に占める割合は四割弱となります。

 ハプログループD4と5は中央アジアから東アジアにかけてもっとも優勢なハプログループで、朝鮮半島や中国の東北地方の集団でも、この二つがおおむね人口の三割から四割を占めています。

 ハプログループDは、誕生したのも古いし、アジアの広範な地域に存在しているので、このグループが日本にいつ、どのように入ってきたかを推定することは非常に困難です。

 実はハプログループD4は、他のハプログループに比べて、非常に細かく分類ができることが知られていますが、細分類のためには、ミトコンドリアDNAの全塩基配列を決定する必要があります。

 日本でこそある程度まとまった数の全塩基配列が決定されていますが、他の地域ではほとんどデータがないのが実情です。

 

 日本人の七人に一人が該当する第2グループがハプログループBです。四万年前の中国南部に共通の祖先を持ち、一方は北へ、他方は南へ拡散した集団の子孫です。

 ハプログループB以外に、古い時代に日本列島に南から侵入したと考えられるハプログループにはM7があります。

 M7にはa、b、cの3つのサブグループの存在が知られています。M7が生まれたのが4万年以上前、サブグループが生まれたのが2万5千年ほど前です。

 おそらくM7aの起源は寒冷化によって海水面が低下していた時代の、黄海から東シナ海にかけた広大な陸地だと考えられます。

 本土日本人では7%を占めるだけですが、沖縄の四分の一を占めています。

 このM7aは、DNAデータベースでは日本と朝鮮半島以外にはまず存在しません。

 ハプログループAも日本人の7%を占めるだけですが、新大陸では普遍的に見られ、北東シベリアと北中米先住民では過半数を占めています。

 

  • 第6章 日本人ミトコンドリアDNAの地域差--北海道先住民、沖縄人、そして本土日本人

 

 現在の日本人が持つハプログループの成立とその後の拡散は、そのまま東アジアの地域集団の成立を物語っています。

 本土日本と沖縄、そして近隣の集団のミトコンドリアDNAハプログループ頻度をクラスター分析という手法により、近縁関係を調べると、中国東北部朝鮮半島、本土日本人はほとんど変わらないハプログループ構成を持っています。

 細部では違いがありますが、この地域の集団は、大きくは同じ人の流れの中で成立してきたと考えていいでしょう。

 

 沖縄と本土日本人の最大の違いはM7aの突出した頻度にありますが、これは非常に古い時代に南方から日本に入ってきたと予想されています。

 これを南方系の縄文人のDNAと考えれば、沖縄の集団は北海道のアイヌの人たちと並んで縄文人の形質を色濃く残してるという、形態学者の唱える二重構造論(東南アジア系の縄文人と、東北アジア系の弥生人が徐々に混血して現在に至るという説)にも合致します。

 

  • 第7章 古人骨の語るもの
  •  

 現在では、考古学もおおむね二重構造論を認めていますが、縄文人と渡来した弥生人の比率をどの程度見積もるかは、人類学者と考古学者で意見は異なります。

 人類学者は比較的多くの移民を仮定します。現在の私達のもつ形質が縄文人より渡来系弥生人に圧倒的に近いからです。

 これに対し考古学では、縄文・弥生移行期の遺物の研究から、少数の移民の持ち込んだものを多くの在来の人たちが受容したと考えています。

 

  • 第8章 日本人になった祖先たち

 

 縄文・弥生人とともに相同なタイプを多く共有するのは本土日本人でしたが、それ以外では朝鮮、中国遼寧省山東省といった人々と一致が多いです。

 このなかで注目されるのは、朝鮮半島の人たちのなかにも縄文人と同じDNA配列を持つ人がかなりいることです。

 考古学的な証拠からも、縄文時代の半島と日本の交流が示されています。

 渡来系弥生人の形質は縄文人と幾つもの点で大きく異なっていますが多量の渡来人の流入を仮定しなくても、弥生時代の開始期に渡来してきた弥生人が数を増やしていき、その過程で周辺の在来系の人々を徐々に取り込んでいく状態がつづいたと考えると話が合います。

 この縄文・弥生期の以降は日本人の成立を考える上で非常に重要なものです。

 

  • 第9章 父系でたどる人類の軌跡--Y染色体を追う

 

 Y染色体ミトコンドリアDNA同様、組み換えによる変化を期待せずに子孫に伝えられます。このような理由でY染色体のDNAも系統を追求する研究に適しています。

 日本人のY染色体のハプログループではC、D、Oと呼ばれる三つの系統が人口の90パーセントを占めています。

 ハプログループOは日本人男性人口の約半数を占める最大のグループです。日本列島に分布するのはO2bとO3と呼ばれる系統です。

 O2bは朝鮮半島華北地域に分布しているのに対し、O3は華北から華南にかけて広がっているようです。

 Cはサンプルが少ないので比較データとして使うのは難しいです。

 ハプログループDは日本で多数の人口を占めていて、私達が持つのはD2と呼ばれるサブグループです。地域で多少のばらつきがありますが30~40%がこのハプログループを持っています。

 日本の近隣集団ではDをこれだけの高頻度でもっている集団はありませんが、チベットで人口の30%程度を占めていることが知られています。

 このことはもともと北東アジアに広く分布していたこのハプログループが、その後ハプログループOの系統により周辺に押しやられた結果を見ているように思えます。

 Y染色体は核の遺伝子で現在の技術水準ではどの時代に入ってきたのかを直接検証することは出来ません。

 主として法医学の分野で解析が進んでいますが、地域差を見出すことを目的とした研究はありません。

 

  • 第10章 DNAが語る私たちの歴史

 

 仔細に見ていくと、日本人のルーツは大陸の広い地域に散らばっており、それがさまざまな時代にさまざまなルートを経由してこの日本列島に到達し、そのなかで融合していったのはあきらかです。

 もちろんこのような成立は日本列島に固有ではなく、特に朝鮮半島から中国東北地域には、この地にいたるまでの歴史を日本と共有する人々が住んでいます。

 あくまでこれらは集団の歴史を描くのに有効なのであって、個人の由来を教えるものでないことは認識しておく必要があります。

 

まとめ

 

本書でも述べられている通り、発刊当時はまだサンプルが十分でもなくあくまで発展途上段階の研究であるし、例えば出アフリカの回数のように論争中のものもありますが、大まかな見取りを得るに大変優れた書籍だと思います。

 また、考古学や言語学アプローチ、Y染色体の詳しいアプローチについてはこの本があります。

 

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

 

 

  

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 1

中国の経済成長と、最近の日中関係の悪化を見るにつけ、まずその名を語らねばならないのは鄧小平です。私の年齢では「ジャパンアズナンバーワン」も読んだことはなく、エズラ・ヴォーゲル氏の著作を読むのはこれが始めてなのですが、非常に内容の濃い調査と聞き取りにより成立している、他の一級の伝記と比べても見劣りのしないとても素晴らしい内容となっています。多少美談化、超人化の扱いのきらいは目に付くのですが。

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 
  •  まえがき 鄧小平を探し求めて

 

 鄧小平の活動を客観的に記録した最も基礎的な文献は2004年に出版された、75年から97年に死去するまでのほぼ毎日の活動などを記録した「鄧小平年譜」である。

 いくつかの最も敏感な話題には言及せず、政治的なライバル関係にも触れないが、鄧がいつどのような状態で誰と会い、なにを話したのかということを知る上でとても有用である。

 鄧小平個人の考えについて最も深みのある解釈を提示しているのは、彼の末娘の鄧ヨウ(木へんに容)「わが父・鄧小平」と「わが父・鄧小平--文革歳月」である。

 前者は49年以前の生活を、後者は69年から73年にかけて、江西省へと追放された両親に付き添ったときのことを記している。

 英語の文献で有用となったものとしては、「鄧小平帝国の末日」「近代中国の不死鳥--鄧小平」「ニュー・エンペラー--毛沢東と鄧小平の中国」などがある。

 インタビューした元当局者は多様で、一方に鄧小平を賛美する人々がいれば、他方には厳しい批判をするものがいた。後者は彼が胡耀邦や知識人を完全には支持せず、政治改革を推し進める機会を悲劇的に逃してしまったと考えていた。

 

  • 序章 鄧小平の人物と使命

 

 何度か短い中断はあったものの、経歴全体を通して、鄧小平は最高権力の座にいつも十分近いところにいたし、最高指導者たちがさまざまな状況にどう対応するのかを内側から観察することができた。

 中国を豊かで力強い国にする方向を探すという使命を実現しようとするなかで、鄧小平の役割は次から次に根本から変化した。

 1949年以前は革命家だったのが、その後、社会主義国家の創設を手伝う建設者になった。

 文化大革命中の69年から73年にかけ、彼は追放先の僻地で、どのような変化が必要なのか反芻しながら時を過ごした。

 そして毛沢東がまだ生きていた74年から75年にかけ、彼は中国の秩序回復の手助けを許され、結果的に後で自分が実現することの基礎固めをした。

 77年に再復活すると、彼は改革者になり、最初は華国鋒の下で働き、78年以降は最高指導者となった。

 

  • 第1部 鄧小平の来歴

 

  • 第1章 革命家から建設者へ、そして改革者へ--1904年~1969年

 

 鄧小平は42歳で亡くなった母のことを非常に尊敬していた。父は単に、遠い存在であった。父は14年に県の警察署長となった。賭博で負けてほとんど破産してしまったが、その後もずっと小平の教育を支援した。

 第一次大戦で多くの若者が戦争に出てしまったため、フランスでは工場労働者が不足していて、15万人の中国人労働者が雇用されることになった。

 生活費を稼ぐためにアルバイトをしながら、フランスの大学にパートタイムで通うという趣向の、勤工倹学というプログラムを利用して、20年に鄧はフランスに渡った。

 21年7月に中国共産党が設立されたというニュースを聞き、フランスの共産主義者を名乗るものたちも「中国社会主義青年団」を結成する。鄧小平もその場に参加しており、周恩来総書記に就任した。

 23年6月、孫中山が国民党への入党を宣言すると、フランスの共産主義者たちもヨーロッパの国民党組織に参加し、鄧小平も国民党のヨーロッパ支部のリーダーの一人に昇進した。

 やがてリヨンの党組織のトップに任命されるが、デモの組織化の宣伝工作に従事していたことで逮捕の標的にされていることを感じ取り、ドイツ経由でソ連へと逃亡する。

 モスクワには中国共産党のメンバーの養成のために中山大学が創立されていて、そこでの鄧小平に関する記録は「最も優秀な学生の一人である」と褒め称えられている。

 27年1月にはコミンテルンにより陝西省に派遣される。4月に国民党と共産党が分裂すると、上海の党本部に出向き地下活動に従事する。

 8月に、共産党員をあちこちで虐殺していた国民党への対応を話し合うために、共産党の21人の指導者が緊急会議を開く。彼は記録係として参加し文書を作成したが、この会議で始めて毛沢東に出会った。

 1929年、共産党は広西省に鄧小平を派遣し、軍閥と連携し、共産党の根拠地を構築する任務を率いて、百色と龍州の町の制圧に成功する。軍事同盟を構築したり、補給物資を調達したり、チワン族指導者と協力するなど、幅広い重要な責任を担ったが、当時の全ての都市部の武装蜂起と同じように広西蜂起は完全な失敗に終わり、鄧小平と協力したほとんどの指導者は、戦闘か、もしくは指導力を疑われ内部粛清で殺された。

 上海に戻った後、出産を控えた妻を尋ねたが、出産後妻は亡くなり、しばらくして子供も死んだ。次の職務を待つ間、上海の革命家阿金とともに過ごす。

 数ヵ月後、江西の中央ソビエトに派遣される。その付近では毛沢東の軍隊がいくつかの県を征服して地方政府を樹立していた。妻となった阿金と着任した鄧小平は毛沢東を高く賞賛するようになった。

 党中央の幹部達は、鄧小平が敵軍への攻撃を十分に行っていないと非難し、毛派の頭としてのちに「最初の失脚」と呼ばれる糾弾を受ける。阿金までもがこの攻撃に加わり、鄧の攻撃者の一人と再婚してしまう。かつては快活で外交的な人間とみなされていた鄧は、より静かであまり話をしない人間になってしまう。

 蒋介石の執拗な攻撃で、共産党は長征に乗り出すこととなる。この時期生き残りが減るにつれ8万の兵は1万以下に減り、その頃毛と何度も話をする機会があったと思われる。

 

 日本軍が侵略を初め国共合作が成立すると、毛沢東は1937年に最も有能な将軍である劉伯承を129師団の師団長に、その組になる政治委員で第一書記として任命する。

 39年に鄧小平は卓琳と結婚し、じきに三人の娘と二人の息子を授かる。この結婚は58年後に鄧が死去するまでつづく。

 大戦が終わると、シンキロヨと呼ばれる数百万の人口を抱える広い地域で最高の共産党幹部となる。このとき若き共産党指導者の育成が主な任務であったが、このとき選んだ趙紫陽と万里の二人は、78年以降に重要な役割を担うこととなる。

 国共内戦が激化し、やがて三大戦役の一つとなる准海戦役が始まる。国民党約60万、共産党50万以上の軍事史上に残る戦いであった。戦役開始から8日後、毛沢東は層前線委員会の設立を明示、50万以上の共産党軍がとその書記となった鄧小平の指揮下に入る。

 この戦役での鄧の指導力は是非を呼ぶ。防御のための塹壕が少なかったこと、前進を主張し必要以上の犠牲者を出したことによる。しかしながら戦役は後半では相手を圧倒し、蒋介石の軍はこの後共産党軍に圧倒されることとなった。

 1984年、鄧は当時の中曽根首相に一生のうちに最もうれしかった出来事を聞かれ、国共内戦の勝利をあげている。彼が特に強調したのは揚子江の渡河の成功であった。

 49年に共産党は全国を支配する。中国の六大地区の一つ一つを手にするたび、共産党はその地区の統治のための地方局を設立した。六大地区の中で最後に組み込まれた西南局を代表する第一書記には鄧が任命されることになった。

 52年、各地区の指導者達が中央政府に配置換えされると彼は中央政府副総理に任命される。56年になると、くわえて中央書記処総書記、および中央政治局常務委員会のメンバーにも就任する。

 53年、薄一波が財政部部長について、課税見積もりが甘いとみなされ解任されると後任に任命される。

 56年、農業と手工業が集団化、工業が国有化され共産党は第八回党大会を開いた。45年の第七回以降の始めての党大会であった。

 鄧小平は大会で中心的な役割を果たし、共産党中央書記処総書記に昇進して、政治局常務委員会のメンバーになり、共産党最高指導部6人(毛、劉小奇、周恩来朱徳、陳雲に次ぐ)の一人となる。

 毛沢東が57年に反右派闘争を開始すると、この闘争を鄧にとりまとめさせた。この闘争は科学技術について最も優れた頭脳を持つ者たちを破滅に追い込み、それ以外の多数を主流から遠ざけた。直後に進められた大躍進政策が始まるが、後年、鄧は娘に、毛があまりにも甚大な間違いを犯していくのを何故止められなかったか後悔していると語ったという。

 

 大躍進の大きな被害は、毛と鄧の間に溝を作った。

 64年にフルシチョフが失脚すると、毛は個人崇拝の貫徹を要求し、走資派の攻撃のために文化大革命を開始する。大多数の上級幹部が指導的な地位から追放され、劉小奇が咎めると毛の矛先は劉と緊密に協力して働いていた鄧にも向けられた。

 年末以降、何ヶ月もの間メディアは劉と鄧の批判を展開し続け、毛の後継者と目されていた劉は河南省の開封で軟禁され、治療も受けられず、妻が別の牢獄でうなだれている間に死んだ。

 67年、毛は鄧を中南海の自宅に軟禁し、子供達が家の外に追い出されると、子供達の消息は二年間分からなくなった。辱めも受けず、料理人と小間使い一人ずつを維持できたが、それは毛が忠誠への教訓が与えようとしたためだった。

 両親のように庇護を受けられなかった子供達は紅衛兵の攻撃の対象となり、その後いずれも農村に送られた。

 69年に高位指導者はソビエトに対する防衛準備の組織化のため農村に送られ、鄧は江西省に旅立つが、その道のり、彼は中国の問題は毛沢東個人のものではなく、大躍進と文化大革命をもたらしたシステムそのものの、深い欠陥に起因すると考えるのだった。

 

まとめ

 

 上下巻合わせ約1000ページの内容ですが、上記までで約100ページという事でかなり駆け足での鄧の前半生の紹介となっています。中国共産党史についてなら、毛沢東関連の伝記などを中心にもっと詳しい書籍は多々ありますし、抗日戦や国共内戦の描写はやや物足りない印象は受けましたが、毛との恩恨入り混じった感情はその後の彼の行動に関しての重大な伏線となっていきます。

 続きます。

グローバル化と日本型企業システムの変容(1985~2008)

バブル崩壊、そしてリーマンショックといった企業を揺るがしかねない環境のなかで、日本企業はどう生き残りのための進化をしていったか、または何が変わらなかったのかを詳しく見ていきます。講座・日本経営史シリーズ6巻目で最終巻です。

 

グローバル化と日本型企業システムの変容―1985~2008 (講座・日本経営史)

グローバル化と日本型企業システムの変容―1985~2008 (講座・日本経営史)

 
  •  第1章 概観

 

 プラザ合意の成立した1980年代半ばには、日本経済の好調なパフォーマンスを反映して、日本の企業システムを肯定的に評価する見方が支配的であった。しかし、バブル景気が崩壊し失われた10年に突入すると、日本の企業システムに対する批判が勢いを強めた。

 この時期の変転に対して論理一貫的な説明を展開する事は容易ではない。橘川(2006)の結論を2つ紹介しておく。

 第1の結論は、1980年代までの日本経済の成功を説明しようとした理論モデルは、90年代の日本経済の失敗を説明することに失敗していることである。

 この理論モデルの代表的なものとしては、チャンドラー=森川の経営者企業論、青木の二重の利害裁定モデル、伊丹の人本主義論、馬場の会社主義論の4つをあげることができる。

 チャンドラーの所説を踏まえ森川が主張した経営者企業論は、株主ではない専門経営者がトップレベルの意思決定を行う企業が支配的であったことが日本経済の成功をもたらしたと主張した。

 しかし、90年代以降には株主主権型の資本主義に大きく舵を切ったアメリカ経済のほうが、基本的には経営者資本主義を維持した日本よりも良好なパフォーマンスを示すようになり、経営者企業論の説得力は大きく後退した。

 青木の提唱した二重の利害裁定の基本的な命題は、「日本企業の意思決定は、所有者の利害の一方的なコントロールに従うというよりは、金融(所有)的な利害と従業員の利害の二重のコントロール(影響)にしたがっている」というものである。

 これは端的には戦後の日本企業のコーポレートガバナンスを、メインバンクをモニターとする状態依存型のガバナンス構造と理解したうえで、モニタリング機能やインサイダーコントロールの弊害を押さえて有効性を発揮したという議論であったが、97年以降の金融機関の破綻とともに、急速にその影響力を喪失するに至った。

 伊丹の人本主議論は「ヒトが経済活動の最も本源的かつ希少な資源であることを協調し、その資源の提供者たちのネットワークのあり方に企業システムの編成のあり方の基本を求めようとする考え方である。

 意欲的な参加、協力の促進、長期的視野の保有、情報効率の向上という4つのメリットを持った人本主義システムが日本経済の成功をもたらしたと説明したが、日本経済の失敗への転換の説明が「人本主義のオーバーラン」という説明があいまいであることは否定できない。

 馬場は会社主義を「資本主義的競争と共同体的あるいは社会主義的結合との精妙な結合」と特徴付けた上で、戦後日本の会社主義企業では、所有者支配が弱い、従業員集団内部の格差や断絶が少ない、現場主義が強い、取引関係が長期化するという特徴が生産性上昇の契機になったと論じた。

 90年代初頭には大いに注目されたが、その後の日本経済の長期低迷や欧州での社会主義崩壊の影響もあり、急速に勢いを失った。

 第2の結論は、失敗を説明した諸文献が、日本経済の変転に関して論理一貫性をもった説明を展開するという課題の達成に至ってないことである。

 ここでは日本経済の失敗を論じた4冊の書籍に対するコメントを要約する。

 貝塚ほか編(2002)には、体系性の欠如および企業行動分析の不十分性があげられ、書籍中の第3章と第1章のメインバンクのモニタリング機能が揺らいでいたとする時期の矛盾に端的に示されている。

 伊藤編著(2002)の特徴には、企業行動と企業モデルに焦点を合わせた分析があげられる。

 日本企業が迷走した原因については、当初、企業統治構造の不備が盛んに指摘されたが、やがて、同じような企業統治構造をとっていても業績に大きな差が生じる同一産業内企業間格差が注目を集めている。

 しかし伊藤編著(2002)には体系性の欠如がさらに著しく、第3章第4章がメインバンク主導の状態依存型ガバナンスが後退し、それにかわり自立的ガバナンスが拡大したことを強調するが、第5章ではあいかわらず状態依存型ガバナンスに焦点を合わせた分析を行っている。

 大阪市立大学経済研究所・植田編(2003)も体系性の欠如があり、日本企業システムとは何かを明示していないし、90年代はどういう時代であったかを統括していない。

 寺西(2003)は、単著ということもありあり極めて体系的な議論を展開していて、長期にわたる歴史的視点を採用していることも大きな特徴である。

 しかし、寺西(2003)では、金融セクターに関して極めて説得力のある議論が展開されているが、事業会社の経営に関する行動に関する分析は手薄であり、肝心の高度成長期経済システムに関する歴史認識が必ずしも性格ではないという問題がある。

 

 

 トヨタのグローバル戦略では、日本でまず新車を開発・販売した上で世界各地の拠点へと移植するというのが従来までのやり方であったが、アジア通貨危機に伴う生産台数の激減をきっかけに、他の地域にも輸出できる共通車種の開発と世界での生産体制の再構築を目指したIMVプロジェクトを展開させている。

 Innovative International Multi-purpose(革新的国際多目的車)プロジェクトでは、「需要地に適した車種を部品調達から生産・販売まで現地で完結する」という方式を導入するとともに、ASEAN域内での現地調達率も60%から96%に引き上げコスト削減も目指したのである。

 2006年における第3四半期決算報告では「IMV・カムリを中心とした好調な販売により大幅増益」と順調さが報告されるに至った。

 アジア通貨危機という制約条件をグローバル展開に向けた輸出拠点拡充のビジネスチャンスと読み替えた柔軟性こそが、トヨタに持続的成長をもたらした最大のポイントである。

 

 

 東アジアの国際分業構造がどのようになっているのかをまとめる。

 第1の分業パターンは日本で擦り合わせ方の部品・材料・設備を生産し、それを使って台湾・韓国などが液晶パネルなどの中間財をつくり、中国で完成品になるという流れである。

 第2は、間に韓国・台湾を挟まず日本で作られた擦り合わせの部材設備が中国で加工されて完成品になるという流れである。

 第3は擦り合わせの部材設備が中国ではなくASEANで加工されるというパターンである。

 日本の製造業の生産の比較優位を決める特徴が製品アーキテクチャであり、強みとする擦り合わせ製品領域へと、企業レベルや産業レベルで集中が進んだ。

 

 

 バブル崩壊後の日本企業の進化は単一のパターンを示しておらず、米国型への単純な収斂とは理解できない。市場ベースの仕組みと関係ベースの仕組みという2つの異なったモードの結合という意味でハイブリッドな形に進化している。

 かつて、高い借入比率とメインバンクとの密接な関係、低い外国人所有比率で特徴付けられた日本企業は、90年代半ばまでに静かに多様化し、その後の進化の経路の決定に重要な意味を持つことになる。90年代を対象とした実証研究では、安定保有比率、あるいはインサイダー所有比率の高い企業ほど、ROAで測定したパフォーマンスが低い傾向であることを報告している。逆に、機関投資家、特に外国人投資家の所有比率が高い企業パフォーマンスをもたらすという点にも大方の一致がある。

 2000年代に入ると、バブル期以前に上場された日本の公開企業は、タイプ1ハイブリッド企業と、伝統的日本企業に分化したとみることができる。タイプ1ハイブリッドは、市場志向的な金融・所有構造と、関係志向的な内部組織が結合したパターンである。タイプ2ハイブリッドは関係志向的な金融と、市場志向的な内部組織の性格を持ち、IT・小売業に多く分布し90年代末の新興企業の大規模参入によりクラスターとして出現した。

 

 

 80年代半ば以降、日本企業の人事労務管理成果主義を1つの軸として揺れ動いた。成果主義の中身は単なる個人業績の賃金の反映ではなく、賃金基準を年功から役割、発揮能力、仕事によりシフトさせようとしたものであり、「年功からの脱却」であったといえよう。

 成果主義の導入が一巡した結果変わったのは、第1に50歳以降の高年齢者の賃金カーブが寝かせられ、第2に賃金が管理職はもちろん一般職においてもより個別化し、第3に賃金の変動化により労働者の負うリスクはより大きいものであった。

 変わらなかったのは、壮年層の賃金カーブであり、組合の成し遂げた成果といえるが、賃金水準は2000年代に入ってからは停滞または減少の傾向をたどっている。

 総じて、年功からの脱却にはある程度成功し、さらなる競争力を確保したものの、生産性向上の配分には新たな問題を生じさせたといえる。

 

  • 第6章 日本的マーケティングの源流とその戦後史

 

 江戸時代から戦前までの日本は、商業資本が支配するローカルブランド優位の分断の時代にかなり長い期間いたことになる。戦後は、ごく短い期間で全国市場の確立と市場のセグメンテーションで細分化される時代に突入する。

 日本における戦後マーケティングの学習過程はほとんど終わったといっていいだろうが、マスマーケティングを理解する部分においてはアメリカの後塵を拝していて、具体的に中国本土におけるマス市場のど真ん中で戦う企業ブランドの少なさがあげられ、ほとんどがプレミアムの小さい市場で戦っていることに見ることが出来る。

 

  • 第7章 規制改革の展開

 

まず、80年代に内発的要因と、特に日米経済摩擦を主要因とする国際的要因が絡み合いながら、主として外部要因が規制緩和・規制改革が進展した。

90年代になるとバブルが弾け、内発的要因として規制緩和を進めなければならない状態になる。また、90年代末の規制緩和から規制改革への意識的変化がある。規制改革とは、ルールの創設を含む規制のあり方の質的な転換を意味し、例えば大店法が廃止され都市計画法制を中心とした複数の政策を組み合わせるなどの新たな規制システムが創設された。

 

  • 第8章 日本における「企業の社会的責任」の展開

 

 日本企業における企業の社会的責任にかかわる活動の展開をまとめると、企業の社会的責任に関する認識の不安定さということになるだろう。

 アメリカのように利益との関係を中心に置きながら啓発された自己利益という形で広い範囲の義務を取り込むアプローチも、ヨーロッパのようにステイクホルダーに対する考慮を中心に置くというアプローチも上手く機能せず、日本における企業の社会的責任は常に希薄化する危険性を持っている。

 利益との関係を中心におくと不況の時には社会的責任が縮小していく恐れがあり、ステイクホルダーに対する考慮を中心とすれば、株主や経営者が潜在的に不満を持つ上に、ステイクホルダーの合意が取りにくい、例えば地域社会への貢献といったものはやりにくくなる。

 

まとめ

 

 すでに一昔前として確定した歴史を扱っていた前の5巻に対し、リーマンショック後までも含めた現在の経営の到達点に言及しなければならない今回は、第1章にも言及があるとおりに非常に困難な仕事だったようですが、総じて良い内容になっているといえるでしょう。本文中でもたびたび引用されますが、宮島先生の

 

 

企業統治分析のフロンティア (早稲田大学21世紀COE叢書―企業社会の変容と法創造)

企業統治分析のフロンティア (早稲田大学21世紀COE叢書―企業社会の変容と法創造)

 

 

 

日本の企業統治―その再設計と競争力の回復に向けて

日本の企業統治―その再設計と競争力の回復に向けて

 

 なども今作の理解を深めるといえるでしょう。

戦後の高度経済成長の始まりと終わり(1955~1985)

 戦後の経済成長は2つの時期に分けられる。前期は2桁成長の続いた55年から70年あたりまで、後期はオイルショックニクソンショックなどを経た85年までの一桁成長の大量消費が一般化した時代でした。

 

「経済大国」への軌跡―1955~1985 (講座・日本経営史)

「経済大国」への軌跡―1955~1985 (講座・日本経営史)

 

 

 

  • 第1章 大変化をもたらした30年

 

 55年前後に一人当たりGNPや消費は戦前水準まで回復する。とはいえ、まだ全般的には窮乏状態を脱しきれず、日々の生活様式は戦前からの延長線上におかれていた。

 それが、この頃からスタートした高度経済成長で一変することになった。次々に先進各国を追い抜き、69年以降にはアメリカに次ぐ経済大国になったのである。

 他方、後半15年とは、ニクソンショック、二度に渡るオイルショック、プラザ合意まで至る時期である。成長率は1桁に落ちたものの依然として成長のトレンドを維持し、大衆消費社会の将来を現実の物とした。

 

  • 第2章 高度成長のエンジン

 

 2つの時期に分かれるという点を考えてみる。エドワード・デニソンいわく前半の成長に最も大きく貢献したのは資本だった。次いで技術、企業組織、経営方法などの知識の進歩が第2の貢献をなし、規模の経済が第3の要因、労働投入の増加が第4の要因だったという。

 第1の要因については国民の豊かさ=消費を後回しにして投資を行ってきたからであり、一人当たりの消費は諸外国よりかなり低い水準にあった。

 第2の要因については、明治以来新技術の導入に関して奨励・支持されていた下地と、労働節約的な技術導入に対して激しい抵抗をしない労働組合の存在が指摘される。

 1970年を経ると一人当たりGDPも先進国に並ぶまで増加し、消費文化が花開いた。3Cブームが本格化したが、住居の一人当たり床面積に代表されるようにストックのレベルでは依然として遅れたままであった。

 産業政策、同質的競争、技術導入、労使関係など日本的経営の特徴として指摘される要素は全て、激しい企業間抗争を生み出してきた。

 70年代以降には非正規雇用の拡大など減量経営を進め、ME(マイクロエレクトロニクス)化を推進させ、輸出競争力を回復させ国際競争力を身につけたが、大企業は輸出市場に依存した成長から抜け出せなかった。

 

  • 第3章 総合商社と企業集団

 

 総合商社は日本独自の業態とされ、企業規模(売上高)の巨大さ、取扱商品の多様性、取引地域の多様性などにより特徴付けられる。60年代後半には10大総合商社による寡占体制が成立した。

 奥村宏によると、総合商社は財閥、企業集団とは切ってもきれない存在であるという。企業集団の背後に持たない総合商社も、総合商社をグループにもたない企業集団もありえないという。

 三菱、住友、芙蓉、三和、第一勧銀系が六大企業集団と呼ばれてきた。

 総合商社から見た企業集団内取引を見ていくと、第1に集団内取引と言っても比較的少数の特定企業に集中してる特徴が見受けられる。

 第2には、集団内企業への依存度は売り上げよりも仕入れで大きかった。つまり、集団内企業の製品を集団外企業へ売るパターンが大きかった。

 そして、集団内取引依存度は高度成長期の企業集団結集に対応して上昇し、石油危機後には下落傾向に転じたと考えられる。

 また、総合商社の株式取得・出資は原則的には取引関係の強化のために行われてきたが、低成長期の77年度においてなお、集団内株式所有が効率の良い投資であったと論じられている。

 

  • 第4章 石油化学工業の誕生と産業政策

 

 石油化学工業においても、50年代から60年代にかけての立ち上がりの成功と、70年代以降の成熟産業への暗転という2つの時期の分類が適用される。

 欧米企業に比較して後発性と小規模性を危惧した通産省と、企業側の情報のキャッチボールが幾度も行われ、両者の共同作業により見事に立ち上がりに成功し急成長を実現する。

 しかし、成長産業だった時点において企業の絞込みの調整に失敗し、逆に過当競争をおこした。産業そのものが高い成長性を保ち積極的な行動を取っている時期には、制限する方向に舵を切る産業政策の実効性には限界があった。

 

  • 第5章 戦後日本の銀行経営

 

 一般的に戦後日本では、銀行優位の相対方間接金融システム、メインバンクの存在、護送船団方式による保護と規制が特徴とされる。

 逆に金融機関の経営行動が戦後日本型の金融システムを定着、発展させた側面も軽視できない。

 「人為的金利システム」と金融機関の競争制限に見られる金融システムは、国内の貯蓄を効率的に動員し、産業インフラや重点産業の発展に向けて優先的に資金を配分することを目的としていた。

 実際のところ都銀・地銀の融資は政策方針に従ったわけでなく、その目的がそのまま実現したわけではない。各金融機関が競って預金獲得に取り組んだ結果、必要な資金の不足が緩和されたと見ることができる。

 銀行間競争の結果、広範囲に渡る預金の獲得・回収に成果をあげたが、証券市場や国際金融の発達により、資金需要の伸びが鈍化する。

 銀行は顧客に対する新たなサービスの開発体制や海外展開の積極化など新たな経営戦略を開発したかに見えたが、結果的にバブルへとつながる貸し出し競争へとつながっていった。

 

  • 第6章 戦後日本における長期継続取引

 

 戦後日本における企業間取引は長期継続性が際立った特徴としてしばしば指摘される。

 日米構造協議における長期継続取引の排他性に非難が浴びせられると、そうした取引にもまた経済合理性があることが次第に明らかとなる。

 長期継続取引がもたらす成長メカニズムには、およそ取引コストの削減、製品開発の機動性、企業特殊技能の蓄積などの機能が考えられる。

 すなわち、発注先決定のコスト、相手先企業の信用調査コスト、交渉コスト、納入品検査コスト、在庫コストなどを軽減し、設計段階における親密なコミュニケーションを通し優れた製品を生み出し、特定の企業内でのみ通用する技術により独自の効率性をはぐくんだ。

 

 

 戦後の日本企業のキャッチアップは、先行する欧米企業から基本技術を獲得することから開始されたが、獲得した基本技術を製品に転換するための組織能力の形成において、早い段階から独自性の高いルーチンの束を形成した。

 トヨタにおける組織能力の形成が、偶然的・事後的・創発的と特徴付けられたのとは対照的に、ホンダは意図的・事前的・目的合理的といった概念で説明できる。

 ホンダの研究開発面での組織能力は、本田総一郎個人から組織的プロセスへと研究開発主体の主要な担い手を移行することを目的として形成され、現場システムのシステム創発といった側面よりも、競争環境への対応と自社固有の問題の解決を急ぐ上からの変革を特徴とした。

 類似した組織能力でもその形成プロセスには企業によって異なる成り立ちがあった。

 

  • 第8章 鉄鋼寡占資本間競争とその変容

 

 高度成長期における日本鉄鋼業の設備投資は、国際的に最高率の規模・水準を示した。売上高に対する設備投資の比率は2割近くに及び、67年以降には2割を超えるが、その水準の高さを生んだ事情は以下の通りである。

 新規製鉄所が13にものぼり、そのうち10はまったく新しく土地造成から始めたものであった。

 外部資金の積極的動員を行った。第1次合理化期の工事資金のうち、50パーセントは外部資金であった(社債18、各種金融機関からの長期借入金32パーセント)。

 日本鉄鋼業の生産性上昇は鉄鋼生産費の著しい低下をもたらし、その国際競争力は欧米をも上回るに至ったが、競争的寡占とも無秩序的寡占とも呼ばれるほどの、国家的援助を受けつつも国家的規制を受けることの少ない珍しい体質を持っていた。

 70年代を期に日本企業は明らかに強調的寡占体制に移行し世界の鉄鋼輸出市場においてもトップを占めるが、アメリカとの貿易摩擦から発展した世界の国際カルテル的な管理貿易の様相のなかで、韓国POSCOに代表される中進製鉄国の進出をもたらすこととなる。

 

  • 第9章 小売業態の転換と流通システム

 

 高度成長期における食生活の洋風化はスーパーマーケットにビジネスチャンスをもたらした。その過程で卸売商を排除して経路を短縮化すると想定されたスーパーマーケットは、逆に卸売商を積極的に活用した。

 当時のスーパーマーケットの信用力では、金融機関から資金を調達することは困難であった。不足資源の供給の役割は主として二次問屋が担い、それを契機に継続的な取引関係が構築された。

 

 

 戦後復興期には、生産活動に専念できる条件を整えるために年功による従業員基準型の安定賃金が戦時統制経済化に引き続き踏襲された。

 高度成長期には公平性の維持が難しくなり、能力で賃金を決める従業員基準型が用いられた。

 安定成長期に移行すると円高の発展と新興国の追い上げ等による国際競争力の低下により、安定賃金の縮小と、業績連動賃金の拡大により、人件費の増加と弾力性を維持した。

 人事労務管理はその仕組みの近代化を通して、企業の競争力を高め、日本の経済大国化を労働力の面から支援してきたのである。

 

まとめ

 

 低消費・高貯蓄の国民と、そして金融機関の旺盛な預金獲得競争により、戦後の大幅な設備投資への資金的需要は満たされます。労務制度改革や官民連携の国策的な競争により史上まれな高度成長を成し遂げます。オイルショックニクソンショックの痛撃を受けた後でも経営改革により安定的な成長を続けますが、そこにはやがてバブルが待っているのでした。次回はバブルから現在までを見ていきます。

戦後の日本企業経営1(1937-1955)

 

 

 表題は37年からですが、ほとんど戦後について書かれたものと言っていいでしょう。

 

  • 第1章 戦時期・戦後復興期の経済と企業

 

 1930年代後半から1950年代前半にかけて、日本経済は市場経済から統制経済統制経済から市場経済への2つの移行を短期間のうちに経験した。

 

  • 第2章 企業組織の再編成

 

 戦時期に各主要企業は陸海軍管理監督工場となり争って軍需指定会社指定を受けようとしたが、それは軍部によって経営権を拘束されようとも戦時下の資源制約の影響を緩和する必要があったからだ。

 戦時下には高等・中等教育機関が大幅に拡充され、技術者はその数を一気に増大させた。戦後になると、占領軍の元で経営権を拘束したのは労働組合であった。

 労働組合からの大きな制約を脱する上で大きな契機となったのが、占領政策の転換と冷戦の進展であった。

 

  • 第3章 生産システムの展開

 

 1950年代にアメリカのフォード社を訪れたトヨタ幹部は混流生産と、その情報処理をになうIBMのパンチカード・システムの運用に驚いている。トヨタでさえ1955年までに自動車製造全体をシステムとして把握し運用しているとはいえない状況であった。

 1955年以後、動作分析や時間研究の体系的訓練を受けた人物が生産現場に多数供給されるようになる。

 

  • 第4章 衣料品消費の変化と百貨店の興隆

 

 戦後復興期の日本では衣料の洋風化が進んだが、十分な経営資源を有さなかった百貨店側はアパレル製造卸売業との間で導入された委託取引制度で補った。

 百貨店側にリスクになる通常の買取取引方式ではなく、リスクなく商品を仕入れることが出来、適切な品揃えが行われるという結果をもたらした。

 また、アパレル製造卸企業からの派遣店員が消費動向の把握により売り場の主導権を握り、やがて取り扱い商品の価格決定権まで掌握するに至る。

 

  • 第5章 産業金融と銀行の役割

 

 大戦以後、極度の資源制約が課せられ企業の設備拡充・原料確保は行き詰まり、企業間信用の連鎖は至るところで断ち切られて運転資金需要は急拡大を始めた。

 41年以降銀行貸し出しはリスクを高めながら急増した。特殊金融機関は不良資産化した建設勘定の切り離し、民間銀行の負担限度を超えた高リスク投資に対応したものであり、この時期の産業金融を特徴づけるものがあった。

 47、48年には復興金融公庫が、その後は株式・社債市場、興銀などの金融債発券銀行によって供給され、51年以降も日本開発0銀行はじめ政府系金融機関は無視できない。都市銀行が積極的役割を演じ、融資先企業のモニタリングを始めるのは50年代半ば以降である。

 

  • 第6章 日本の業界団体

 

 1940年の鉄鋼統制会の組織化とその後の修正に、業界団体を組織し、産業政策を実行していくという「政府-業界団体-企業」という構造の端緒が見られる。

 政府と企業の間には大きな情報の非対称が見られ、戦争遂行のための鉄鋼増産は政府の計画を大幅に下回り、「上からの計画経済」の修正がなされる。企業の利潤動機を産業政策に組み込み3者が相互に情報を交換していくデザインができたのだ。

 このことは戦後に引き継がれ、少人数で技術や動向を把握しなければならない通産省は、業界団体をモニタリングするコストはかかるものの多様な企業の情報の集約のために業界団体を組織した。

 

  • 第7章 外地への進出と生産

 

 朝鮮では鉱業とそれを原料とする製造業に投資が傾注され、平行して鉱山に供給する電力産業への投資が並行してすすみ、日窒を中心にして、京城への一極集中が進んだ。

 台湾では米と砂糖の経済が行き詰まり、台拓の投資もさほど効果を生まなかったと見られる。

 樺太でも在来型産業を補強する程度でとまり、産業化を広範に推し進めるほどの投資は見られなかった。

 日本敗戦後に外地会社は閉鎖機関に指定され特殊清算を受けたか、在外会社に指定され、特殊整理された。事業規模と国内資産で前者が大きく、企業件数では後者が格段に多かった。

 後者の多くは指定解除を受け、そのまま戦後処理を終え、国内財産の多い企業については、残余財産が国内で解除され、新たな事業資産に振り向けられた。

 

まとめ

 

 戦前・戦中期において高等教育中等教育の質量の拡充が図られ、それが戦後の経営主体の変化のタイミングとも合致して、戦後の経済成長の下地となりました。ただし、50年代の半ばをすぎても、企業のシステム構築や金融市場の発達は思われていたほどには確認できず、シリーズの第5巻によりその本格的な始まりを見ていくことになります。

 

大戦間の日本企業の発展(1914~1937)

 第1次世界大戦時の好況、そして、関東大震災大恐慌を経ての経営史を見ていきたいとおもいます。

 

組織と戦略の時代―1914~1937 (講座・日本経営史)

組織と戦略の時代―1914~1937 (講座・日本経営史)

 

  今現在私達が考える大企業体制は、戦後にルーツを持つのではなく、すでにこの頃に確立されたと言っていいでしょう。日本では現代企業は労働力を内部化することにより出現しました。

第1章 企業組織の成長と産業組織の変化

 紡績業をはじめとする近代企業の発展は巨大企業の成長を伴い、寡占化の進行の帰結として、カルテル活動が活発化しました。同時に、統合された国内市場に限らず、休息に統合が進みつつあった東アジア市場という、広大な市場に直面しました。

  • 第2章 企業組織

 日本では、非熟練工、熟練工、半熟練工のいずれにおいても、労働力の内部化が産業発展の比較的早い時期から見られました。組織内部では職務の垂直的分業関係は発達しておらず、企業内の身分関係は職務階層よりも身分的地位によりました。それは近代的官僚制のそれらとはことなり、家産制や共同体に類似していました。

  • 第3章 生産組織と生産管理の諸相

 生産規模の拡大とともに、新たな生産組織の構築が模索され、科学的管理法が導入されました。それはアメリカにおいて確立されつつあった生産管理法の導入であり、もう一つは個々の企業による自生的な努力によるものでした。それはトップマネジメントによる外部の知識の移転ではなく、高等教育を受けた技術者層などによる知の標準化によるものでした。

  • 第4章 流通構造の変革

 石鹸・化粧品の流通業界は江戸時代以来の伝統的流通機構の系譜を継承し、明治半ば以降に形成された個別の経営主体はそれに比べようもないほど小規模なものでした。しかし、1910年代から20年代にかけて新興の経営者が台頭し、協調と競争により卸売業界の多段階化が進みました。

  • 第5章 人事管理

 1897年から1919年にかけての局面では、新卒採用の過程で対象となったのはもっぱら高等教育を受けた技術者であり、学校に求人を依頼しており採用者の選抜は事実上学校にゆだねられたと考えられます。技術者の中には高等教育を受けていない者が多く含まれており、彼らのほとんどは他社で経験を積んだ中途採用者でした。また、事務系については学歴如何にかかわらず新卒採用が行われるのはごく例外的でした。

 1925年頃からは新卒採用は採用管理の中核に位置づけられ、学校から推薦された候補者をさらに厳しくふるいに書ける方式に転換しました。それには長期不況化という買い手市場の歴史的背景が存在しています。

  • 第6章 企業金融の展開

 この頃、必要な資金を自己資本基本的にまかなうことができたのは、全期間を通じた三大紡績、1910年代の電力産業、20年代の三大財閥だけでした。電力産業は1920年代に内外社債によって、財閥は30年代に株式公開を通じて外部資金を導入し成長を遂げました。

 戦中期の大企業の金融の特徴としては社債の増加が注目され、個人の貯蓄が金融機関による社債投資を通じて産業資金に転化されるという間接投資形態が出来上がっていました。しかし、30年代でも東京株式取引所の圧倒的部分は清算取引で、現物売買は1938年下期は8パーセントに留まるなど資本市場の発達に大きな限界がありました。

  • 第7章 戦間期における産業構造変化と産業組織

 20世紀初めから1919年にかけて、工業の加重平均集中度はほぼ一定に保たれましたが、1919年から1936年にかけては、重化学工業と軽工業の間の集中度格差が縮小したことから産業間効果がちいさくなり、一方で各産業の集中度が低下したため、加重平均集中度は大幅に低下しました。1920年代、特にその後半以降にカルテルが急速に普及し、各産業の利益率を高め、そのことが長期的には企業の存続と参入を容易にして市場集中度を低下させる役割を果たしました。

  • 第8章 対外関係

 日本の紡績企業において最初に中国投資を行った内外綿をモデルに現地経営のプロセスを見ています。

 

まとめ

 新卒採用や人材育成、欧米とは今でもやや趣の異なる企業の金融など、現在の日本の企業的特長の多くはこの時期にほぼ完成されていたようです。紡績が思った以上に国際競争力をつけていたこと、海外事業を発展させていたことが個人的に驚きで、また面白い所でもありました。戦中という時代で大恐慌を経た暗い時代ではありますが、当時のサラリーマンも頑張っていたのだな、と思う次第です。