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エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 3 日中平和友好条約と訪日

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/06/215421

の続きです。

 

 毛沢東が死去し、名目的には華国鋒の下で実質的な中国のナンバーワンの地位に登りつめます。四人組の排除にも成功したものの、自由化・成長を目指す胡耀邦らリベラル派や、毛沢東思想の残党ともいえる左派などとの両挟みのなかで、また国外ではソ連の膨張の脅威など問題山積の中で、鄧小平の視線の先にあったのはかつての仮想的アメリカと、そしてかつての侵略者である日本でした。

 

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 

 

 

 多くの人びとは、華国鋒や彼の改革への熱意をあまりにも過小評価していた。海外の直接投資を招き入れるための経済特区を始めたのは鄧ではなく華であった。

 華は77年に鄧小平の職務復帰を遅らせようとはしたが、それでも鄧が導入しようとした変化を支持した。

 彼は対外開放を急速に実現しようとしただけでなく、むしろそれを過度に進めたとして厳しい批判にさらされたのである。

 中央工作会議では鄧小平の復活を支持する声が数多く聞かれた。これに対し華国鋒は、機が熟せば、復活の道のりは見えてくるが、急ぐべきでないといった。

 5月12日には、鄧小平は軍と対外関係に責任を負うことを含め、かつて自分が担っていた職責の全てに復帰することが決まった。

 7月17日、第10期三中全会は「鄧小平同士の職務復帰に関する決定」を採択した。中央軍事委員会、政治局常務委員会委員、党副主席、中央軍事委員会副主席、副総理、人民解放軍総参謀長に復帰が決まった。

 8月初め、自分が華国鋒国家主席のリーダーシップの下で働くことを確認した。少なくとも当面、鄧には華のリーダーシップを脅かすつもりがなかった。

 

第3部 鄧小平時代の始まり--1978年~1980年

 

  • 第7章 三つの転換点 1978年

 

 共産党の公的な歴史は、1978年12月18日か22日にかけて開かれた11期三中全会を、鄧小平の「改革開放路線」が指導した会議としている。

 しかし、実際にはこの会議は、11月の中央工作会議を公的に追認する手続きに過ぎなかった。

 華国鋒も鄧小平も、政治的な雲行きがこれほど完全かつ急激に変化するとは、予想すらしてなかった。中央工作会議は華国鋒によって招集されたが、なにが自分を待ち構えているか、彼が予知していた節はほとんど見られない。

 驚くべきドラマが11月11日から11月25日までの間に起きた。会議の焦点は経済から政治へと移っていた。

 華と彼が唱えた「二つの全て」が批判され始めたのであった。会議が始まると同時に、華国鋒は非常に多くの出席者が満足していないことを自覚した。

 周恩来死去後の第一次天安門事件の参加者に対し厳しすぎる批判をくわえるものであったからであり、また文革中に批判された多くの老幹部の名誉回復に華が消極的であったからである。

 華国鋒毛沢東の死後「右派巻き返しの動き」を批判してきたのは誤りであったことを認め、それが結果的には鄧小平に対する批判につながってしまったことを認めた。

 華国鋒や汪東興は当面の間、中央政治局常務委員会のメンバーにとどまることになったが、鄧は対立をさけることを優先した。そして、権力闘争の進行を国内にも海外にも決して表ざたにしないことをなにより優先した。

 華は党主席、国務院総理、中央軍事委員会の主席の地位にとどまることを認められた。鄧小平も党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席の肩書きを保った。

 しかし海外メディアや外交界は、中国の民衆と同様、実際には鄧が最高指導者の地位に就いたことをただちに察知した。

 会議では、経済最優先の時代には、経済に最も明るい陳雲が高い職務につくべきとの認識が共有された。陳雲は政治の大きな方向と重要人事の決定に対する影響力の点で、鄧と同等であった。

 

  • 第8章 自由の限度の設定 1978年~1979年

 

 三中全会の後で鄧小平は文化大革命の収束と改革開放の新時代へ向けた船出について民衆の広い支持を感じ取り、中国の人びとの表現の自由を拡大する二つの重要な議論を行うことを認めた。

 一つは一般社会へ公開されたもので、天安門広場にほど近い壁で自然発生的に始まり、「西単民主の壁」として知られるようになった。

 もう一つは党が主催した議論の場であり、部外者には閉ざされていた。それは一部の知識人と党の文化担当政策責任者が一同に会し、新たな時代における彼らの任務の指針を模索するものであった。

 西単の壁に集まる群衆は、初めはとても秩序正しかった。しかし数週間後には、民主主義と法の支配を要求し、政治的色合いの強いメッセージを張り出す人たちが現れるようになった。

 何ら取り締まりがなされないため、共産党全体や政治体制、そして鄧さえをも批判し始めたのである。

 動物園の従業員で元兵士の魏京生が、それまでの境界線を超える、鄧小平が「歩むのは独裁路線だ」と名指しの批判をするが、4日後に逮捕されると、壁を訪れる人の数はがくんと減った。

 西単の壁が閉ざされたとき、あえて講義した一般民衆はほとんどいなかった。党内の多くは混乱を防ぐために不可欠であったとして、鄧小平の行動を断固支持した。しかし深く当惑させられた党員たちも多かった。

 二月半ばに西単の壁を是認してわずか三ヵ月後にこれを閉鎖した豹変振りは、毛沢東以後の中国における重要な転換点の一つだった。

 鄧小平にとってもし神聖にして侵すべからざるものがあるとすれば、それは中国共産党であった。党に対する公の場での批判は許されないと協調した。

 知識人たちにとっては「自由の境界が狭められた」という当惑と失望を意味したが、現代化を進めるためには彼らの協力が不可欠であることが、鄧にはよく分かっていた。

 78年以前に許されていた以上の、より大きな自由の基準を認める必要があった。57年の毛沢東とは異なり79年の鄧は主流知識人の支持を失わなかった。しかし、92年に退陣するまで、自由の境界をめぐる一進一退の攻防に立ち向かうことになる。

 

 

 ソ連は1969年までには、中国にとって明らかにアメリカに代わる主要な敵になっていた。そのため、中国は「一本の線」を形成し、同じ緯度にあるアメリカ、日本、西欧各国と団結して、ソ連に対抗していかなければならないとしたのである。

 ソ連から包囲されるのを防ぐため、中国が果敢な行動によって相手に最も大きな打撃を与えうる場所がベトナムだと判断した。

 もし鄧小平が75年末に失脚していなければ、中越関係の完全な亀裂は避けられたかもしれない。

 中国軍の欠陥が深刻だということがわかると、彼は中国のパフォーマンスを向上させることに注意を向けるようになった。

 彼は近隣の東南アジア諸国との協力が早急に必要と認識し、関係強化のためにこれらの国々へ訪問した。

 彼らから支持を得るためには、まず現地の革命派に対する中国の支援を停止し、華人に居住国への忠誠を示すことを奨励しなければならないと分かった。

 これまでにないほど拡大するソ連ベトナムの脅威に対抗しながら、鄧はソ連に対抗する能力を備えた二つの大国、すなわち日本とアメリカとの関係をも強化しようとした。

 

  • 第10章 日本への門戸開放 1978年

 

 彼は、四つの現代化に対して日本以上に協力的な国はないことを知っていた。日本と協力関係を築くには、中国が安定しており、責任あるパートナーになる覚悟があることを日本に確信させなければならない。加えて、かつての敵と手を結ぶことに対する、中国民衆の反発を克服しなければならないことも良く知っていた。

 それは政治的勇気と決断を要することであったが、鄧も日本と八年間戦った兵士として、日本との関係改善に勇気ある一歩を踏み出せる強い政治基盤を持っていた。

 鄧小平が1977年半ばに復活したとき、日中関係を補強するための条約交渉はだらだらと四年もの時間を空費していた。主な障害は、中国の求めた反覇権条項に日本が消極的だったことである。

 当時の中国外交の文脈からすると、その条項の狙いが日本をソ連から引き離すことにあったのは明らかだった。

 しかし78年8月、注意深い言葉遣いでの微妙な変更を検討することで、鄧の「政治決断」の元に日中平和友好条約が調印された。

 ソ連は腹をたてたが、第三国条項があったために甘受した。

 中国が高位指導者を日本に送ることは、田中の中国訪問の返礼として望ましかったが、6年もの間、中国の指導者は誰も日本を訪れていなかった。鄧小平が日本を訪問する条件は明らかに整っていた。

 

 鄧は、2200年に及ぶ交流の中で、日本に足を踏み入れた中国の最初の指導者であった。

 多くの日本人が中国に与えてしまった苦痛に対して遺憾の意を表明した。中国ではテレビがまだ普及していなかったが、中国の民衆は日本人が鄧に対して示した温かい歓迎ぶりを知ることが出来た。

 十日間の滞日中に、鄧はあらゆる階層の人々に会った。彼が北京に招いた人々の多くが、今度は彼を客人として向かえてくれたのだった。

 それまでに会ったことのある人に対して中国人がそうするように、鄧は彼らを「古い友人」と呼び、再会の喜びを伝えたのである。

 園田外相と黄華外交部長が正式な批准書に署名し交換すると、鄧小平は福田を強く抱きしめた。福田は一瞬たじろいだが、すぐに我に返り、それが親善の気持ちの表れであることを理解した。

 経団連の主催する昼食会に出席した際、夕刻近くに日本記者会見で記者会見に臨んだ。

 彼は天皇を初め、日本のあらゆる階層の人びとに丁重な歓待を受けたと述べた。そして福田首相と素晴らしい会談が持てたことに言及し、日中の指導者は毎年会うべきであると言った。その訪問は短かったが、日中両国の友好関係が続くことを彼は強く願った。

 それはまさに日本国民が聞きたいと願っていたメッセージであった。彼が話し終わると会場は総立ちとなり、記者たちの鳴り止まぬ拍手が数分間も会場に響き渡った。

 日本のメディアは、鄧小平の来日の成功と日中両国関係の強化を熱狂的に賞賛した。中国での報道はより公式で抑制されていたが、メッセージの本質は同じであった。

 

  • 第11章 アメリカへの門戸開放 1978年~1979年

 

 ニクソンが1972年に訪中してから、中国はずっと早期国交正常化への期待を抱き続けていた。ところが、いつもアメリカの国内政治が障害となり、中国は5年もじりじり待たされる羽目になった。

 アメリカとの関係正常化を実現するため、鄧小平は多くの問題で臨機応変に対応していく覚悟だったが、台湾問題についてだけは、揺るがすことの出来ない原則があった。

 カーターが大統領補佐官のブレジンスキーを送り込むと、アメリカと中国は正常化交渉をどのように行うか秘密の話し合いを始めた。

 鄧小平は東京を訪れた際、アメリカの台湾の兵器売却に中国が反対しているということには触れずに、アメリカと台湾の経済・文化的な関係の継続には反対しないとだけ述べた。

 アメリカが台湾に兵器売却を継続するのに、アメリカとの国交を正常化するということは、鄧小平の生涯の中で最も重い決断の一つだった。彼がこのとき、なにをどう計算していたのかを示す記録はまったく残っていない。

 国交正常化の合意の妥結は北京とワシントンで同時に公表された。

 鄧小平は6週間後ボーイング707でアメリカに向けて飛び立った。訪米は、二つの国が手に手を携えて世界の平和を築こうとしていることの象徴とされた。彼の訪米は、アメリカ人一般の中国に対する印象を代えたが、中国では人びとの将来に対する思考様式や願望が連鎖的に変化し始めた。

 連日報道されていたTV報道やドキュメンタリーはアメリカの生活を好意的に映し出していた。対外開放によりハイブリッドな活力と知的ルネッサンスがもたらされ、それらが中国の長期的な再建を牽引していくことになる。

 鄧はわずか15ヶ月の間に5回の外国訪問をこなしたが、その後は一度も国外を旅することがなかった。

 

まとめ

 

 70年代後半の中国は西側先進国に対し多くの面で遅れ、教育の再生、そして海外からの知識の輸入、需要は切羽詰った問題でした。国内問題もソ連の脅威も抱えながら、

日米との関係改善という難題に成功します。

 とくに第10章に描かれている訪日の様子は、雰囲気に対する著述内容にやや留保がつくものの今の時代では考えられないような密接な素晴らしい出来事であったことに驚かされます。

 そして、中国はついに経済成長への道を歩み始めます。

 

(つづきます)

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/09/222358