エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上・下) 4 現代中国の父
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/07/220708
の続きです。
アメリカと日本との国交回復により、対ソ連への目処をつけ、また完全に左派の排除にも成功した鄧は、今度は中国自体を大国に対抗しうる発展を目指して、保守派たちとの長き戦いに取り組んでいきます。
- 第12章 鄧政権の船出
1978年12月に最高指導者の地位に昇ったとき、鄧小平にはまだ自分の率いる指導チームもなければ、人びとを結集させられるような中国の将来を明確に示したビジョンもなかった。
指導権はさしあたり、党主席と国務院総理という公的立場をまだ維持していた華国鋒と、華を支持していた政治局四人との間で共有されていた。
鄧小平の関心は肩書きよりも、有能なチームと組織を作り出すことにあった。
最高指導者になった今、党内に依然として行き渡っている毛沢東の超人的イメージにどう立ち向かうかについても考える必要があった。
鄧は一人の若者として毛に心酔し、何十年もの間献身的に仕えてきた。しかしその結果は、二度彼に見捨てられ、屈辱的な世間の攻撃にさらされただけだった。
鄧の長男は、毛を崇拝する紅衛兵らの手で、生涯、下半身不随の体におとしめられた。にもかかわらず、歴史問題を扱う際、彼は私情をいささかも差し挟まなかった。
79年半ばまでに、華国鋒はおおむね権力の座から外されていた。華の支持者は更迭され、趙紫陽と胡耀邦がしかるべき地位に就くと、歴史決議に関する鄧の政治日程はいっそう進めやすくなった。
今や政治局は鄧小平の政策の熱烈な支持者が安定多数を占めていた。
毛沢東の評価にたいする文書の最終草案は、毛沢東思想と偉大なプロレタリア革命家としての毛の貢献への賛美であふれる一方、大躍進と文化大革命での毛の役割については批判的なままだった。
なんといっても、毛は自分で自分は過ちを犯したことがあると認めていた。
1980年後半に、華国鋒を権力の座から追いやることに最も強く抵抗したのは葉剣英元帥だった。党史をめぐる議論の中で、彼は毛沢東の晩年の過ちを強調することを支持しなかった。
国家の利益のためには、毛の名声を擁護することが不可欠だと感じていた。
葉剣英元帥は信念のために闘う意思の強い人物ではなく、むしろ対立を避けるほうを選んだ。事実、彼は鄧小平がトップに中央軍事委員会のトップに就くと、自身の故郷の広東省へ退いた。
第4部 鄧小平の時代 1978年~1989年
- 第13章 鄧小平の統治技術
毛沢東が布告を発する皇帝のような存在であったとしたら、鄧は自らの戦闘計画が適切な人員配置の下に実行されるよう、注意深い点検を怠らない司令官により近かった。
彼は重要な問題と瑣末な問題とを仕分ける能力があり、中国に最も大きな違いをもたらすことに焦点をあて、そこに努力を集中することができるという評価を得ていた。
党総書記である胡耀邦は党に関する問題の最高責任者であり、国務院総理である趙紫陽は政府に関する問題の最高責任者だったが、すべての重要事項について二人は鄧の最終判断を求め、そのほとんどの場合は書面で意見を仰いだ。
通常、検討する課題を決めたら後は胡や趙に任せ、彼の支持を彼らが最善と思うやり方で実行させた。
鄧小平は自分と年齢が近く、数十年に及ぶ付き合いのある、王震、薄一波らの古参幹部と、ときに非公式に会うことがあった。彼らはなんでも打ち明けられる相談相手であり、強い個人的信頼関係で意見を内内に聞くことが出来た。
彼の統治パターンを支えている原則をいくつかのパターンにまとめることができる。
権威をもって話し行動せよ。党を守れ。統一的指揮命令系統を維持せよ。軍をゆるぎなく掌握せよ。新たな道を切り開く政策は、広範な支持を得た上で推進せよ。
非難を回避せよ。長期目標を踏まえて短期政策を設定せよ。長期目標達成に役立つ政策を追求せよ。不都合な真実を暴け。大胆であれ。圧力を加え、収まるのを待ち、再び圧力を加えよ。
団結を強化し、分裂を最小限に抑える。過去の不満を晴らすのは避けよ。実験により保守派の抵抗をかわせ。複雑で意見の分かれる政策を説明するにはわかりやすい言い回しを使え。
根本原則がわかるような、偏りのない説明をせよ。派閥主義を排し、有能な幹部を選べ。「雰囲気」を読み、具体化せよ。
(上巻終わり。以下は下巻。)
- 第14章 広東と福建の実験 1979年~1984年
鄧小平の広東訪問後、広東開発への北京の関心が高まった。新たに省党委員会第二書記に任命された習仲勲(習近平の父)が、中国の国際経済への門戸開放に大々的に取り組むために広東に到着した。
79年1月6日、習のもとに北京からの、外国投資受け入れの公式許可を求める申請案を作成し始めてよい、との知らせが届いた。
習との話の中で、鄧小平は広東と福建両省に対して柔軟性を与えることに同意した。これらの地域は「特区」と呼ばれた。
84年には14沿海都市へと開放政策は拡大される。中国の開放は香港の労働集約型の工場主にとって、まさに渡りに船のタイミングだった。
1980年代を通じ、広東の変革のペースは一貫して国内のほかの地域の先を進んでいた。
- 第15章 経済調整と農村改革 1978年~1982年
78年12月、最高指導層に復帰したばかりの陳雲は、中国経済の潜在的な危機の可能性に注意を喚起した。
成長の見通しは立たず、予算は均衡を欠き、海外から購入した技術や設備の支払い予定額は外貨準備高をはるかに超えていた。
毛沢東の死後18ヶ月も経たないうちに、華国鋒は何事にも慎重な均衡重視派の問題提起を無視し、120にも上る巨大プロジェクトを、第5期全人代に提案した。
鄧は以前は大胆に早くやれとけしかけていたが、陳雲の警告後は、陳雲を後押しし、均衡重視派への支持へと路線を変更した。
陳雲は多くの他の幹部と同様に、中国経済は58年以来、ずっとバランスを欠いてきたと信じていた。
1980年も終わりに近づいた頃には、陳雲と均衡重視派は経済政策をがっちり掌握していた。
- 第16章 経済発展と対外開放の加速 1982年~1989年
陳雲の緊縮政策が成功したことが、逆説的ながら、経済発展のさらなる加速を実行する強い論拠を鄧小平に与えた。
当初から中心的課題とさらたのは、どうすれば中国経済をうまく機能させながら、より統制の少ない開放経済へ移行させることができるかだった。
経済が上手くいっている間、鄧小平は改革解放を加速するために必要な政治的支持を得ることが出来た。ところが、経済がインフレなどの問題に直面すると、陳雲ら均衡重視派が政治的影響力を盛り返した。
改革派と保守派の激しい主導権争いが続くなかで、市場の役割の拡大を目指す改革派が優位を占めつつあった。
1970年代から80年代にかけての中国の劇的な対外開放推進の過程は、鄧小平とともに始まったわけではない。
しかし鄧が際立っていたのは、その扉を毛、周、華らとは比較にならないほど大きく開いたことである。
鄧は最高指導者の地位に上り詰めた直後の1979年1月、中国が台湾と香港に主権と最終的な行政権を持つと宣言すると同時に、こうした地域に高度な自治を認めると表明した。そうした政策の基本思想は周恩来が提起したものであったが、82年、鄧によって「一国二制度」として練り上げられ、体系化された。
アメリカが台湾を支持しなければ、台湾は中国の軍事占領を避けるために本土復帰への道を選ぶという見方がなされた。
つまり、中国は、台湾問題の平和的解決を阻むのは台湾と関係を維持するアメリカにほかならないと考えていた。
レーガン大統領は両国間の緊張を和らげようとした。そしてブッシュ副大統領を派遣し、鄧とブッシュは非公式な基本合意を形成した。
台湾への兵器売却に制約を設けることを確認したこの合意は、アメリカが「中国の主権と領土保全を侵害する意図も、……『二つの中国』あるいは『一つの中国、一つの台湾』政策を推し進める意図もない」ことを言明した。
香港の主権回復については、これに着手する前に入念な準備が必要だと考えていた。そのため1978年の時点では、それを実行に移す具体的な工程表はまだ作成していなかった。
79年、香港総督マレー・マクレホース卿が北京で鄧と会談した頃には、イギリスの一部外交官は、97年には香港の主権を手放さなければならないのではないかと考え始めていた。
主権を放棄したとしても、引き続きイギリス政府が香港の行政権を担うのを認めるのではないか。香港政庁の幹部も市民の多くも、そう期待した。
ところが、鄧はマクレホース総督に挨拶するやいなや、問題を切り出した。香港が中国の一部であるという前提に立つべきである。
ただし次の世紀にはいってからも相当長期にわたって、香港は資本主義制度を維持できると、彼は言明したのだった。
82年マーガレット・サッチャー首相が北京に到着した。フォークランド紛争に勝利してわずか三ヵ月後であった。
鄧小平は論点を整理した。(1)主権問題(2)97年後中国がどのような統治を行うか(3)97年まで混乱をさけるため中英両政府がどう協力していくのか。
交渉は一向に進まなかった。サッチャーがそのような条件を飲むはずもなかった。
その後数年にわたる10回の全体会議の間に、すべての主要な問題をめぐって協議が行われた。
87年、香港の危機感が頂点に達した頃、鄧は市民を落ち着かせるために起草委員会で原稿もなしに演説した。
香港の基本的な政治と統治の制度は50年間変わらない、香港の人びとが共産党を批判することを認める。ただし、それを行動に移し政府に立ち向かう場合には北京は介入せざるをえない、と。
基本法草案は89年に市民に公表され、中国と香港の双方で肯定的に受け入れられた。
78年末、鄧小平は中国とチベット人指導者ダライ・ラマとの関係改善を図った。
チベット人と漢族の緊張を完全になくすのが不可能なことは、鄧も十分承知していた。
胡耀邦は北京とチベット人との関係を変えていこうとする決意を大胆に表明した。彼は明らかに誠実だった。彼はチベットが傷つけられてきたという真実を受け止め、チベット人たちの苦しみの責任を党を代表して認め、将来にむけた改善策を打ち出したのである。
だが、胡耀邦が勇敢な試みを打ち出して一年もしないうちに、彼のもくろみは頓挫した。
その原因は、胡がチベットと北京の双方で、漢族の党幹部の反発を招いたこと。そして彼の計画がチベット人をなお十分満足させられなかったことである。
鄧小平は漢族の党幹部の圧力を受け、ダライラマは徹底抗戦を訴える亡命者集団の制約を受け、互いの主張の隔たりを埋めることができなかった。
89年にダライラマがノーベル平和賞を受賞すると、チベット人僧侶は抵抗運動を再開し、それに対抗して共産党のリーダーは再び締め付けを強化した。
鄧小平もダライラマも、お互いの主張の隔たりを埋めることはできないにしろ、全面的な対決は避けようとした。
80年代半ばに表出した悲劇の悪循環は現在も続いている。胡耀邦をチベットに派遣して以来、チベットと北京の間で、前向きな合意達成に向けた真摯な努力はなされていない。
- 第18章 軍隊 現代化を目指して
77年、鄧小平と葉元帥は中国軍の現代化の土台作りを進めた。
軍事技術で中国が大きな遅れを取っており、主要な敵のソ連に対抗するには戦略を調整しなければならないと考えていた。
鄧の考えでは、林彪期に軍の指導者を文官の地位に就けたことが、彼らが軍事問題に専心しなくなった原因だった。
現代的な装備を徐々に獲得し、専門的な軍隊を建設する目標のために最初にしなければならなかったのは、「だらけて、うぬぼれて、贅沢になり、怠ける」ようになってしまった者たちを追い出し、高齢の幹部を退役させる制度や、規模縮小の枠組みを作ることだった。
75年に610万人を擁していた軍が、82年までに420万人に、88年までに320万人になった。
ベトナム侵攻を期に、ソ連との戦争の可能性が縮小したのを見届けると、鄧小平は軍の現代化ではなく、他の三つの現代化、とりわけ陳雲が最重要と主張した農業と軽工業の分野に中国の資源をつぎ込むよう指示した。
80年代を通して、中国は郡に回す予算の割合を減らし続けた。公式データによれば、79年にGDPの4.6パーセントを占めていた国防費は継続的に減少し、91年には1.4%になった。
91年の湾岸戦争は、中国の指導者たちに、いかに中国軍が出遅れたかを見せつけた。
95年以降、江沢民の軍隊現代化の指揮の下で、国防費はGNP成長率よりもずっと急速な拡大を遂げることになった。
- 第19章 寄せては返す政治の波
中国の若者や多くの知識人にとって、78年以降に西洋から吹きつけてきた自由の風は、心が浮き立つようなものであった。しかし、高位指導者達の間では、国民にたいして、どの程度の自由を与えればよいのか意見が分かれていた。
胡耀邦は自由に対し最も理解を示していたが、保守派は彼に絶え間ない圧力をかけていた。鄧小平は、必要と判断すればいつでも規律を締め上げる用意をしていたが、保守派からの攻撃を受けても、胡への支援を継続した。
鄧小平は、知識人を完全に遠ざけてしまうことなく党への批判を押さえ込むという、ほとんど無理な課題に挑み続けていた。
高位指導部の後継者問題の解決はしばらく長引いていたが、上層部の新しい幹部を選ぶ際、主に考慮されたのは年齢と教育水準の二点である。選考過程は数ヶ月以上かけて、政治局と党書記処によって相当慎重に進められた。
新しく任命された若い幹部には李鵬(当時58歳)と胡啓立(当時57歳)がおり、彼らは総理と総書記の候補者とみなされていた。
江沢民は上海市長に、胡錦濤は中央委員会委員になった。もし有望だという評価を引き続き維持し、重大なミスも犯さなければ、彼らは後にもっと高い地位に就くことが見込まれた。
87年1月に学生デモが押さえ込まれると、胡耀邦は失脚し、北京の政治的雰囲気はさらに保守的になった。
結局のところ、胡耀邦は公式な手続きを経ることなく、総書記の職を解かれた。趙紫陽は総理のまま総書記代行として胡の後任となった。
多くのリベラル派幹部は、国家のためにあれほど懸命に働き、無視無欲で、うまくいく可能性を持った政策を掲げていた胡耀邦が、あんなにも献身的に仕えてきた人びとから辱められ、解任されたことは悲劇的かつ不当な措置だと考えた。
解任した後、鄧小平は何度も自分の家にブリッジをしにくるように誘ったが、胡は一度の例外を除いてすべて丁重に断った。
多くの皇帝がそうであったように、毛沢東は死ぬまで権力の座にとどまったために大きな弊害を生んだ。
このことを良く知っていた鄧小平は、最高指導者にも任期制を導入し、任期が満了すれば引退するという新しい仕組みを作る決意を固めていた。
鄧は自分の引退を迎えたとき、彼の基本原則を忠実に守り、まあ彼の経済政治上の課題を前進させられる趙紫陽なら、中国を次の改革段階に導くことが出来ると考えていた。
まとめ
かつて紅衛兵を動員し、鄧の長男を半身不随にも追いやった四人組など左派を排除した先にあったのは、今度は陳雲や胡耀邦らの自由主義者やリベラル派との軋轢でした。依然として残っている毛沢東の亡霊におびえる保守主義者たちとリベラル派の綱引きの間で、鄧はほぼ今日の中国共産党の原型を作り出すことに成功します。
しかし、その代償として葉剣英元帥や胡耀邦の失脚がありました。趙紫陽が後継となりますが、とうとうあの日がやってきます。
(続きます)