飛鳥時代と古代の日本、そして半島情勢
古代の日本の歴史はいまだ数多くの論争が続く時代です。記紀や中国・朝鮮の史書に多くの記録を残す飛鳥時代もまだその例外ではありません。
研究者によりその色彩が大きく変わりうる往時の日本の姿ですが、2013年に出版された本書は、丁寧に数多くの論争に配慮しながらも、納得できる一つの姿を提示してくれていると思います。とりあえずこの本が現在読みうる飛鳥時代の研究のフロンティアでしょう。
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六・七世紀という時代―プロローグ
飛鳥時代というのは、言葉の意味としては、飛鳥に都が置かれていた時代ということであり、ふつうは、推古の即位から「大化改新」で都が難波に移されるまでの間を指していう。
「日本」の国号が成立したのは七世紀末のことであり、それ以前は「倭」と呼ばれていた。
倭国における六・七世紀という時代は、本格的な古代国家が形成されていくとともに、仏教の受容、儒教・道教の導入、漢字文化の広まりなど、今日に通ずる文化が形成されていった時代でもあった。
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一 継体・欽明朝と東アジア
記紀の王統譜は、初代の天皇とされる神武から、16代目とされる仁徳までは、13代成務から14代仲哀への継承を除き、すべて父子直系で継承されたとしている。
おそらくこれは、記紀の編纂段階において理想とされた皇位継承のあり方であって、事実を伝えた系譜とは考えられない。
五世紀代の倭王位の継承は、父子・兄弟継承であったとみてよいだろう。
そのような王統譜において、26代継体が、15代応神の五世孫とされているのは明らかに異例である。
これまで多くの議論が重ねられてきたところである。
継体の出自について、『古事記』によれば近江国から迎えられ、『日本書紀』によれば越前の三国から迎えられたとされる。
記紀に伝えられる継体の后妃は、近江の出身者が多い。これらのことからすると、継体の出身地は、近江と考えるのが妥当のように思われる。
継体が六世紀初め頃の大王であったことは間違いない。
そのころ朝鮮半島では、新羅と百済が、南下策をとる高句麗に対抗しつつ、それぞれに伽耶地域への進出をはかっていた。
『日本書紀』においては、当時「任那」地域は日本の支配下にあったとされるのであり、新羅や百済も日本に従属していたと位置づけられている。
倭が伽耶地域と密接な関係を有していたことは事実であるが、このような位置づけは一方的なものであり、事実と見ることはできない。
522年の新羅の女性と加羅(大伽耶王)との婚姻は、百済の侵攻を受けた加羅王が、新羅との同盟をはかって申し込んだものと考えられる。
「任那四県の割譲」を受けた百済も倭と結ぶ方針を継承し、さらに領土の拡張を目指していった。
一つの事件について多くの文献に記事があるというのは古代においてはめずらしく、磐井の乱が、八世紀の人々にも大きな事件として認識されていたことが知られる。
磐井の乱は、新羅に破られた南加羅とトクコトンを復興するために「任那」に派遣された近江毛野の軍を、磐井がさえぎったことにより始まったとされる。
新羅が磐井に賄賂を送って、近江毛野の軍を妨害するように勧めたというのも、当時の朝鮮半島情勢からすれば、事実を反映した記述である可能性が高い。
磐井の勢力は、新羅からも高く評価されていたことになる。
磐井の墓に該当するのは、福岡県八女市の岩戸山古墳である。北九州全体の中でも最大であり、この時期の古墳としては、畿内地域の最大級の古墳に比べてもひけをとらない規模である。
磐井の乱の性格については、倭政権に対する反乱ではなく、日本列島における国土統一戦争であったとする見方もある。
たしかに、大王を中心とした中央政権が、国造制・屯倉制などの制度を通してこの地域を支配するようになったのは、磐井の乱後のことと考えられる。
磐井の乱後、近江毛野の軍は朝鮮半島に渡ったが、新羅に敗れ、毛野による外交交渉も失敗に終わったとされる。
結局南加羅(金官国)は、532年、新羅に降伏することになった。
継体の死をめぐっては不明な点が多いが、『百済本紀』に、「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がともに亡くなったと聞いた』とあるのが事実の伝えであったならば、それは尋常なことではない。
『百済本紀』の記事をいかに考えるかという問題は残るが、継体の死後、安閑、宣化そして欽明へと王位が継承されていったとする記紀の伝えは、年月の細部はともかくとして、事実と認めて良いのではないかと思う。
『日本書紀』によれば、539年10月の宣化の死去を受けて、同年12月に欽明が即位したとされる。
欽明は、継体と仁賢の娘との間に生まれた子であり、継体の多くの子の中で、特別な地位にあったとみてよい。
欽明もまた、宣化の娘を皇后に立て、欽明の次は、その間に生まれた敏達が王位を継承していくのである。
金官国が新羅に降伏したのは、532年であったが、その後倭政権は「任那復興(金官国など新羅に併合された伽耶諸国の復興)」を方針とし、それを実現するための拠点を安羅(残る南伽耶地域の最有力国)に置いたと考えられる。
欽明紀に登場する「任那日本府」は、その拠点を指すとみるのが妥当だろう。
「任那日本府」という語は『日本書紀』編者の造語と考えられるが、それは、倭政権から派遣された倭臣と、現地の倭系の人物から構成されていた。
倭政権から独立した存在とみる説もあるが、安羅や新羅の意向に影響されることはあったにせよ、それは基本的には倭政権の方針に従ったその出先機関であったとみてよいだろう。
またその頃になると、高句麗で新たな動きが生じた。
554年に大規模な政変が起こり、陽原王が即位し、百済北辺への圧力をかけてきたのである。
この高句麗と百済の戦いに乗じて、新羅が侵攻し、結局は新羅がこの地域を領有することになった。
こうした中で、百済の聖明王は新羅との戦いを覚悟し、552年以降、頻繁に倭に援軍を要請してきたのである。
倭もこれに応じて出兵したが、554年7月、聖明王は新羅との戦いに敗れて戦死した。
百済との戦いに勝利した新羅は、まもなく安羅など残された南部伽耶諸国を制圧し、562年には大伽耶を降伏させ北部伽耶地域も支配下におさめた。
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まとめ
任那のその実態についても数多くの意見が出される今日ではありますが、複雑化しうる朝鮮半島情勢の中で、とうとう倭国はその足がかりを失います。
その後、半島への足がかりの復権が、倭国の最重要の外交課題となるのでした。
(続きます)