長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(上) 2 毛沢東の死、四人組の失脚まで

続きです

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/01/27/231015

 

 一度は失脚したものの、華々しい復活を果たした鄧ですが、晩年をむかえてより疑り深くなった毛沢東や、大きく思想を異にする四人組などの間に軋轢を生んでいきます。

 

 

現代中国の父 トウ小平(上)

現代中国の父 トウ小平(上)

 

 第2部 最高指導者への曲折の道 1969年~1977年

 

  • 第2章 追放と復活 1969年~1974年

 

 江西に送られると、鄧小平と卓琳は小さなトラクター修理工場で雇われて、午前中はそこで働いた。

 北京で攻撃を受けていた三年の間に体重を落としてやつれて見えたが、ここでは体重も戻り健康を取り戻した。常用していた睡眠薬も江西に来て二ヶ月ほどで完全にやめてしまった。

 50年代末期から60年代初めにかけて、毛沢東林彪元帥と鄧小平を最も有望な後継候補としてみなしていた。鄧小平も10人の元帥達とほぼ良好な関係にあったが、林彪とだけはうまくいってなかった。

 66年、毛は林彪を後継者として選んだ。林彪は後継者になるのを三度拒否したが、事実上の命令をうけてそれを受諾した。

 ところが以上に疑り深いは、林彪が自分の生きているうちに権力をうばうのではないかと疑念を持ち始め、71年夏に追放する準備に着手した。

 9月、不安に包まれた林彪が逃亡しモンゴルで墜落するが生存者は一人もいなかった。

 あまりにも突然だったため、世代交代の準備もできておらず、毛はトップの地位を守り続けたが他の指導者達により大きな政策決定の幅を認めた。

 毛沢東周恩来の手を借りるほか、軍の労幹部の葉剣英を呼び戻し軍の秩序再編にあたらせた。

 

 69年の故郷紛争以後、中国とアメリカは外交関係の再編を考慮し始め、71年にキッシンジャー訪中、72年にはニクソン訪中が実現した。

 毛沢東がようやく鄧小平を呼び戻したのは73年の事だった。彼が初めて公式な場に現れたのはその年のカンボジアシアヌーク殿下の晩餐会で、そこでは副総理として紹介された。

 毛は73年11月のキッシンジャー訪中直後にあわせ、一連の会議を開かせ周恩来を批判させた。鄧が周恩来を批判すると、毛は大喜びで呼び出して会談した。

 周恩来は公式には総理の座に留まったが、鄧小平は政治局と中央軍事委員会の正式なメンバーに任じられて、国連の中国代表にも周にかわり鄧を選んだ。

 癌で入院した周にかわって、毛が鄧に周恩来の任務を引き継がせようとしているのが明らかになると、極左派の江青たち四人組からの鄧小平への攻撃が始まる。

 

  • 第3章 毛沢東の下での秩序回復 1974年~1975年

 

 74年12月には毛と周はかつてのように再び協力して働き始めた。毛と周は死ぬまで主席と総理の肩書きを保持していたが、彼らの元で鄧小平が第一副総理、王洪文が第二副主席に任命された。

 王と鄧はこの二人の指導者から指示を受け続け、不満を感じればいつでも更迭できる体制であった。また宣伝部門江青率いる極左派に委ね、鄧が毛の遺産から距離を置くようなら封じ込めることができるようにしていた。

 鄧小平と葉剣英元帥は、毛沢東主席と中央軍事委員会の多数派からの支持を受け、75年には軍隊の規律の回復や規模縮小で大きな前進を成し遂げ、教育や技術水準を向上させる道筋をつけた。

 75年春までに、毛沢東王洪文に対する疑念は深まった。4月末から6月にかけて断続して開かれた政治局会議で、王は江青と一緒に批判され、自己批判をした。5月27日と6月3日には、彼に代わり鄧が初めて政治局会議を取り仕切っている。

 

  • 第4章 毛沢東の下での前進 1975年

 

 毛沢東の逆鱗に触れないように注意を払いながらも、鄧小平は革命を担うのではなく、国家を治めるのに貢献する人材を選ぶため、野心的に戦力的に動いた。彼は理論問題に取り組む文筆家の小さなグループを作ろうと毛に申しでて、この小さなブレーン集団は政治研究室となり、メンバーも増員された。

 鄧小平は他の指導者よりも先に、中国は世界に目を向ける必要があると認識するようになっていた。他国がいかに目覚しい改革を実現してきたか、そして中国がどれだけ後れてしまっているか、他の指導者よりもずっとはっきり感じ取っていた。

 75年には中国が市場開放や資本主義国から学んでよいのかどうかまだ合意がなかった。外枠を押し広げていくために、外国からの技術導入の拡大を促進した。

 11月には毛の同意を得て、主として第5次五カ年計画と76年の年次計画について議論する全国計画会議が開かれた。

 新しく策定されたこれらは、慎重な計画立案者たちにとり勝利を意味したが、より野心的な10カ年経済見通しを策定した理想化の間には食い違いが生まれ始めていた。

 科学機関の再建にも目が向けられ、中国科学院で実際の科学機関の整頓作業を指揮するものとして、鄧は自ら胡耀邦を選んだ。

 ほとんどの知識人にとっては、悪い状況が継続していた。周恩来は74年12月に毛沢東と会談し、再び高等教育の復活への希望を抱くようになった。周栄キン(金が3つ)が教育部部長に任命され、鄧小平も完全に指示したが、政治局から厳しい攻撃を受ける。

 周は病に倒れ病院に担ぎ込まれたが、病院から連れ出され50回以上も批判会議でねじ上げられたが、ついに会議中気を失い、翌日の夜明け前に死去した。

 11月、自分を尊重していないと疑い始めた毛は政治局に再び会議を開かせた。江青極左派の仲間達も、次々と批判に加わった。鄧は議長として必要最低限の発言をしただけで、それ以上はなにも言わなかった。

 その後政治局は二ヶ月にわたり、あまりにも多くの老幹部を次々に復活させ、「右派巻き返し」を図った鄧小平を批判する会議を開き続けた。鄧は毛に個人的な手紙を送り、助言をいただきたいとしたが、毛は返事をよこす代わりに批判運動を拡大した。

 鄧はもうが何を求めているかを理解し、新たな自己批判書を買いて1月3日に提出した。鄧は階級闘争を中心的な目標として据え続けなければならないと宣言するより、罰を受けることを望んだのである。

 自己批判書を提出して5日後、周恩来が死去した。その直後、華国鋒が鄧の後任に任命された。

 75年に毛沢東は、秩序、安定、経済発展をもたらすために譲歩しようとしたが、最後には我慢できない範囲まで鄧小平が手を広げてしまった。

 毛は失脚させ、批判を受けさせることが出来たが、部下の考えを支配する力も、部下達からの支持も失っていた。

 鄧は短期的には蹴落とされたが、頑固に抵抗したことで、後に有利な立ち位置を占めることが出来た。

 

  •  第5章 毛沢東時代の終焉を傍観 1976年

 

 周恩来毛沢東より早く死んだことで、毛は周の争議を手配し、その性質を決める権限を得たが、中共の基準からして周の貢献に対する敬意を最低限にとどめることで、多くの人びとの彼への思いを踏みにじろうとした。

 だが、毛の策略は裏目に出た。中国の多数の人びとは説得されるどころか、彼らが尊敬し思慕する周が、死後に当然与えられてしかるべき評価を与えられなかったことに失望したのである。ラジオや拡声器で周恩来の死が通知されると、一般大衆の間からは彼の死を悼む全国的で大掛かりな動きが巻き起こった。

 鄧小平を要職から追放し、大衆の前で非難する準備を始めてからも、毛は鄧への攻撃を制限した。当面、任務は削減するが、なお仕事を続けてかまわないとしたのである。

 清明節(亡くなった者を偲ぶ日)の少し前の3月25日、四人組の統制化にあった上海の新聞は、鄧に加え、彼の「支援者」だった走資派を批判する記事を公表した。読者には周恩来を意味していることが明らかだった。

 清明節の4月5日、夜があけると天安門広場の大衆の数は10万人に膨れ上がった。人びとは激しく憤り、「われわれの戦友をかえせ」と叫んだ。デモ参加者たちはこの日に自分達の意思を行動で示した。

 少なくとも政治的意識がどこよりもずっと高い北京では、毛は大衆の支持を失い、周恩来が彼らの英雄になり、鄧小平は彼らから最高指導者に就任するのにふさわしい支持率を獲得したのだった。

 毛沢東は鄧小平を完全に権力の座から追放した。それにも関わらず、鄧を子供達と一緒に安全な場所に移し、四人組には鄧の居場所を知らせるなと部下に指示したのである。

 天安門のデモから一ヵ月後、毛沢東は心臓発作で倒れた。意識は失わなかったが、その後かなり衰弱した。6月26日には二度目が、9月2日には三度目がおき、そして9日の午前零時10分、彼は亡くなった。

 中国は国をあげての服喪期間に入り、政治闘争はひとまず脇に追いやられた。

 

 10月に入ると、華国鋒は、四人組にたいして緊急に行動を起こさなければならないと覚悟を決めた。四人組の逮捕には、主席代行だった華国鋒と、中央軍事委員会副主席の葉剣英元帥、中央警衛団の責任者の汪東興が連携した。

 10月6日の夜、午後8時直前王洪文は警備隊に捕まえられ、その後35分間で四人組の脅威は排除された。

 華国鋒は自らの地位を固めるため、鄧小平批判を継続し、その復活を遅らせることを選んだ。多くの指導者たちはこのときまでに、鄧小平がいずれ仕事に復帰するだろうと考えるようになった。

 

まとめ

 

 この時期、周恩来朱徳毛沢東と、中国共産党を代表する大物達が相次いで亡くなります。矢継ぎ早に改革を推し進めようとした鄧は、毛からの疑念と四人組からの激しい攻撃を受けますが、最後には時間が勝利しました。

 国民に愛された周恩来の後継として、次回ではいよいよ鄧小平が最高の地位にたどり着きます。

 

’(続きます)

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/07/220708