長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

ジョセフ・ヒースが経済学について考えてみた

  未読ですが、「ルールに従う」も話題になったジョセフ・ヒースの前著です。経済学と銘打たれていますが、彼個人は経済学の正式な教育さえ受けていないと書いています。しかし通読すれば分かるとおり、明らかに経済学に関する深い理解と違和感をもとに本書を書いています。左右両側への口撃はややわら人形論法な印象を最初受けましたが、述べられている意見は、まっとうなやり方をしかるべき対象にするという、いとも簡単で、そして難しいものです。

 

資本主義が嫌いな人のための経済学

資本主義が嫌いな人のための経済学

 

 プロローグ 

 

 資本主義の批判者はお世辞にも経済学をきちんと学んできたとはいえない。

 この結果として残念なことが二つある。

 一つは、左派のほとんどが、保守派が持説の支持のために決まってもちだすデタラメな論法を見抜けないこと。

 二つ目の問題とは、あまり成功しそうになく、恩恵を施したい相手に役立ちそうもない計画や政策の宣伝だか扇動だかで、善意の人に数限りない時間を無駄にさせてしまうことだ。

 私が学んだのは、「社会」について考えるとき必ず念頭におくべきポイントが以下のように四つあることだ。

  1.人はバカではない

   自分の計画を成就させるには他人のそれに考慮する必要がある。経済学者はこのことを社会的行為の戦略的次元と呼ぶ。

  2.均衡の重要性

   経済学者は社会的行為の戦略面に注目するので、ほかの社会学者に比べて、単なる行動パターンや統計上の相関関係にはさほどの興味を示さない。こうした反応をないがしろにすることが、社会政策が失敗する重要な要因である。

  3.すべては他のすべてに依存する

   実社会では多くのことが現実に多くの他のこと次第だ。市場経済がこのような巨大な相互依存のシステムを象徴している。

  4.帳尻を合わせるべきものがある

   この等価の原則はけっこう油断ならない。

 私は経済学者でないだけではなく、実際のところ経済学の正式な教育さえ受けていない。これは議論の信頼性を損なうためではなく、たんに経済リテラシーは言われているほどハードルが高くないことをしめすためだ。

 

第1部 右派(保守、リバタリアンの謬見)

 

  • 第1章 資本主義は自然 なぜ市場は実際には政府に依存しているか

 

 福祉国家の成功と失敗は右派にも左派にも苦渋をなめさせた。かつて彼らを左右に分かったイデオロギーの核心を捨てさせたのだ。

 どういうことか。端的に言えば左派はコミュニズムを、右派はリバタリアニズムをあきらめた。

 資本主義経済システムはハイエクが「自生的秩序」と呼ぶものとして生じたはずだったが、誤りであることが判明する。

 同じ目的のもとでさえ、全員がその共通の目的に向かって行動するためには、しばしば政府の「見える手」の介入が必要となる。

 市場経済を動かすためには、三つの基本的な協力のシステムが機能しなければならない。デイビッド・ヒュームが「所有の安定」「同意にもとづく委譲」「約束の履行」と述べたものだ。

 この三つの基本法リバタリアンに余儀なくされた最初の大きな譲歩だったが、西省国家の必要が認められたと同時に、転落への第一歩が踏み出されていた。

 ヒュームの基本法は活発な市場経済の土台としては明らかに不適切なことが分かった。所有権と契約法は19世紀の資本主義の基礎の基礎を築いたが、当時の資本主義の問題はろくに機能しなかったことだ。

 おびただしい数の銀行への取り付けに加えて、5回の全米規模の金融恐慌があった。結果として議会が取り組んだのは、資本主義制度の大きな改造だった。

 1914年の連邦準備制度の創設に続いて、1933年には連邦預金公社が設立され、政府の保証によって、取り付け騒ぎそのものがなくなり銀行が最も恩恵をこうむった。

 サブプライムローン破綻時に実業家達が政府に助けを求めてきたように、結果として国は、事実上、商取引の健全性を守るのに莫大な金額を費やしている。

 「小さな政府」や「レッセフェール」の資本主義への傾倒は、原理に基づいた個人の自由の擁護というより、投資する金のある人に恣意的に利益を与えることになっている。

 

  • 第2章 インセンティブは重要だ ……そうでないとき以外は

 

 経済学の核心は「人はインセンティブに反応する」、これこそが誤りの温床なのだ。

 無節操であることと私利から行動することの違いを明らかにするには「トロリー問題(5人轢き殺すか、レーン変更して1人の作業員を殺すか、作業員を突き落とすかのサンデルトロッコ!)」を考えると良い。

 いずれにせよ、作業員が死ぬべきだと考える人たちは、帰結主義者と呼ばれている。行動は厳密に結果によって評価すべきと思っているからだ。

 この帰結主義への傾倒でおかしいのは、この主義を支持する哲学者は概してこれを人がどう判断を下すべきかの理論として用いるのに対し、経済学者はこれを実際に人がどう判断するかの理論として用いてきたことだ。

 「ヤバい経済学」のレヴィットが研究する人たちは外的インセンティブの範囲内で生じる機会に乗じている。この人たちは心理学者が外的動機と呼ぶもの--金、地位、権力に動かされる。

 道徳性を重視する社会学者は「社会学者」と呼ばれるのに対し、そんなものはペテンだと思っている社会学者は「経済学者」と自称するのだ。

 経済学者がインセンティブを過大評価するのは許されるかもしれない。それは、ごくありふれた認知バイアスに陥っているということなのだ。

 何より明白な教訓は、人間心理はひどく複雑だということだ。経済学者のトレードマークともいえる、人間の合理性やインセンティブへの反応についての仮定は、甚だ単純化しすぎたものである。

 この単純化されたモデルが、素晴らしく有力で高度に一般化された結果を生み出すことがあるが、まったく的外れな予測をすることもある。

 この件に気づいて行動経済学の分野に向かう動きが目立ってきたが、残念なことにまだこの分野では経済学入門で教えるようモデルのような説明および予測の力を持つものは生み出せていない。

 

  • 第3章 摩擦のない平面の誤謬 なぜ競争が激しいほどよいとは限らないのか?

 

 私達は用いる手段に関してだけ効率性を云々するのがふつうだ。

 糸のこぎりは電動のこぎりと比べて、木を切る手段としては非効率極まりない。では木を切るという結果についてはどうか?それは薪にするなど他の目的がないことには効率的とも非効率的ともいえない。

 これに反して経済学者は、結果が効率的か非効率的かを語るのだ。この語の意味に従えば、パレート最適な状態のような結果が「効率的」と称される。

 この効率性の概念と取引の効用にはきわめて密接な関係がある。けれども見えざる手の定理と、取引が効率性を高めるという言説には重大な違いがある。

 見えざる手の定理では、一つの自発的交換からでも効率性が高まることは、誰も疑っていない。しかし見えざる手の定理では、完全な競争市場が完全に効率的な結果を生むというのだ。

 経済学者がこの証明らしきものをするには、54年のアローの一般均衡モデルを待たなければならなかった。

 アローとドブリューが完全競争を説明するために導入した理想化が極めて極端なことは誰にでも分かる。

 彼らの理論の結果が現実の世界に何らかの直接の影響をもつためには、規模の経済があってはならないし、需給の決定に価格が影響される可能性も、取引費用もあってはならない。

 そして最も重要なのが、外部経済(外部性)、つまり他者に課される保障されない費用便益があってはならないことだ。

 誰でもわかるように、現実の世界とはあまり似ていない。

 特定の科学的理論に用いられるモデルを指して、非現実だというだけでは反論になっていない。科学に「摩擦のない平面」のような理想化を用いることは原則として何の問題もないし、経済学者の多くはこうした見地からそのアプローチを支持してきた。

 しかし、現実の世界が完全競争の理想から一転でもずれていたら、最善の結果が得がたいばかりか、完全競争になるべく近づけた状態が次善のほかの選択肢よりも悪い結果を生むことはほぼ確実である。

 物理や幾何学では理想に近くなるが、完全競争に関しては、完全にはとどかない範囲で条件を満たせば満たすほど、完全効率性の理想からは遠ざかってしまう。

 

  • 第4章 税は高すぎる 消費者としての政府という神話

 

 政府は富の消費者のように扱われ、民間部門は生産者のようにみなされる。実際は、国家が生み出す富の大きさは市場のそれとまったく同じである。つまり何も生み出していない。国民が富を生み、国民が富を消費する。

 これらが構成するメカニズムを通して国民が富の生産と消費を整えるのだ。

 政府が提供する便益の画一性については誇張されてることが多い。また、福祉国家が一定の財を提供する場合はたいがい、ごく控えめな程度に抑えて、消費者がその与えられた公的資格に、民間市場でさらに購入した財を上積みできるようにしている。

 だから消費者選択が制限されたことで最も深刻な損害をこうむるのは貧困層であるが、同時に貧困層が国から受け取る万人向けの財は、自力であがなえたであろう財よりはるかに価値が高い。

 

  • 第5章 すべてにおいて競争力がない なぜ国際競争力は重要ではないのか

 

 基本的に貿易は競争関係ではない。競争には勝者と敗者があるが、貿易とは協力関係だ。双方のためになる--そうでなければ貿易はしない。

 とはいえ、国際貿易の熱烈な支持者の多くは、この相互利益の言及によって国際貿易を主張するのではなく、うかつにも、ある種の競争という枠にはめて主張を損なう道を選んでしまった。

 このため、グローバリゼーションは勝者が敗者を犠牲にして利益を得るゼロサムゲームであるとの考えが強まっている。

 生産性は重要だ。しかし重要なのは、ある特定の国民経済内の相対的な生産性だけだ。アメリカの自動車メーカーの従業員が職を保てるのは(たしかに保てる限りのおいて)、ほかのアメリカ人労働者と比べて生産性が高いからであり、メキシコ人と比べてではない。

 一般的には豊かな国は高生産性部門比較優位をもち、貧しい国はたくさんの未熟練労働を要する部門比較優位を持つ。このために貿易の結果として、豊かな国に資本集約型産業の雇用増と、貧しい国に労働集約型産業の雇用増がしばしば重なることがある。

 

 

 自己責任の要求は往々にして、許容度ゼロの「自業自得」式の態度の表明である。もう一方の極端な態度は、道徳上はモラルハザード問題をまったく無視すべきだとの考え方である。

 保守主義者たちは政府の援助を、自立の精神を損なうとして非難している。これは保険制度の一般的な問題を道徳の観点から述べているに過ぎない。

 つまり、保障はモラルハザードを生じがちだというのだ。

 保守主義者たちが認識しそこねているのは、問題のモラルハザード効果はあらゆる保険制度に共通する特徴だということだ。その制度が公的か民間化は関係ない。しかし、あらかじめ選択効果が起こることは無視されている。

 民間保険市場は情報の非対称性に直面して失敗しやすいから、モラルハザード逆選択を生じそうな保険は、「最後の保険者」こと国が提供される場合に実現されがちだ。

 だからモラルハザードを政府のせいにするのは、筋が通らない。そもそもモラルハザード問題があるために、政府がその制度を運営するのが常なのだから。

 

第2部 左派(革新、リベラル)の誤信

 

  • 第7章 公正価格という誤謬 価格操作の誘惑と、なぜその誘惑に抗うべきか

 

 左派にとって、豊かな工業化社会で食住をあがなえない人がいるのはゆるしがたいことだ。それだけなら問題ない。

 だが、ここで二つの大きく異なる見方がある。問題はこれらが高すぎるか、お金が足りない人がいるかのどちらかだ。同様に、問題の解決法は二つある。一つ目は価格を変えること、二つ目は国民の収入を補うことだ。

 経済学に通じた左派がほぼ一致して好むやり方が、適当に競争的な市場が形成されるケースでは、価格は市場に設定させ、分配の構成の問題に収入から取り組むというものだ。

 価格操作によって社会的公正という二つのもっともな理由をあげる。

 分配の公正という観点からは非効率である。資源の不適切な割り当てによって多くの無駄が生じる。結果としてゆがめられた価格から市場に予期しない反応が起こる。

 これまで論じたのは価格を下げたいというケースだが、貧しい生産者にチャンスをあたえるために価格をあげたいというケースもある。

 しかし慈善的価格付けは、富の移転を起こすだけではなく、期待には反するが完全に予測しうる結果になるように、インセンティブをもかえてしまう。

 そのような場合には、人道目標はまとまった移転によるほうが、はるかによく達成されるだろう。

 

  • 第8章 「サイコパス的」利潤追求 何故金儲けはそう悪くないことなのか

 

 利潤が資本主義で演じる役割を考える前に、広く蔓延した誤りが二つある。

 一つ目は「営利」と「私利」の単純な混同によるものだ。私企業の経営者にとって利潤の最大化は概して利他的な行動だ。利益はほぼすべて他人の手に渡るのだから。

 したがって、組織の目標と個人が行動するときのインセンティブを混同し、それをもとに道徳的な判断を下せば、とんでもない誤解につながる。

 二つ目は、「社会」が企業に利潤の最大化を白紙委任しているという、広く流布している印象だ。

 実際には、競争市場が構成されている場合だけで、構成されないところでは、ほぼ例外なく、政府の規制により利潤の最大化は明確に禁じられている。

 このため、電力供給やケーブルテレビなど自然独占の状態にある企業は値上げしたければそのつど政府に許可を求めねばならない。

 利潤の道徳的地位をめぐる論争でもう一つの不毛なあいまいさの原因は、「金儲け」と「利潤をあげる」ことの混同である。

 利潤は諸悪の根源で、社会はもっと公益に積極的に関心をもたせることで改善されるとの考えは、社会がすでに私企業から社会的便益を引き出すことにかなり成功してきたという事実を無視している。

 間接的には競争市場を生み出すことで、直接的には規制と課税によって、国家は私企業を高度にコントロールしている。

 

  • 第9章 資本主義は消え行く運命 なぜ「体制」は崩壊しなさそうなのか(しそうに思えるのに)

 

 景気後退の見かけは需要の全般的な不足である。しかしセイの法則のように、財それ自体から財の需要が生じる。供給がそのものの需要を生み出すのは、供給が需要であるからだ。

 だから一般過剰生産は一般に、法則に例外を認めることが可能でなければ起こりえない。

 純粋な現物交換経済にそのような例外はない。だが市場経済の発達により、事情はもっと複雑になった。

 最初に出てくる示唆は、貯蓄のせいで供給過剰が起こるのではないか、ということだ。

 もし貨幣の需要が急増するとしたら、どのように見えるだろう。ほかのすべての需要が減少しているように見える。

 ちょうどインフレで、すべての財の価格が上昇して見えるが、貨幣価値が下落しているだけなのと同じで、景気後退ではすべての財の需要が減少して見えるが、実は貨幣の需要が増大しているだけなのだ。

 ケインズの革命的かつ多くの人には信じがたかった主張は、現実世界の景気後退はどれも基本的に同じ構造ということだ。

 結局それは経済のなかでの通貨の流通の「不調」が引き起こす貨幣的現象であって、資本主義システムの「固有の矛盾」ではないという。

 問題がシステムの構造的特徴ではなく、システムの残りは無傷に保ったまま不調を修復する方法を考え出すことが出来る。

 市場があるか否かではなく、市場がいかに管理され、いかに包括的で人間的なシステムにされるべきか、協力による便益と負担をどのように分配するかが問題なのである。

 

  • 第10章 同一賃金 なぜあらゆる面で残念な仕事がなくてはいけないのか

 

 結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。

 総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。

 賃金について論じるときは、基本的な経済上の事実をつねに念頭に置いておく事だ。

 第一に、人間の条件の大本は極貧状態ということ。人類史の大半は生存水準スレスレの生活をしていた。

 第二に、不公平は吹聴されるほどの大事ではないことだ。低開発国の根本的な問題は、富の配分が悪いことではなく、十分な富がないことだ。だから何より優先すべきは経済成長である。

 国民所得の労働者への分配率は長期にわたってかなり安定していることにも留意したい。

 実際、どの国の庶民の所得も、その国の社会・政治制度に労働がいかに扱われているのかで決まるのではない。

 それは労働者の生活の質に大きな影響を与えるが、その富を決める最重要の要因ではない。分配率は重要だがそれほどでもない。

 本当に重要なのは労働生産性の平均水準である。これが長期的に結局は賃金を決めるのだ。

 特定の賃金率が公正か不公正かという直感的道徳的判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策につながるのがおちである。

 

  • 第11章 富の共有 なぜ資本主義はごく少数の資本家しか生み出さないか

 

 よいアプローチは、貧困の大半は極めて厄介なもので、貧困者の自滅的行動パターンでさらに悪化するという明白な事実を認めつつも、右派の政策的な含みに応じないことだ。

 そうした政策が問題なのは、保守主義者が自己責任の旗の下に、モラルハザード問題と双曲割引効果(近視眼的な行動に加えて、哲学者が伝統的に「意思の弱さ」と呼ぶ現象を生み出す)との違いを無視してしまうからだ。

 自身の選択の結果に甘んじて生きるよう強制することが、前者には功を奏すかもしれないが、後者にはさほど効果がなさそうである。

 未来を割り引く人の問題点は、確かなインセンティブでもかろんじることだ。このまさに同じインセンティブを解決法として提示しても、結局ほとんど解決にならない。

 極端な双曲割引関数をもつ人たちに必要なのは、有効なセルフコントロール作戦を容易にするためのインセンティブの再構築である。

 期待できる戦略は、国民にいかに生活すべきかを指図する制度と、もっと実り多き人生を送るために必要な責任を果たすのを手伝う制度の区別も付けられない、そんな古い考えに意義を申し立てることである。

 

  • 第12章 レべリング・ダウン 平等の誤った促進法

 

 完全競争市場が完全に効率的な結果をもたらす理想の世界とほぼ同じ理想の世界では、効率と平等の間になんら緊張関係はない。

 資本主義の効率と社会主義の平等は同時に得ることが出来る。この有意義な結果は、厚生経済学の第二基本定理と呼ばれる。

 すべての結果は二つの選択から生じると考えられる。「どれくらい多く」分配するかの決定と、「誰が何を得るか」の決定である。

 原則として、この二つの選択は相互に関係はしない。実際、効率を犠牲にして平等性を高める提案を考え出すなど、いともたやすいことだ。

 真の進歩的な政策の精髄は、効率性のほうに大きな犠牲を求めないで平等性を改善する方法を編み出すことである。現代経済学はそれが可能だと教えている。

 

エピローグ

 

 私達の問題はたいがい問題を直す意思に欠ける事ではなく、直す方法をしらないことである。

 イースタリーが援助と開発に関する近著でこのことを劇的に書いている。

 なんでこんなに多くの子供達がマラリアで死んでいるのか?けち臭い話だ!もっと金を出さなければならないのは明らかだ。

 イースタリーは質問を反転させる。西側諸国が過去5年間で2兆3千億ドルを超える金額を対外援助に費やしたこの世界で、なんで援助機関はまだ、マラリア死の半分を防ぐことが出来ないのか。これは単なる資金不足の問題のはずがないとわかる。

 第一の教訓は、問題は複雑だということだ。

 謬見というのは厳密には、晋なる前提から謝った結論へ導く主張にすぎない。

 謬見がとりわけ経済学の分野で根深いのは、人は複雑な物事をよく理解できないからである。

 手っ取り早い解決法はあるか?ない。だから本書はハッピーエンドとはいかない。これまでに得られたのはせいぜいいくつかの改善点と、ほかにどんな改善が出来そうかを考えるための知的ツール一式くらいだ。そこにこそ現代経済学の価値がある。

 

まとめ

 

 社会学がともすれば悲惨な水準で、噴飯ものの提言を大真面目に主張するどこかの国とは違って、分野横断的にこれほど高い水準の提言を一般向けで語ることのできる哲学者がいるというのは驚きとともに羨ましくもあります。ぜひ「ルールに従う」も読んでみたいと思わせる内容でした。

 

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)