飛鳥時代と古代国家 2 推古そして厩戸
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の続きです。
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二 六世紀の王権と蘇我氏の台頭
『日本書紀』によれば、欽明は571年4月に崩じ、「皇太子」に立てられていた敏達が即位したとある。
欽明は、臨終の際に敏達に、新羅を討って任那を復興するよう遺言したとされる。
そしてこの「任那復興」問題が、敏達朝およびそれ以降も、外交上の課題とされていくのである。
現実に「任那」の再興がなしえないのであれば、新羅に「任那の調」を肩代わりさせることによって、「任那復興」をはたしたことにしようとしたのである。
調の貢上は服属を示すものであり、倭としては、たとえ名目にすぎないにせよ、倭に服属する国としての「任那」の存在を必要としたのであろう。
新羅も倭との対立を避けるため、名目上の「任那の使い」を立て、その調を貢上したものと考えられる。
欽明から敏達へと王位が継承されたことは、王位が一つの血統に固定化されたこと、すなわち王統が形成されたことを示すものとして注意される。
王統の固定化は、いいかえれば、有力な豪族の誰もが王位に就き得た状況の否定であるが、その場合の王統は、一般の豪族の族長位の継承とは異なる原理を持つことが、その形成・維持に有効と判断されたのであろう。
その近親婚を採用したのが欽明であり、ここに近親婚による所生子を継承者とする特殊な父子直系継承を原理とした王統が形成されたのであり、その後この王統の原理は、六、七世紀をとおして維持されていった。
しかし当時は、この王統に位置する人物であれば、誰でも王位に就き得たという状況ではなかった。
大王は成人でなければならず、それは、大王には大王としての力量が必要とされたからである。
支配組織が未発達な段階では、権力の頂点にどのような力量の人物が立つかという問題は、支配者層全体にとって重要な問題であった。
そして、実際に大王が権力の頂点に立っていたことは、六・七世紀の政権抗争のほとんどが王位継承にかかわる争いであったことに良く示されている。
いずれにせよ、十分な経験と知識をもった成人であることが、大王の必要条件とされていたと考えられる。
当時の王権のあり方を考えるうえで、「皇后」「皇太子」の問題も重要である。
律令制下の皇后は、天皇の正妻であるとともに、一定の政治的権限をもった存在であった。
律令制下の皇后に相当する地位は、それ以前から存在していたのであり、それは、オホキサキと呼ばれ、大后と表記されていたと考えられる。
王権を大王一人に集中させた場合、大王の死による王権の動揺は大きいが、大后が王権を分掌するならば、その動揺を小さくすることが可能である。
皇太子というのは、いうまでもなく次期天皇という地位である。
ワカミトホリと呼ばれる倭王の後継者を示す地位の存在したことが伺える。
大王と大后の間に生まれた男子が、成人に達し、次期大王としての力量をそなえていると判断された場合に、太子に立てられたのである。
つまり、大王と大后との近親婚による所生子が王統の担い手になるということと、大后・太子が王権を分掌するということとは、まさに一体のものとして存在していたと考えられるのである。
この次期、有力な氏の長による合議が、諸政策の決定、さらには大王、大后、太子の決定などに重要な役割を果たしていたことは間違いないであろう。
有力豪族の大王への臣従化と合議制の形成とは並行してなされたとみられるのであり、それはまた、王統の固定化とも並行しておこなわれたのである。
敏達は585年に崩じ、その死後に即位したのは、異母弟の用明であった。
王統の原理からすれば、敏達の次の王統の担い手は、敏達と推古との間に生まれた竹田皇子である。しかし、敏達が死去した時点で、竹田は成人に達してはいなかった。
ここにおいて、当面は誰かを中継ぎの大王に立てなければならないという状況が生じたのである。
用明は二年ほどで死去し、次いで即位したのは、欽明と小姉君(蘇我稲目の娘)との間に生まれた崇峻であった。
この崇峻も、竹田への中継ぎの大王であったと考えられる。
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三 推古朝と飛鳥文化
崇峻は、592年に、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって殺害されたという。
大王の殺害ともなれば大事件であったはずであるが、崇峻紀には、その後東漢直駒が馬子によって殺されたとあるのみであり、さして混乱があったようには記されていない。
おそらく崇峻の殺害は、馬子個人の意向によるのではなく、敏達の死後、そのまま大后として王権の頂点にあった額田部皇女(のちの推古天皇)の意向でもあり、また多くのマヘツキミらも、それを支持したのであろう。
竹田がいつ死去したかは不明であるが、母の推古より先に死去していたことは間違いない。
竹田が死去したことによって、欽明―敏達―竹田という直系の王統は途絶えたのであり、竹田への中継ぎとして即位した崇峻は、竹田の死により、新たな王統の担い手になる可能性が生じたのである。
新たに王統として選ばれたのは、欽明―用明―厩戸の直系であった。
崇峻が殺害された翌日、マヘツキミらの要請を受けて、額田部皇女が豊浦宮で即位した。推古天皇である。
そして、翌年593年4月に、厩戸が「皇太子」に立てられたというのである。
すなわち推古は、厩戸への中継ぎとして即位したといえるのである。記紀にいうところ最初の女性天皇でもある。
中継ぎの大王を立てる場合、前大王の大后を立てるということは、王位をめぐる争いを回避するという点においてすぐれた方法である。
前大后であれば、前大王とともに王権を分掌したという経験の持ち主であるから、政権担当者としての力量に欠けるということもない。
また、中継ぎの大王として男帝を立てた場合は、本来の王統とは別に、その男帝の血統も生じてしまうが、前大后を立てた場合は、そのようなこともないのである。
もちろん、中継ぎの女帝だからといって、大王としての権威・権限を持っていなかったというのではない。
推古から称徳天皇の死去までのおよそ180年間に、女帝は六人登場している。
この次期に女帝が集中したことには、なんらかの理由があったはずである。
おそらくそれは、この時期の王統が、父子直系を原則としており、しかも幼帝が認められていなかったためであろう。
女帝は、その王統を維持するために中継ぎとして登場したのであり、皇統の原則が崩れ、幼帝が登場することによって、女帝の時代は終焉を迎えたのである。
推古紀においては、厩戸は聖人として特別扱いされており、記述の中には、明らかに事実ではなく、厩戸を顕彰するための作文とみられるものが多い。
これまで述べてきたことからすれば、推古朝の政治は、政権の頂点には大王である推古が立ち、次期大王の地位にあった厩戸は、王権の分掌者として推古を補佐し、馬子はオホマヘツキミとしてマヘツキミらの合議を主導して推古を支えたとみるのが妥当であろう。
推古朝の外交政策といえば、遣隋使の派遣が特筆されるが、まずは朝鮮半島諸国との関係についてみておきたい。
推古紀によれば、602年2月には、新羅を討つため、来目皇子(厩戸の同母弟)を将軍とする大軍が派遣されたという。
しかし来目は、派兵の準備中筑紫で病死し、かわって当麻皇子(厩戸の異母弟)が将軍に任じられたが、明石で随行した妻が死去したため、新羅征伐は中止になったとされる。
その軍事行動の効果か否かはともかく、推古朝においては、新羅に「任那の調」を貢上させるという外交課題は、ほぼ実現されたようである。
遣隋使について、かつては「対等外交」を強調する見方が多かった。
しかし近年では、「日いずる処」「日没する処」というのは、単に方角の東西を示したものに過ぎず、必ずしも対等の立場を示そうとしたものではないとの説が有力である。
ただ、遣隋使の派遣は、倭の五王の時代のような、倭王が中国皇帝の臣下となり、中国の冊封体制下に組み込まれる、という関係を結ぼうとするものではなかった。
当時、高句麗・百済・新羅の王はいずれも隋の冊封を受けており、遣隋使の派遣に、朝鮮三国に対して優位に立とうとする意識をうかがうことは出来よう。
推古朝に冠位十二階が制定されたということは、『隋書』倭国伝にも推古紀にも記事があり、確かな事実ということができる。
朝鮮三国、とくに百済の冠位制にならって定められた制度と考えられており、最上位の大徳が律令制下の正四位に相当し、一位から三位に相当する冠位がないのも、朝鮮三国の冠位制と対応している。
憲法17条の信憑性についての評価は、ここでの判断を保留にしたい。
「皇太子」が自ら作ったということについては、厩戸を顕彰するための一連の作文である可能性が高く、内容的には推古朝当時のものであったとしても、事実の伝えとして疑わしいと思う。
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まとめ
東アジア情勢の緊迫の中で、少しずつ権力の集中と強化が図られ、その流れの中で最初の女王推古と、そして厩戸皇子が時代の一線に出てきます。
聖徳太子は実在しないなどの釣りがありますが、あくまでも超能力持ってないだけでよくできた皇子さんだったようです。