長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

飛鳥と古代国家 4 天武・持統の時代

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/04/204125

の続きです。

 

 

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

 

 

 白村江で大敗した倭国ですが、いよいよ大転換点となる天武の時代を迎え、国名も日本と改めます。

 鮮烈な経過をたどる壬申の乱ののちに権力を握った大海人皇子と菟野皇女=天武天皇持統天皇は日本史でも稀に見るほどの最高のパートナーでした。

 

 

 壬申の乱天智天皇が死去した翌年(672)に、天智の弟の大海人皇子と、天智の子の大友皇子との間におきた皇位継承争いであり、古代最大といわれるほどの争乱となった。

 吉野に退いていた大海人皇子は、その年の6月、吉野を出発し、大友皇子の近江朝廷側と、近江や大和などを舞台に戦った。

 戦闘は二ヶ月ほどで終わり、この乱に勝利した大海人は、翌年(673)2月即位した。これが天武天皇である。

 『日本書紀』は大友の即位を認めておらず、実際に大友が即位したか否かは不明であるが、明治政府は『大日本史』の見解に従い、明治三年に大友に弘文天皇とおくりなし、公式に歴代天皇の一人に加えた。

 即位した天武天皇は、同時に菟野を皇后に立てた。菟野は天智の娘であるから、この婚姻はオジとメイとの近親婚である。

 天武は菟野のほかに、天智の娘を三人も妻としているが、即位時の王家の女性である妻は、菟野一人であり、菟野が大后に立てられたのは当然であった。

 菟野との間に生まれた草壁皇子は12歳になっており、この草壁が次に王位を継承すれば、それは王統の原理に即した継承ということになる。

 しかし、草壁の継承者としての地位は、確固たるものではなかったようである。

 679年5月、天武と菟野は6人の皇子を連れて吉野に行幸し、互いに争いを起こすことのないよう盟約を交わしたという。

 そして吉野の盟約の2年後、草壁は皇太子(太子)に立てられた。草壁はこのとき20歳であり、成人に達するのを待っての立太子と考えられる。

 当時、草壁より大津の方が王位継承者としてふさわしいと考えていたマヘツキミ層は、少なからず存在したと考えられる。

 大津は、その人格・能力を称えた文章が残され、人望の大きかったことも伝えられている。

 これに対して草壁は、その人格・能力をほめたような伝えは残されていない。

 天武の死後もすぐに即位せず、結局即位しないまま若くして死去していることからすると、草壁には、健康上の問題もあったのではないかと推測される。

 天武が草壁よりも大津に期待したとして不思議ではない。

 しかし天武は、最終的には草壁を後継者と判断したようである。

 「天下の事、大小をいはず、悉くに皇后および皇太子にもうせ」と勅した宣言で、皇太子の地位にある草壁が後継者であることを改めて宣言し、自身が死んだ後の争いをおさえようとしたのであろう。

 「日本」の国号について、近年では「天皇」号とともに天武朝に成立したとみる説が有力である。

 

 

 『日本書紀』によれば、天武天皇が死去したのは、686年9月9日であった。

 それを受けて、皇后であった菟野皇女(のちの持統天皇)が称制を行い、9月11日には天武の殯宮が開始された。

 そしてその直後の9月24日、大津皇子の謀反が発覚したのである。

 翌月の二日には、大津とそれに加わった三十余人が逮捕され、はやくもその翌日に死を賜っている。

 事件は、持統によって仕組まれたとする見方が有力である。

 すなわち、持統は、自身の子である草壁皇子皇位につけるため、そのライバルである大津を除いたとするのである。

 しかし『懐風藻』の大津皇子伝と河嶋皇子伝からすると、謀反を計画していたことは事実とみなければならない。

 また、大津が除かれたからといって、すぐに草壁の即位が可能になったのでもなかった。

 殯宮儀礼は、2年以上の長期におよび、688年11月11日に終了し、同日、天武の遺体は埋葬された。

 この段階では、草壁即位の合意が成立していたはずであるが、即位しないまま翌年の4月に28歳で死去している。

 

 草壁が死去した翌年、称制を行ってきた持統天皇が即位した。

 皇太子草壁の死を受けての即位であり、予定を変更しての即位であった。

 草壁には、天智の娘であり、持統の異母妹にあたる阿陪皇女(のちの元明天皇)との間に、珂瑠皇子が生まれており、ほかに男子はなかった。草壁が死去した時点ではいまだ7歳である。

 持統の即位は、珂瑠に皇位を伝えるための中継ぎであったと見てよい。

 もちろん中継ぎだからといって、君主としての権威・権力に欠けていたということではない。

 女帝は、直系の王統を維持するために登場したと考えられるのであり、持統の場合は、天武―草壁―珂瑠という直系王統(皇統)を維持するための即位であった。

 

 697年2月、15歳の珂瑠皇子が皇太子に立てられた。20歳未満の皇太子(太子)は、これが最初である。

 半年後の8月、はやくも持統は、珂瑠皇太子に譲位した。文武天皇の即位である。

 譲位は皇極についで二例目ということになるが、皇極の場合は、退位させられたという面が強かった。

 自らの意思で自らの望む人物への譲位は、この持統の例が最初である。

 譲位というのは、自らが皇位を伝えようとする人物に確実に伝えることのできる方法であり、この意味において、王権の強化・発達を示すものである。

 譲位は異例ずくめであったが、しかしそれは、持統の独断というのではなく、それを支持したマヘツキミらも多かったはずである。

 持統の年齢は、このとき53歳である。病を得たことが、譲位を急がせた直接の理由になったのではないかと考えられる。

 持統は、譲位したが、その後も政治から退いたのではなかった。持統と文武が「並び坐してこの天下を治め」と『続日本紀』にあり、共同統治が行われたのである。

 文武は即維持に15歳であり、主導権は当然、持統が握っていたと推定される。

 持統が死んだのは702年であったが、この間に、大宝律令が制定・施行され、長い間途絶えていた遣唐使が派遣された。

 

 本来ならば、文武の皇后が王権の分掌者・共治者となるはずであったが、文武は王家の女性を妻としておらず、皇后を立てることは出来なかったのである。

 また文武の子は、宮子(藤原不比等の娘)とのあいだに生まれた首(オビト)皇子一人であり、持統が死去した当時、首は生まれて間もない2歳であった。

 結局文武は、首皇子以外の子を残さないまま、707年6月、25歳の若さで死去した。

 

 文武の死を受け、同年7月、文武の母であり、草壁の妻であった阿陪皇女が即位した。元明天皇である。

 文武が死去した時点で首はいまだ7歳であったため、首が成長するまでの中継ぎであったと見てよい。

 首の即位については、王家の女性を母としていないということで、支配者層の十分な合意を得られない状況があった。

 ほかに、首の出自を皇室に準ずる地位に高めるという方法があった。

 すなわち、宮子の父である藤原不比等に対する特別扱いである。 

 首(聖武)が即位するのは、不比等の死後であるが、聖武もまた、不比等の娘の光明子を妻としている。

 光明子は皇后に立てられるが、皇太子に立てられた皇子が死去した後男子は生まれず、皇位は、二人の間の女子である孝謙称徳天皇に継承されていくことになる。

 

  • まとめ

 

 

壬申の乱 (戦争の日本史)

壬申の乱 (戦争の日本史)

 

 

 こちらの本ではむしろ天武よりも菟野皇女が積極的に壬申の乱を計ったという興味深い説が唱えられています。

 それがまんざら荒唐無稽な内容には取れないほど、持統天皇が往時の政治に与えた影響は非常に大きいものと思えます。

 日本、そして天皇の名は天武・持統天皇の世に始まり、あらゆる意味でメルクマールとなった時代でした。