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飛鳥と古代国家 3  皇極の時代と白村江の戦い

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/02/222702

の続きです。

 

 

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

 

 

 

 推古紀によれば、621年に厩戸皇子が没し、その5年後に大臣の蘇我馬子が薨じたとある。

 そして、馬子の死の2年後、推古女帝が亡くなったとされる。

 厩戸は新たな王統の担い手として太子に立てられたのであるから、推古の前に厩戸が没したことにより、当然また新たな王位継承問題が生じたはずである。

 推古の「遺詔」には問題があるが、推古死去の段階で、田村と山背大兄の二人が大王の候補者と目されていたことは事実であろう。

 マヘツキミらが田村を推すことで合意した理由の一つには、田村の母は王家の女性であるのに対し、山背大兄はそうではない(母は蘇我氏の女性)という点があったと考えられる。

 舒明紀によれば、舒明の即位は629年正月のこととされ、翌年正月には、宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)が「皇后」に立てられたという。

 舒明即位時において、二人の間にはすでに中大兄皇子が生まれていた。舒明即位当時は四歳であったことになる。

 

 舒明朝の政策としては、即位後すぐに遣唐使を派遣したことも注目される。

 倭は唐に対しても、隋のときと同じく、冊封体制は結ばないとの立場をとったと推定される。

 また、舒明朝における朝鮮三国との関係は、推古朝に引き続き良好であったようである。

 

 舒明が死去した翌年(642年)、大后の宝皇女が即位した。推古に次ぐ二人目の女帝、皇極天皇である。

 倭国では、643年の上宮王家滅亡事件、 645年の乙巴の変、649年の蘇我石川麻呂討滅事件と、この時期あいついで政変がおきた。

 640年代におきた朝鮮半島諸国と倭国の政変は、それぞれ独自の事情のもとでおきた事件であるが、いずれも軍事的・政治的緊張下において、権力の集中体制が要請されるという共通した背景があった。

 皇極紀には、蘇我入鹿は独断で上宮の王たち(山背大兄王とその一族)を廃し、古人大兄皇子を天皇にしようと謀り、斑鳩宮を襲撃させたという。

 山背大兄皇子らは、いったんは逃れたが、やがて斑鳩寺(法隆寺)に入り、一族とともに自殺したとされる。

 入鹿が事件の中心であったことは間違いないであろうが、それは、蘇我入鹿の独断ではなく、当時の朝廷の方針としておこされた事件とみた方がよいだろう。

 乙巴の変は、蝦夷、入鹿父子だけではなく、古人大兄も討たれた事件として捉えられなければならない。

 すなわちそれは、王位継承問題において、古人大兄―入鹿のラインが否定された事件といえるのである。

 また、事件の直後に皇極が譲位し、考徳が即位しているのだから、そのような結果をもたらした事件としても捉えられなければならない。

 乙巴の変は、王位継承をめぐって、考徳と中大兄とが協力し、古人大兄―入鹿のラインを否定した事件であったが、それによって成立した新政権は、中継ぎの大王である考徳と、正統の太子である中大兄との対立を、はじめから内包していたのである。

 十年後に考徳が死去したのちは、再び皇極が即位していることからすれば、皇極の譲位が、中大兄の意向(または皇極自身の意向)によったものとは考えがたい。

 新政権の主導者が考徳であったからこそ、皇極は譲位したのであり、皇極の譲位は、譲位というよりも、考徳によって退位させられたというのが実情であろう。

 天皇(大王)における「譲位」というのは、この皇極の例が最初である。それまでは、大王は終身であり、前大王の死を受けて次の大王が立てられてきた。

 譲位によって、王権内部に新たな権力構成の問題が生じたのは確かであろう。

 

 

 考徳天皇が死去した翌年(655年)正月、譲位していた皇極が再び即位した。これが斉明天皇である。

 なぜ中大兄が即位せずに、皇極が 重祚したのか。中大兄が太子の地位にあったことは事実と見てよく、そうであるならばなおさらこの点が疑問となる。

 皇極のもとで、成人に達した中大兄が太子に立てられ、皇極の死を待って即位するというのが、皇極即位段階での、その後の王位継承についてのマヘツキミらの了解であった。

 斉明 重祚は、その状態に戻そうとしたと考えられる。

 

 斉明紀によれば、660年9月、百済からの使者により、7月に百済が唐と新羅に滅ぼされたこと、百済の遺臣の鬼室福信らが百済再興運動をおこしていることなどが伝えられた。

 百済再興のための援軍の派遣と、王子の召還の要求を受けた斉明―中大兄の政権は、すぐにそれに応じることを決断し、その年の12月には斉明自ら難波に出向いた。

 翌年に朝倉宮に還った斉明は、その二ヵ月後、死去した。

 斉明天皇の死に何らかの事件性を想定する説もあるが、高齢をおしての遠征による病死とみてよいであろう。

 これを受けて中大兄の称制が始まった。

 称制とは、『日本書紀』では即位の式をあげずに政務をとることを指している。

 

 倭は663年、新羅を討つため、2万7千の大軍を派遣した。

 同年8月、倭軍は唐の将軍率いる水軍と白村江で戦ったが、結果は、状況判断を誤り、無謀な攻撃を行った倭軍の大敗であった。

 逃れた倭の軍船は、多くの百済人を乗せ、倭に帰った。

 その後、唐と新羅は、高句麗攻撃に集中することになり、668年に高句麗は唐軍に王都平壌を落とされ滅亡する。

 そして676年、新羅が唐に勝利し、朝鮮半島の統一を成し遂げるのである。

 

 668年、中大兄は即位した。

 天智は、異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫を大后としておりこの間に生まれた男子が王位を継承するのが当時の原則であった。

 しかし、二人の間に子はなく、そのため天智は、長子の大友を後継者に選んだのである。

 大友は、『懐風藻』にその風貌・人格・才能を誉めた文章が載せられており、君主としての力量も備えていたようである。

 日本書紀に、天智朝の「東宮(皇太子)と記されているのは大海人皇子である。しかしこれは事実と考えがたい。

 

  • まとめ

 

 半島情勢は急を告げ、倭国は白村江の地にて唐と新羅の連合軍に大敗します。倭国に逃げ延びてきた百済の重臣達とともに、倭国は生き残りのための近代化を図っていくのでした。

 

続きます。