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 「DNAでたどる日本人10万年の旅」を読んで 上

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/01/31/004439

 こちらでは主にミトコンドリアDNAのハプログループから人類の移動を見てみようという試みでしたが、こちらの本は主に、Y染色体ハプログループから推定してみようという興味深い試みです。

 比べるとあくまでサンプル数の比較的な少なさや上記リンク先で語られるような不利な点もありますが、むしろ競合するものではなく、補完的に裏付けるような結果となっています。

 

 

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

 
  •  第1章 日本列島におけるDNA多様性の貴重さ

 

 約10万年ほど前に生まれた現生人類は、誕生の地アフリカを後にして全世界へと冒険を重ねて広がっていった。

 その人類の流れがユーラシア大陸東部に位置する日本列島にも数次にわたって押し寄せてきた。

 このアフリカから日本列島へいたる長きにわたる人類の移動の歴史について、DNA多型分析という強力な方法により、かつDNAの中に宿されている歴史の直接証拠でもって、いまではその再現がほぼ可能となった。

 そして日本列島においてルーツを異にする多様なヒト集団が現在でも共存していることが明らかになった。

 Y染色体は大きくAからRまでの18の系統に分けられ、さらに5つのグループに分けられる。

 アフリカに留まったA系統及びB系統を除くと、アフリカから出ていったグループは三つの系統、つまりC系統、DE系統、FR系統に分かれる。

 Y染色体亜型から九州・四国・本州におけるヒト集団は、C系統、D系統、N系統、O系統の四つのグループ、そして主要六系統に分けられる。

 多くの地域でもっとも頻度が高いのがD2系統である。

 この日本列島におけるD系統は、新石器時代の縄文系ヒト集団に由来するということが学会のコンセンサスとして確立されている。

 世界的にみると、D系統がまとまってみられるのは、日本列島とチベットという特異性が高い分布を示すので、D系統の移動の歴史を考えるうえでこの歴史は重要である。

 O系統は、金属器時代弥生時代)以降に日本列島へ流入した集団として想定されているが、九州・四国・本州ではO2b系統とO3系統とがまとまって認められる。

 まずO2b系統について、日本列島以外では朝鮮半島に非常に高い集積が見られ(51%)、朝鮮半島との関連性を示す亜型である。

 日本列島中間部でも東京で36%~26%と、ある程度の頻度で見られる。

 O2b系統は渡来系弥生人集団である可能性が高く、長江文明との関連も考えられている。

 

 C系統全体の移動の歴史をまとめてみる。C系統の分岐の推定時期は、27,500年前、あるいは28,000年前であり、いずれも旧石器時代であることが推定されている。

 アフリカを出たC祖型集団はまずユーラシア南部(インド)へ達したようである。

 そして東へ南ルートで移動し、インドネシア東部、パプア・ニューギニアへ達し、さらにオセアニア各地およびオーストラリアへ達した。

 そのうちC1系統は日本列島でしか見出されない稀な亜型である。インドの集団から直接日本列島の集団へ分岐したことが推定されるが、その移動ルートは不明である。

 C1系統は、航海術と貝文土器を携えて新石器時代早期に日本列島の南部に達した貝文文化の民との関連が注目される。

 その見方に立つと、日本列島の新石器時代において、縄文文化型ヒト集団(D2系統)とは異なる、貝文文化系ヒト集団が共存していたことになる。

 

 次に出アフリカの第二グループであるDE系統に由来するD系統の移動ルートについてみてみよう。

 DE祖型の分岐の時期は69,000年前、あるいは38,000年前である。

 共通の祖型とはいえ、アフリカとユーラシア大陸西部に限局するのが、E系統の特徴である。

 これとは対照的に、D系統はユーラシア大陸東部に限局する分布を示す。

 D系統は低頻度ながら各地に分散して見られる。D1系統は南方に、D3系統は北方に、D2系統は日本列島のみに特異的に見られる。

 D祖型の分岐時期は13,000年前、つまり旧石器時代から新石器時代への移行の時期である。

 D系統の移動ルートは、いったんアフリカを出た後、ユーラシア南部を東へ移動していったようである。

 その後、東南アジアを経て北上し、華北から一部はモンゴルへ達したようである。

 その後、さらに華北から朝鮮半島を経て日本列島へ渡ってきたことが推定されている。

 また華北から一部はチベットへ達したことが推定されている。

 D系統はシベリアではほとんどみられないことから、サハリン経由で北海道へいたるルートは可能性は低くなる。

 またC系統が繁栄したインドネシア東部、パプア・ニューギニアオセアニア、オーストラリアではD系統の亜型がみられないことから、移動の歴史やルートがかなり異なることがうかがわれる。

 

 N系統の分岐年代は8,800年前あるいは6,900年前と推定されているので、すでに新石器時代に入ってから生じた比較的新しい亜型と思われる。

 N系統の分布は、ユーラシア北西部のウラル系に特徴的な系統であり、ヨーロッパ北部の先住系ヒト集団を構成しているようである。

 日本列島では少数ながら複数の報告で繰り返しN系統の報告例がある。

 N系統の移動経路として、その祖先型が出アフリカ後、南アジアへ達し、その後華北朝鮮半島を経て直接日本へ達したと考えられる。

 

 O2b系統は、南琉球八重山諸島(67%)と朝鮮半島(51%)に高い集積を示し、日本列島の他の地域(東京26%)でもある程度の頻度で見られる。

 東アジアの歴史を考えるうえで、このO2系統は長江文明崩壊後の人々の離散の歴史と、現在にまでいたる共通文化(長江文明由来の稲作文化)の基礎を提供しているのかもしれない。

 O系統の発祥の地として、東アジア南部が想定されている。

 O2b系統の分岐の時期は3,300年前、そして移動開始の時期は2,800年前ということが推定されている。

 O2b系統は弥生時代以降に日本列島へ入ってきた渡来系弥生人であるものと推定されており、この移動開始時期の推定値は渡来系弥生人の移動時期によく合うようである。

 O3系統については、早い時期に南から北への移動をおこなったことが推定され、5000年ほど前から漢民族・中原勢力の膨張とともに黄河上流域から今度は北から南への移動が確認されるようである。

 このように、時期が異なり相反する二つのヒトの移動の流れが、現在の東アジアにおけるO系統の分布の解釈を難しくしているようである。

 諸々の好条件が揃っていたおかげで、この日本列島ではユーラシア大陸東部で敗者となったさまざまなヒト集団がそれぞれ生き延びることができたのではないかと思われる。

 

  • 第2章 多様な文明・文化の日本列島への流入

 

 後期更新世の最終氷期には気温の低下により、約二万年前、マンモスゾウが南下してきたのを追って、シベリアからサハリンを経て北海道へ人類が移動してきたことが推定されている。

 当時技術革新を遂げた細石刃によって狩猟の技術を飛躍的に高めたこともその背景にあるものと思われる。

 細石刃技法の二つめの流入ルートが朝鮮半島--九州を通りナウマンゾウを追って日本列島へ来たルートと考えられ、後期旧石器時代においてすでに多くの文化やヒト集団の流入ルートとして機能していたことを示す点で興味深い。

 次第に温暖化が進み、現在に近い温暖な気候へと移っていった。

 環境変化やヒトによる乱獲による大型哺乳動物の絶滅という動物相の弱体化は、それを栄養源の中心としていた旧石器時代人の生存にとっても大きな危機をもたらした。

 このような背景の下に、ヒトは多様な栄養源確保というあらたな生活様式新石器時代)へ移行していった。

 旧石器時代における狩猟中心の移動型生活から、新石器時代における多様な栄養源確保様式の組み合わせによる定住生活への変化が、後期更新世から完新世への時代の移行とともに起こった。

 新石器時代へ移行する新石器時代草創期において、すでに日本列島では多様な文化圏に分かれて発展していったようである。

 つまり北から、後期旧石器時代に留まる北海道、東日本型隆起線文土器文化圏、西日本型隆起線文土器文化圏、九州型隆起線文土器に細石刃を伴う北部九州文化圏、それとは異なる南九州文化圏、それに土器が見られない琉球諸島のように、異なる文化圏が存在した。

 新石器時代の前期に至っても日本列島の地域的差異は大きかったようである。

 新石器時代の全盛期ともいえる中期には日本列島全体で九つの土器文化圏が区別され、北琉球でも土器が見られるようになった。

 これら地域ごとに異なる文化圏は相互に影響を与えながらも地域的特色を残しながら、次の時代である金属器時代弥生時代)へと移っていった。

 

 朝鮮半島から日本列島の北部九州へ水稲農耕が渡ってきたのは、新石器時代末期だと思われる。

 そして九州から本州を東へ進み、東北北部まで稲作は比較的急速に達したようである。

 それ以前から雑穀農耕の中でイネもアワなどのほかの穀物と一緒に栽培されていたようであり、陸稲栽培はすでに新石器時代縄文時代)におこなわれていた。

 それが水稲農耕という新しい文化を伴うものとして本格的に日本列島で普及するのは弥生時代であり、今から2,400年前(あるいは2,800年前ころ)だと推定される。

 これは朝鮮半島陸稲農耕よりも遅れるが、朝鮮半島における本格的な水稲農耕の開始の時期からはそれほど大きく遅れていない可能性がある。

 渡来系弥生人の日本列島への移動のあり方については、小数の集団が何回にも分かれて細々と九州へたどり着いてきたことが推定されている。

 

 

 まとめ

 本書は数多くの研究成果を引用していますが、あくまで推定の域を出ないもので、また引用することそれ自体疑問符がつくような(一例・倭族を提唱している鳥越など)ものがあったり、手放しで納得させられるものではないし、ある程度ひいて読まなければなりませんが(サンプル数の少ないことを言及していなかったりします)、こちらもいずれ多くの研究があがってくることでしょう。

 母数の大きいD系とO系に関しては保留はいらないと思いますが、こちらはミトコンドリアハプログループの研究結果を補完していることがわかり勉強になりました。

 日本にも一つの民族ではなく数多くのユニークな人種集団があって、単一ではなく多くの異なる文化があったことは強調されてしかるべきでしょう。

 人類史に興味がある方はぜひ一読を薦めます。

 

(続きます) 

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/28/223846