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主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

セデック・バレ 第二霧社事件とその後  

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/20/225134

の続きです。 

 

  霧社事件の惨劇のあとに、第二の惨劇が待ち受けていました。故郷を失った彼らは、川中島という所へ強制移住させられ、そこで生きていきます。

 霧社事件の全容を解き明かしたのは、かつて蕃社で生まれ、とてつもない努力の果てに警察の公医となった一人の少年でした。

 なお下記の時制は、1980年の出版当時によるものです。

 

 

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

 

 

  • 3 霧社事件その後

 

 1931年4月25日午前8時ころ、台湾総督府理蕃課長のもとに至急の警察電話がかかってきた。

 霧社事件の反抗蕃として収容されている「保護蕃」が、味方蕃であるタウツア蕃の襲撃をうけ、多数の死者を出したとの急報であった。

 これが第二霧社事件の第一報である。

 官憲のきびしい監視下におかれていたはずの保護蕃が、襲撃を受けて216名の死者を出すことになったことはまぎれもない事実である。

 収容所の家屋に放火をうけ、火を逃れて外に出たところを馘首された101名に加えて、焼死した96名、さらに自ら死をえらんで縊れた19名という被害を生じてしまった。

 当時、タウツア駐在所の主任を務めていた小島源治巡査部長は、上官の命令を受けて、自分がタウツア蕃の頭目・勢力者をそそのかしたのだと明言する。

 第二霧社事件の後始末は、保護蕃の川中島移住完了によって、とりあえず一段落する。

 

 保護蕃を、霧社から遠く離れた土地へ移そうとする計画は、理蕃課長の手によりかなり早い時点からなされていた。

 移住地は、当時川中島と呼ばれ、現在は清流と呼ぶ地に定められた。

 けれども、保護蕃の側では、移住の説得には容易に応じようとしなかった。

 第二霧社事件によって半数に近い人々が命を失ったうえ、隣接してかつて味方蕃として奇襲隊となったバイバラ蕃の居住地があったからである。

 しかし警官と同道のうえでのバイバラ社頭目などの説明により、保護蕃の疑いは解きほぐされたようである。

 1931年5月7日、保護蕃278名の川中島移住は、途中何の事故もなく無事に終了した。

 10月15日、理蕃警察は川中島の住民のうち32名の壮丁を霧社事件の凶行に関与したとの理由で捕らえる。彼らはその後川中島に帰ってくることはなかったという。

 

 事件の発生からほぼ三ヶ月、石塚総督が経過報告のため上京し、参内して天皇に拝謁した。

 そのおりに石塚総督は事件の取り繕いに努めたという。

 天皇は、直接的には何の言及もしなかったが、総督の退出後、内大臣牧野伸顕に向かい、

 「右は一巡査の問題に非ず、由来、我国の新領土に於ける土民、新付の民に対する統治官憲の態度は、甚だしく侮蔑的圧迫的なるものあるやうに思はれ、統治上の根本問題なりと思うが如何」

 と下問したと、牧野からの話を木戸が聞き書きしている。

 

 霧社事件が契機となって、台湾総督府の理蕃事業はその方針を大きく改めている。

 1933年の逢坂事件では、頭目以下108人が立てこもったのに対し、包囲はしても殺戮はおこなわず、味方蕃を仲裁にたてての和平交渉により決着をつけている。

 処刑されたものも皆無だったという。制裁主義の誤りを気づかせたところに、霧社蕃蜂起の歴史的意義を認めるべきであろう。

 それでも、頑迷にして凶暴な「蕃族」ゆえに事件はおこるとの見解を、台湾総督府は、外部に対してはつねにとり続けていた。

 もっともこうした保身工作をおこなっても、台湾総督の更迭をまぬがれることはできなかった。

 

  • 4 事件をめぐる人々

 

 霧社蜂起の最高指導者がモーナルダオであったことは、日本側も台湾側も認めるところである。

 けれども、蜂起発生からしばらくの間は、その最高指導者がだれであったかについて、いろいろと憶測がなされていた。

 そのころ蜂起の指導者と目されたのは、花岡一郎・花岡二郎の義兄弟であった。この二人は当時の霧社では「蕃人」きってのインテリであり、エリートとされていた。

 そうしてこの二人を「撫育」したのは、理蕃警察それ自身なのである。

 「蕃人」に計画的・組織的な行動ができるはずがないとの観測がなされる一方、「撫育」の成果を逆撫でする花岡首魁説も認めたくないとする判断が、事件鎮圧に関わりあった側に存在した。

 霧社事件における両花岡の立場と行動については、関係者のほとんどが死亡しているため、真相の究明は不可能といってよい。

 今日の台湾では蜂起の指導者、民族の英雄として一般的に扱われているのだが、それでいて花岡は忠なりやはたまた奸なりやとの論を張る立場もあるとのことである。

 

 第二霧社事件の発生を防げなかったことを理由に減俸処分を受け、1936年には依願免官となるが、小島源治(演・安藤政信)は台湾にとどまっていた。

 小島の台湾の履歴は1915年基隆に来着したところから始まっている。理蕃事業に従事していた兄を頼ってのものであった。

 兄は1920年のサラマオ蕃蜂起による合流点分遣所襲撃の犠牲となって、非業の最期をとげてしまう。

 兄の遺骨をもっていったんは故郷の宮城に帰るが、けれどもふたたび台湾に渡ってゆく。その職に愛着を持っていたからであろう。

 霧社事件発生の当時、小島はタウツア駐在所に属していた。

 小島をはじめ日本人警官とその家族の命を救うきっかけとなった頭目タイモワリスは討伐中に馘首されてしまう。

 そのことが、第二霧社事件の遠因を形成するのである。

 第二霧社事件は小島が、タウツア駐在所の先任者として、頭目・勢力者にその実行を示唆(事実上は命令)したのが、直接的な要因である。

 明らかにしたのは江川博道(演・春田純一)が完成させた『霧社の血桜』に全文収載された小島の書簡による教唆の告白である。

 小島は、第二霧社事件発生の責任が直接的には自分にあるとの告白を何故おこなうに至ったのだろうか。

 善意的な解釈では自分の行動に端を発したことによるヒューマンなものの見方に立脚する。

 けれども、事件後末端の責任者にすぎない小島がもっともきびしい措置を受けた形であり、真の責任者を糾弾しようとする立場から踏み切ったとする解釈もまた成立する。

 小島の妻のマツノ(演・田中千恵)は二日二晩にわたって17人の子どもたちの命を守り抜くが、三男の正男を惨劇の中で失っている。

 

 花岡二郎の自決以後、花岡初子夫人(オビンタダオ、演・ビビアンスー)は再婚し、いまは高永清夫人として高彩雲を名乗っている。

 この本は、高永清夫妻の証言と、高永清の回想録の存在に大きく支えられている。

 高永清はホーゴー社の出身である。聡明に生まれつき、理蕃課が中山清の日本人並の氏名をあたえ、霧社尋常小学校に入学させて撫育しつつあった。

 事件以後九死に一生を得た彼は、高砂族出身者としては前人未到の地位を獲得する。

 川中島での生活が始まってから三ヶ月とたたぬうちに、オビンタダオと彼は強引に縁組させられる。

 正確な統計ではないが、マラリアの感染や自殺者が増え、川中島の人口は、移住から二年後にはおよそ三分の二に減少するほどになったという。

 31年12月からの警察勤務の中で独学を積み上げ、巡査採用試験・普通文官試験にはじまり、ついには医師の資格すら取得のうえ、公医として警察行政に関与するに至る。

 公医の地位を手中にし、非公開の警察関係書類を閲覧しうる立場に身をおいて以来、事件に関する証拠を抽出し続けた。

 

 霧社事件を知るための資料としてもっとも基本的なものは山辺健太郎編・解説『現代史資料』22・台湾2(みすず書房)所収の「霧社事件」である。

 これは、当時台湾総督府のもとに集積された多量の事件関係書類のなかから、必要な文書を山辺が編集したもの、および牧野伸顕文書の中から山辺が発見した『台湾霧社事件調査書』によって構成されている。

 つぎに、文書記録以外の資料として、江川博通『昭和の大惨劇 霧社の血桜』、森田俊介『台湾の霧社事件』などが上げられる。

 

霧社の血桜 (1970年)

霧社の血桜 (1970年)

 

 

 

まとめ

 

 この本が書かれた1980年時点で小島氏は寝たきりの老人として、オビンタダオ氏は旅館の経営者の妻として生存なさっていて、その当時が、そして今も1930年の台湾の霧社と一続きに繋がっている世界だということを改めて気づかせてくれます。

 ちょうど取材の時期などが中国との国交正常化、台湾との国交の途絶の時期にも当たっており、そのやや緊迫した空気もこの本でうかがい知ることが出来ます。