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主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

セデック・バレ 霧社事件を読み解く 1

 

 

 

 セデック・バレを見て霧社事件に興味を持ち、図書館に行って関連資料を探した所、残っていたのは1980年第1刷発行のこの本でした。

 

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

 

  現在では霧社事件に関わる書籍がいくつか出版されているようですが、この本も現地取材を通して、また当時生きていた事件の関係者への直接の聞き取りを得ている点がとても貴重で、映画では伝わりきらなかったその全容について解き明かそうとしています。以下、単語の使い方は書籍のままを尊重して書いています。

 以下に映画のネタバレを含みます。

 

  • 1 「理蕃」事業の歩みをたどる

 

 日本の台湾領有は、下関条約の締結によって始められる。1895年4月に講和は結ばれ、台湾の日本への割譲が規定されていた。

 しかし日本は、この時点までに、台湾を軍事的に制圧していたわけではない。

 割譲が風聞として伝わったころから、反日・独立への動きがたかまっていた。

 5月23日、”全台湾島民の名において”「台湾民主国独立宣言」が発せられた。

 5月29日、日本軍は、台湾北東端に上陸し、台北をめざして進撃を開始した。

 日本軍が台北に迫ると、民主国要人は本土に逃れ、台北はあっけなく陥落した。しかし、抗日武装闘争は、民衆・土豪にひきつがれて、なお激しく展開されていく。

 10月21日、日本軍はついに台南城を落とし、三軍が合流してこの地に入った。抗日軍の組織的抵抗はここに終わったわけである。

 しかし、台湾民衆によるゲリラ的な抗日闘争は、この後もなお継続する。

 このような抗日闘争にたいした時期を含めて、台湾における日本軍の残虐行為には、すさまじいものがあったという。

 「台湾匪乱小史」は住民の抗日闘争の終わりを1902年としている。

 日本当局は、このときまでの八年間に処刑もしくは殺害した「叛徒」数を、公式には12,000人と記している。

 

 この抗日闘争は、漢系民衆によるそれである。しかし、台湾の現地民は彼らだけではなかった。

 このもうひとつの現地民は、少なくとも漢系の現地民ほど組織だった抗日闘争を、当初はくりひろげなかった。

 彼らにしてみれば、日本軍が相手にしている漢系の現地民も、彼らの土地を奪い、彼らを虐げてきた侵略者なのであった。

 新たに進出してきた日本軍にたいして、とくに矛先を向ける理由はなかった。

 日本でも、漢系住民による闘争鎮圧に、全力を注がなければならなく、原則的には「蕃地」の攻撃を、当初は得策としていなかった。

 

 もうひとつ見逃せない事実があった。漢系民衆の抗日闘争を日本軍が鎮圧していく過程で、先住民のなかからも兵を募ったという点である。

 1897年、第三代総督乃木希典のもとで、「蕃人」の荘丁80名が集められたということである。しかし、「蕃人」募兵は、総督が児玉源太郎に代わると、廃止に向かった。

 その理由は、ひとつには、訓練を施すことに危険を感じたということであり、また、台湾統治上の手段としては、国際的に不評だったためとも言われている。

 「蕃人」あるいは「蕃地」の掌握は、「理蕃」ととくに称された政策であった。「理蕃」は硬軟の策を使い分けながら進められた。

 あるときには、「討伐」が展開され、あるときには、「撫育」と称される懐柔策が主流になっていった。

 

 日本側では「理蕃」の対象であった高砂族をどのように認識していたのかを、つぎにみていく。

 高砂族は従来、男が狩猟、女が農耕・飼蓄・機織をもっぱらおこなっていたが、「理蕃」政策の進行によって、徐々に農耕の比重が増加していった。

 彼らの宗教は多神教であり、さまざまな紙が信じられていた。かつて高砂族の社会においては、政治や裁判は祭祀と不可分であったといわれている。

 「出草」とはいわゆる首狩りのことだる。これは宗教的観念にもとづく行為であり、敵の勢力削減を目的とする戦闘とは性格が異なった。

 出草がどれほど重視されていたかを示す例は多い。

 例えば「死後、未来の国へ行くときには川を渡らねばならないが、吊橋には『家来をつれない男はわたることができない』という札が立っている。この家来は馘首によってのみ得られる。」という説話があったという。

 

 1902年、漢系住民の抗日闘争の鎮圧をほぼ終えると、蕃人討伐の回数がこのあたりを境として急に増えていく。

 「討伐」は、あらかじめ調査し、そのうえで軍隊が蕃社に入り、建物を焼却したり、戦闘を交えたりするというようにして進められる。

 しかしこの方法では威圧できない場合も多く、長期的な見通しに立った策を講じる必要も生じてくる。

 直接的な攻撃が主であったが、物品供給の制限、一般的な警察の取り締まり、隘勇線の設定および強化などがあった。

 隘勇線制度とは、清の時代よりおこなわれていたもので、蕃地と非蕃地の境にあって、防御と攻撃をおこなう施設を意味している。

 1910年から1914年にかけては、佐久間総督によっていわゆる五カ年計画なるものが作成され、銃器の欧州を中心とする討伐が推し進められた。

 五年間に押収した銃器は22,950挺にものぼった。それは1902年から1929年までに押収した銃器28,492挺の約八割にものぼった。

 もちろんそのための費用も大きかったし、動員も前例をみないほどの多数であった。

 明示松から大正にかけての一時期は理蕃史上でも画期的な一時期であった。

 

 撫育は、帰順した部族あるいは蕃社ごとにおこなわれるのが常であった。

 彼らの旧来の生活様式は否定され、植民地支配者側の構想した生活様式が、かわって彼らに強制されていった。

 当然のことながら、こうした施策にたいして、高砂族が反撃する場面も出現する。

 

 サラマオ騒擾事件は1920年に発生した。9月18日午前一時、合流点分遣所にたいして「サラマオ蕃」60名が襲撃を加えてきた。

 サラマオ事件では軍隊や「味方蕃」による奇襲隊の活動が目立った。

 事件処理の段階においては、同族を動員して鎮圧する策が大規模に採用されている。いわゆる「反抗蕃」にたいして「味方蕃」を対置していく作戦である。

 サラマオ騒擾事件の後にも、何度か事件が発生したが、全社をあげて抵抗するような事件は、霧社事件までおこらず、「蕃地」は小康状態を保つようになった。

 ところで「味方蕃」を編成する際に、日本側であh、彼らによる馘首を認めていたと判断される。この対応は、「味方蕃」を動員するのに効果を発揮していたとも言われている。

 

  • 2 霧社事件の原因と経過

 

 1930年9月中旬から、霧社分室内の「蕃社」を巡視した江川博道警部(春田純一)は、異常な雰囲気に慄然とした。

 台湾の「光復」後も、江川警部は徳の人であり、彼が早くから能高郡警察課長の職にあったなら、霧社事件はおこらなかったかもしれないと現地で評されている。

 江川氏がその職についたのは、前任者が職にたえずとして辞表を提出の上、内地にかえってしまったための補充人事であるという。

 彼は困った事態が発生しつつあると告げられた。

 「小学校などの改新築工事と、その材料採集を警察が一手に引き受け、職員が伐木造材に全力を傾倒し、蛮人がそれを搬出している」と江川氏の回想録『霧社の血桜』は記述している。

 警察が本来の職務外の仕事に手を染めるのは、にがにがしい現象であるし、「多くの蛮人に彼らの不得手な、材木担送等の過重の労働を強いていることは好ましくない。」

 トラブルの拡大を恐れた江川警察課長は、台中州庁に出頭し、理蕃課長に面会して直営工事の中止を進言するが、「いまさらそのような申し出をされては困る」と言い渡されてしまうのである。

 問題が発生しつつあるマヘボ駐在所の監査に行った江川警察課長は、タダオモーナと顔をあわせるが、彼は「私たち一行になんの会釈もしない。」

 「僕の経験によると、彼らは私たち一行に出会えば必ず敬意を表する。」と、江川氏にはなにか容易ならぬ事態がそこにあるとの判断があったようである。

 タダオモーナの不敬は、吉村巡査殴打事件のトラブルの末に起こったものであるとも考えられる。

 

 霧社分室自身が工事にあたった原因については、「予算の限度を超えて無理な工事を企画遂行」したものと『霧社の血桜』は解しているように思われる。

 直営していたのは、警官が私服を肥やすための手段であったと見る立場も生じえよう。

 取り分の増加を狙って、ピンはねと奴隷労働が強要されれば、不平不満がたかまるのは、理の当然であった。

 このような強制労働を警察力によって強行できたのは、多分に当地の「蕃地」がおかれた特殊事情によっている。

 特別行政地域に属していた「蕃地」では、民法・刑法など、一般の法律は施行されず、租税の賦課も行われていなかった。

 行政はこれを「蕃地警察」が施行するのだが、その規範を定めるのも「蕃地警察」であった。すなわち司法立法行政の三権は、すべて一手に警察が握っていた。

 租税の賦課がないというのは、金銭による支払いが求められないという意味であり、それにかわる存在が各戸に割り当てられる出役となり、前記の材木搬送が、その具体例を構成する。

 

 霧社蕃マヘボ社の頭目モーナルダオは1873年の出生とされている。しかし、当時の高砂族は文字を持たず、清朝化外の民であるとして施政の対象外においていたので、出生年は推定であろう。

 台湾総督府側では、『霧社事件の顛末』において、推定48歳と記している。

 モーナルダオも、その最期、さらに死後の措置は悲惨であった。

 モーナルダオは、事件発生から四日目に、家族の婦女子に縊死を命じ、それに従わなかったものを銃殺し、自分も死を選んだと報じられている。

 数年の後、マヘボ渓の奥に狩猟した高砂族の壮丁が、彼と目される白骨死体を発見したのである。

 この白骨は、日本側に収集され、台北帝国大学の考古人類学科の資料陳列室に標本として保管されることになる。

 霧社に里帰りし、「霧社山胞抗日起義紀念碑」のかたわらに手厚く葬られたのは1974年であった。

 

 討伐に従事した警官隊・軍隊のなかから、戦闘によって28名の死者が出た。また、「味方蕃」となった700名前後の「霧社蕃」が生命を失った計算になる。

 それに加え、第二霧社事件と称される「味方蕃」による無差別殺戮に伴う死者216名を加えると、「反抗蕃」の死者は1000名を優に超える非常な数にのぼった。

 第二霧社事件の後、命を永らえた人数は298名に過ぎなかったのを見ても、「反抗蕃」のうけた人的損害は非常なものであった。

 これほど多くの死者を出したのは、抗戦のほかに、多くの婦女子が投降するよりもすすんで死の道を選んだことに、その一員を求めるべきである。しかもそれは集団自殺である場合が多かった。

 極限状態のなかで、戦闘になおも従おうとする壮丁たちにたいし、後顧の憂いを断ち得るようにとの見方もあるが、馘首に対する懸賞金の設定が大量死を招いたと思われる。

 霧社事件の生き残りの小島源治巡査(当時・安藤政伸)から、金額は忘れたが、馘首にたいする懸賞金はたしかに存在したとの指摘を受けている。

 

 

まとめ

 映画でも殴打事件や、ひたすら圧政に耐えたモーナの姿は見ることが出来ますが、この本を読んだ印象については、学校の増改築を含む警察の略取がその大きな原因と見ることができます。あるいは、生番を味方蕃と反抗蕃として対置していく政策が、かなり最初期から用いられていることに驚きを覚えます。

 映画と重複する記述はなるべく避けています。続きます。