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エズラ・ヴォーゲル「鄧小平」(下) 5 天安門事件と南巡講和、そして中国の未来

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/09/222358

の続きです。

 

現代中国の父 トウ小平(下)

現代中国の父 トウ小平(下)

 

  様々な改革を打ち出す中で、世界は東側諸国の体制の崩壊に直面していました。もちろん、中国にも関係の話ではなく、あの日がやってきます。

第5部 鄧小平時代に対する挑戦 1989年~1992年

 

  • 第20章 北京の春 1989年4月15日~5月17日

 

 世界が見守る中、1989年の4月15日から6月4日にかけて、中国では何十万人もの若者が北京など大都市の街頭に繰り出した。

 デモのきっかけは、胡耀邦が4月15日に早すぎる死を迎えたことだった。

 彼らは初めのうち、共産党尊重し、交通の妨げにならないよう秩序を守って後進した。このとき、彼らはいかなる政治的課題も掲げていなかった。

 ところがデモの規模が拡大し、その声の大きさが増して内容が急進化するにつれ、デモ隊と当局の間の緊張が高まった。

 89年6月4日、秩序回復のため軍隊が北京の街頭で武器を持たない市民達に発砲すると、両者の衝突は頂点を迎えた。

 折りしも東欧では、多くの政治指導者が市民の要求に屈して統制力を失い始めていた。鄧小平は中国で同じことが起こるのを防ごうとした。

 胡耀邦の葬儀のあと、鄧はより直接的に党のデモ対応を指揮し始めた。秩序回復のためであれば、当局にいかなる措置をもとらせるつもりだった。

 

 胡耀邦の死はいかなる人にとっても衝撃的な出来事だった。

 誰も胡がこんなにも急に亡くなるとは考えもせず、強硬派を含む非常に多くの人々が彼の死を悼んだ。

 中国の一般大衆は、胡耀邦のひたむきな情熱と人間としての温かみ、そして党に対する誠実で献身的な姿勢に長く心を動かされてきた。

 知識人たちのために果敢に戦った胡は彼らの希望の星であり、善良な幹部の象徴にもなっていた。彼は崇高な理想を持ち、汚職には縁遠かった。

 にもかかわらず胡は、1986年の学生デモに寛容すぎたと非難され、翌年には冷酷にも総書記の座から追放されていた。

 1989年のでもは、民主主義を積極的に推進せず、胡耀邦の取り組みを消極的にしか評価しなかった鄧小平への暗黙の批判でもあった。

 多数のデモ参加者が胡に個人的な関心を寄せていたわけではなかった。むしろ彼らは胡の死を自由と民主主義の拡大のきっかけに活用しようとした。

 周恩来の死を悼んで行われた1976年のデモと、湖の死を悼んで行われた1989年のでもは、それへの参加者を勇気付け、中国の指導者を悩ませるのに十分なくらい良く似ていた。

 デモは、76年の天安門事件とまったく同じ場所で行われていた。より人道的な政府を待ち望む中国人たちの間で、今や胡は周に代わって時代の英雄になりつつあった。

 

 4月15日の夕刻、死が発表されてから数時間のうちに、北京大学の壁はその死を悼むポスターで埋め尽くされた。

 翌16日には約800人の学生が、天安門広場の中央にある人民英雄記念碑のそばまで行進して追悼の花輪を供えた。

 広場に集まる学生の数がさらに増え始めると、追悼集会はいくらか政治的な色彩を帯びるようになった。

 彼らはさらなる自由化と民主化の容認などの要求を掲げていた。18日の午後11時頃、激昂した数千人のデモ隊が中南海の新華門へ向かって、中へいれろと要求した。

 李鵬が指摘したように、デモの方向性は4月18日に哀悼から抗議へと変化したのだった。

 追悼している間、鄧小平は彼らを抑圧する措置をなにも講じなかった。ただし、彼は、追悼期間が終わればすぐに学生達に警告を発するつもりだった。

 強硬路線を主張していた李鵬は、この時点で、趙紫陽に代わって一時的にデモを取り締まることになった。

 趙紫陽はかなり前から北朝鮮を訪問することになっており、帰国したら中央軍事委員会主席に昇進することになるとも鄧に言われたという。

 この時点ではまだ。鄧が趙を自分の後継者と考えていたことを示している。

 李鵬は4月26日に不法デモを禁じる社説を出したが、この社説は多くの学生リーダーを逮捕するぞという、政府によるあからさまな脅しだった。

 この社説は、学生達の火に油をそそぐものでしかなかった。デモのリーダーたちは、敵は鄧小平と李鵬だと明示し始めた。

 デモ隊は考案の隊列をいともたやすく突破するほどに拡大した。警察隊は流血を恐れる当局から自制を命じられていたのである。

 多くの人々が学生達に共感していたため、李鵬が取り締まりにあたる基層幹部から支持を維持し続けるのは難しかった。

 一般市民が政府と党に対する抗議デモを支持し、緊張が拡大するなかで、高官達の見解も二極化していった。

 統制の強化が必要であると考えるグループと、寛容になって耳を傾けるべきであるというグループである。前者は李鵬を筆頭として、後者は趙紫陽の下に結集した。

 李鵬趙紫陽は懸命になって一般市民に意見の違いが露呈しないようにしたが、5月になる頃には、両者の間に軋轢が生じていることが香港のメディアが憶測し始めていた。

 

 5月15日から18日にかけて行われたゴルバチョフ訪中は、中ソ関係の歴史的な転機であると同時に、鄧小平にとっても個人的な勝利を意味した。

 過激派の学生リーダー達は、ゴルバチョフが北京にいる間は逮捕されないと考えて、ハンストを5月13日に開始した。

 政府の役人達はハンストで死者が出れば一般大衆の感情に火がつきかねないと考え、ストライキ参加者に対して自制的になった。

 ハンストは党の指導者達にとって完全に想定外であった。趙紫陽に、広場を一掃するのであればなにをしてもよいという大きな裁量権が与えられた。

 5月14日、ゴルバチョフが到着する前に広場を空にすることの重要性を良く理解していた数人の著名な知識人たちが、仲裁にむけて懸命な努力をした。

 しかし、市民から大きな同情の念を集めたことで、学生達の不屈の決意はより固いものになっていた。

 彼らは広場を離れることを拒否し、学生支援のためにさらに多くの群集が集まってきていた。

 政府はやむをえず、鄧とゴルバチョフの会談を天安門広場の隣の人民大会堂に変更したが、デモ参加者たちはその間、窓ガラスを割るなどしてここにも突入しようとした。

 中ソ和解を取材するために北京に集まった世界中のメディアは、学生達が展開する抗議行動に魅了された。

 世界中の多くの観客に見守られた学生たちは、人民解放軍による攻撃はありえないとさらに自信を持つようになった。

 

  • 第21章 天安門の悲劇 1989年5月17日~6月4日

 

 鄧小平が軍隊を投入して戒厳令を布告する方向へ突き進んでいる間、趙紫陽らリベラル派の幹部は、暴力的弾圧を回避するため、最後の死に物狂いの努力を試みた。

 趙は4月26日の社説を撤回しない限り平和的解決はないとの持論を繰り返した。しかし、鄧は明らかに、趙の意見を受け入れるつもりがなかったのである。

 4月25日、社説を発表すると決めたその日に、鄧は人民解放軍に警戒態勢をとるよう命じた。

 5月初めにはすべての兵役休暇が取り消された。

 5月17日、彼は次の一歩を決定するため、政治局常務委員会メンバーに加えて、中央軍事委員会との連絡係を招集した。

 鄧小平は他の者の意見を聞いたあと、結論を切り出した。

 秩序を回復するには警察では足りず、軍隊が必要だ。しかも当分の間、その配備計画は伏せておく必要がある、と。

 李鵬たちはその場で鄧小平の意見を支持した。胡啓立は多少の懸念を口にしたが、はっきりと反対したのは趙紫陽だけだった。

 会議が終わると、趙紫陽は側近に、自信の辞表を用意するように頼んだ。

 彼は自分が戒厳令を布告できないことも、この決断が彼のキャリアの終わりを意味することも知っていたが、同時に歴史の正しい側に名を残せるとも革新していた。

 翌朝5時事、趙紫陽は学生達を見舞うために天安門広場にやってきた。

 今や趙の動きを監視している李鵬に付き添われながら、彼はハンドマイクを握り締め、

 「われわれは来るのが遅すぎた。……君達は我々を批判するが、君達にはそうする権利があるのだ。」と語った。

 そして学生達に、ハンストを中止し、体を大切にして四つの現代化のために活躍して欲しいと訴えた。

 一部の徴収は趙のこのメッセージを、もう学生を守れないという警告だと受け取った。趙が公の場に現れたのはこれが最後となった。

 5月28日趙紫陽は自宅に軟禁された。鄧はその後、八年生きたが、趙の手紙にいっさい返事をしなかったし、二人が顔を合わせることも二度となかった。

 

 ゴルバチョフが19日の朝に北京を発つのを待って、同日夕刻から五万人の兵士をすばやく送り込み、20日朝に天安門広場へ到達させることが決まった。

 その次の段階では、学生らも高官らも予想していなかったことが起きた。五万の軍隊を、北京の市民が妨害し、完全に立ち往生させたのだ。

 市民は固定電話で知人に呼びかけを行い、トランシーバーを持った者が主要な交差点に待機し、人々に軍の到着を通知した。

 海外の報道関係者は、膨大な数の市民が四方八方から集まり、数十万の群集となって北京の街に繰り出す様子を目の当たりにした。

 市民の間では学生への同情も大きかったが、戒厳令に対する反感が非常に強かった。

 ともあれ、5月24日までに、軍隊は首都の郊外に退き、そこへとどまった。

 

 鄧小平は大衆の支持を取り戻すため、軍隊が天安門広場を占拠した直後に、この弾圧とは関係のない新指導部を発表したいと考えた。

 鄧と陳雲そして李先念が、江沢民総書記に選ぶことをすでに決めていた。

 鄧は、中国の指導者には断固とした態度、改革への熱意、科学技術の知識、そして対外問題を処理した経験が重要だと考えていたが、江はこれらを併せ持っていた。

 5月31日、李鵬は江に北京に飛んでくるように言った。翌日、鄧は江がすでに正式に最高指導者に選ばれたことを通知したのだった。

 

 天安門広場に武装軍の投入を決断するにあたって、鄧小平が多少なりとも躊躇したことを示唆する証拠はない。

 北京郊外には計15万程度の軍隊が配置されていた。弾圧の際に道路が封鎖されないように、5月26日には少数の兵士を北京近郊に送り込み始めた。

 6月3日までの数日間、学生は軍隊の動きに感づいてはいたが、北京の中心部にどれだけの兵士が潜入しているのかはまったくわからなかった。

 さらにほとんどの学生は、自分達のデモが銃撃事態を招くとは想像すらしていなかった。

 

 出動は計画通りに行われた。

 午後10時半ころ、最も激しい抵抗と暴力が見られた木犀橋付近の部隊は、空に向けて発砲を始め、スタン擲弾を投げたが死者は出なかった。

 午後11時になってもなお前進を阻まれていた部隊は、群集に向かって実弾を撃ち始めた。(AK47自動小銃が使われた。)

 天安門広場に相当数の部隊が到着したのは真夜中過ぎだったが、一部の警察と私服の兵士は数時間前に到着し、すでに準備を整えていた。

 軍隊が天安門広場に入場してきたときには、推定10万のデモ隊がなお残っていた。

 デモ隊はまさか実弾を撃ち込んでくるとは考えてもいなかったが、負傷した仲間が運び出されると、残っていたものたちはパニックになった。

 午前二時には広場の残留者はわずか数千人となった。

 学生リーダーが、去りたいものは去ってよい、残りたいものは残れと放送した。

 兵士達が近づいてきたため、候徳健を含めた4人が、戒厳部隊と接見し、広場からの平和的退去を申しいれた。短い話し合いのあと、人民解放軍の軍官は同意した。

 候は合意を発表し、残っているものにただちに避難するように告げ、約3000人が急いで広場を離れた。

 

 午前5時20分には、約200人の挑戦的なデモ参加者のみが残った。

 彼らは兵士達に強制的に連行され、5時40分には、命令どおり広場からデモ隊の姿は完全に消し去られた。

 デモの学生リーダーたちは追跡され、逮捕された。しばらく拘束されただけの者もいれば、監獄送りになった者もいた。

 趙紫陽の部下も投獄され、デモ参加者の中には20年以上経った今もなお釈放されない者もいる。

 

  • 第22章 逆風の中で 1989年~1992年

 

 諸外国がデモ参加者を支援し、制裁を科したことで、国内の統制を維持することが極めて困難になっていると鄧小平は考えた。

 外国からの批判に追随する者が出てくることも明白だった。

 一週間後の6月16日、鄧小平は、自分は第一線の仕事から引退するつもりなので、暴動鎮圧の仕上げは第三世代の新指導部に委ねたいと伝えた。

 江沢民に権力を譲った後、鄧小平は重要な問題に関して最終判断を下す責任から解放された。

 天安門の悲劇の直後、鄧小平は中国に制裁を科した諸外国を非難した。

 また、1992年に政治の舞台から退く前、彼が愛国心をかきたて排外的な傾向を示すようになっていた宣伝部の取り組みを批判した記録はない。

 90年代に諸外国が制裁を緩和すると中国は、こうした排外的な愛国主義と、鄧が77年以降に進めた他国との良好な関係を回復する取り組みとを、両立させていかなければならなかった。

 

  • 第23章 有終の美 南巡談話、1992年

 

 北京の指導者達は90年には、鄧小平の講義にも、経済発展の加速化を求める上海の指導者の訴えにも心を動かされなかった。

 そのころ、彼らは均衡重視派の親玉で慎重な経済計画を重視する陳雲から、より強い指導を受けていたのである。

 陳雲と鄧小平は表立って争うことを避けたが、それぞれの支持者たちは二人に代わって公の場で考えを表明しあった。

 依然として保守派が優勢を占めたため、鄧はいつものやり方に踏み切った。言い争って時間を無駄にするより、支持者を増やすために行動に出たのである。

 92年1月17日に鄧小平を乗せた特別列車が北京駅を出発したとき、中央の党指導者は江沢民も含め誰一人、このことを知らされていなかった。

 その間、経済発展の加速化を認めてもらいたがっていた南方の指導者たちは、鄧の側につき、喜んでリスクをとって鄧のメッセージを伝えて回った。

 鄧小平が北京に戻る数日前の二月半ばには、江沢民はすでに鄧の改革推進への呼びかけを支持すると公言していた。

 江は報告によって、自分が改革開放を大胆に進めなければ、鄧は自分を更迭するつもりだと悟った。しかも彼は、鄧が北京の重要な指導者や各地の幹部から絶大な支持を得ていることを、その南方視察から見てとった。

 鄧小平の視察のニュースが全面的に報じられて政策が変化すると、彼の演説は「南巡談話」として知られるようになった。

 江は鄧になお試され、暗黙に脅されていると認識していたという。江が全面的に改革を支持しなければ、鄧は軍の後押しを得て、喬石を彼の後釜に据える可能性があった。

 陳雲は、中央政治局が満場一致で改革開放の加速を決定すると、それを受け入れた。

 

 20世紀の最後の数十年間、中国の不断の革命は数々の英雄を飲み込んでいった。

 鄧小平自身、三度失脚して三度復活したが、指導者として彼と肩を並べていた誰よりもその晩年は恵まれていた。

 鄧小平が公の場に最後に姿を見せたのは94年の春節だった。それ以降、彼の健康は悪化し、会議に参加する体力もなくなった。

 そして97年2月19日の真夜中過ぎ、パーキンソン病と肺炎の合併症によって92歳で死去した。

 本人の希望に沿い、鄧の角膜と臓器は医学研究のために寄付され、遺体は火葬された。遺灰を納めた箱には中国共産党の党旗がかけられた。3月2日、遺灰は大海に撒かれた。

 

第6部 鄧小平の歴史的位置付け

 

  • 第24章 中国の変容

 

 改革開放を進めたのは鄧ではない。それは権力を握る以前、華国鋒の下で開始されたのだ。

 鄧小平はむしろ、移行期に総合的なリーダーシップを発揮した総支配人だった。

 中国の驚くべき経済発展は鄧小平の下で始まり、彼が死を前にして踏ん張り、最後に南巡談話を行ったことでさらに加速した。

 

まとめ

 

 胡耀邦の死によって起こったあの事件が、まざまざと他のどの本よりも詳しく描写されています。鄧小平を扱った本書ですが、読んでいてシンパシーを感じたのは趙紫陽の生き方についてでした。天安門事件を含め評価の難しい鄧小平の人生ですが、本当はその趙を後継者に考えていたこと、もしくは江に一切の火の粉をかけないように自分が汚れ役を全部引き受けたことと、困難な時代を生き抜いてきた彼の凄みのようなものが感じられるのでした。