長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

0.01%対99.99% ジョブズやバフェットを私達はどう捉えるべきなのか

 スティグリッツとアセモグル激賞と書かれた帯に惹かれ手に取りました。まだオキュパイ・ウォールストリートも記憶に新しいですが、糾弾されていた1%(世帯所得100万ドルクラス)を扱うというよりは、そのなかの飛びぬけたゲイツやスリム、バフェットから0.01%(世帯所得2400万ドル)以上のプルトクラートと呼ばれる最富裕層についての内容です。

 

グローバル・スーパーリッチ: 超格差の時代

グローバル・スーパーリッチ: 超格差の時代

 

 

  • はしがき 

 

 2009年と2010年の景気回復を見てみる。アメリカ人の99パーセントの所得はたった0.2%しか伸びていない。

 ところが、上位1%の所得は11.6パーセントも増えている。

 新興国の急成長の裏でも同じようなことが起きている。

 本書は、資本家はわれわれに必要な存在であるという考えを出発点にする。

 一方で本書は、結果的に現れる現象もまた重要であることと、プルトクラート、すなわち桁外れの超富裕層の人びととその他の人びととの格差が広がっている状況は、今日の資本主義の作用の結果であり、未来を形づくる新しい現実であることについて論ずる。

 

  • 1 これまでの歴史と、その重要性について

 

 現代に目を注げば、いまの金持ちは昔の金持ちとも異なる。その多くは自力で富を築いた者か、その後継者である。

 彼らは努力家で、高学歴で、世界を活躍の場とする実力者であるから、世界規模の厳しい経済競争を勝ち抜くだけの能力があることを自負している。

 その結果、それほど華々しい成功を収めてない庶民に対しては、アンビバレントな感情を抱くようになっている。

 

 産業革命の結果、世界はがらりと変わった。産業革命プルトクラート、かつて「泥棒男爵」と呼ばれた人びとを生み出すとともに、彼らとそれ以外の人びととのあいだに格差をつくった。

 そして1970年代、世界経済はふたたび大きく変化し、戦後の社会契約もがらりと変わった。

 今日、とてつもなく強力な二つの勢力が経済変化の原動力になっている。テクノロジー革命とグローバル化である。

 われわれが生きる現代は、二つの少し異なる金ぴか時代が並行している状況にある。つまり、西洋には第二の金ぴか時代が、そして新興国には第一次金ぴか時代が訪れているのだ。

 2011年の論文「チャイナ・シンドローム」は、貿易の利得と損失は等しく分配されるわけではないことを鋭く指摘する。

 すなわち、この分配影響によって労働市場は二極化する。「きつい仕事ときれいな仕事」、その中間はいまや空洞になっている。

 著者にスティグリッツは、まさに得意満面で語った。「じつのところ、完全なグローバル化が実現すれば、アメリカの賃金は中国と同じになる。これが完全市場の意味するところだ。」

 社会格差とは金持ちと貧乏人の格差だけのことではない。いまやスーパーリッチとたんなる金持ちとのあいだにも格差が生まれている。

 

 

 経済学界隈で、所得格差の拡大がもたらす社会と政治への影響を深く憂慮しているサエズも、現代のプルトクラートの特徴として、彼らが「労働する金持ち」である点をあげている。

 今日のグローバル・プルトクラートは、自力でその立場を得たことを自己イメージの中心にすえている。そうして、彼らが持つぜいたく品、地位、影響力を正当化しているのだ。

 高卒の若者に比較した大卒の若者の賃金プレミアムは、1979年から2005年までに2倍以上に増えた。重要な事実として、超英才教育は大きすぎる見返りを与えている。

 アイヴィリーグと呼ばれる名門大学の一年生の総数は国内の大学入学年齢の1%そこそこである。この1%は、成人後に所得上位1%を形成するにあたり大変有利になる。

 今日のプルトクラートの多くは、だいたい10年前か20年前に現在の職業についてる。だが、その前にすでに何らかの偉業を達成し、さらに大きいチャンスをつかむに値する人間になっていた。

 

 昔からスーパーリッチは、慈善事業は、それによって精神的な見返りを得られることに加えて、社会に認められる方便になりうるし、不朽の名声をもたらす場合すらあると考えてきた。

 驚いたことに、事前資本家達は、慈善事業のしくみにとどまらず、政府のしくみを変えることまで望んでいる。実際及ぼす力は大きく、一国の社会的セーフティネットを意図せず変えることすらある。

 

  • 3 スーパースター

 

 所得格差の拡大の原因をめぐっては議論がさかんに行なわれ、さまざまな原因が挙げられているが、おおよそ意見が一致してるのは、能力偏向型の技術進歩が、おそらく唯一の重要な要素であることだ。

 専門分野にマニアックな知識を持つ、いわゆるギーク、とりわけ桁外れの成功者が台頭したことで、戦後時代にきっぱり区別がついた。つまり、ミドルクラスが景気回復を勢いよく後押ししていた時代に終止符が打たれた。

 最大の勝者は銀行家である。他人の金の管理という地味な作業にいそしむ大型金融機関に支配されていた金融業界はすっかり変貌した。リスク、レバレッジ、ハイリターンを専門に扱う、因習にとらわれない企業化がのし上がるセクターに生まれ変わったのだ。

 

 クライアントが豊かになった事、クライアントが増えたこと、あるいは金を出してもらう相手との取引条件が良くなったことにより、スーパースターが自らつくりあげた自分の価値に対し、より多くの報酬を支払ってもらえるようになる。

 そして、スーパースター現象はそれ自体を糧にして継続するのである。「持てる者は与えられ、いっそう豊かになる。だが持たざるものは、なけなしの持ち物まで奪われる。」

 われわれのほとんどはスーパースターではないものの、好機さえつかめればスーパースターになれると信じている。実際には、われわれはプレイヤーを支える側の人間である。

 これは、民主主義時代のスーパースター経済の皮肉である。勝者総取り経済においては、トップの空間に余裕がなく、大半の者が弾き出されてしまうのだ。

 

  • 4 革命への対応

 

 新興国で一連の変化が生じている。1980年以降の広範囲に及ぶ潮流により、権威主義体制はもっと民主主義的な体制にとってかわられ、国営の閉鎖的な経済はもっと開放的になった。

 テクノロジー面にも一連の変化が起こった。最終的にこれら二つの大変革は、ペースの速い、不安定な世界をつくりあげた。

 革命的変化はいまや世界的現象になっているが、誰もがそれに対応できるわけではない。革命への対応に伴う経済的な付加価値は、スーパーエリートをつくることに役立つばかりではなく、スーパーエリートとその他の人びととの格差を拡大する力の一つでもある。

 中期的には、世界をあらゆる人びとにとってよりよい場所にしてくれるが、短期的には大勢の敗者を作り出す。

 不確実な状況や故郷を離れることを恐れないならば、新興国のフロンティア経済で一儲けすることは、先進国で市場占拠率をどうにか1%増やすことよりもずっと簡単なのだ。

 ある環境のもとでは、行動しないことが最大のリスクになる。生き残るために大胆な行動をとる必要はないのかもしれないが、成功のためには、たしかに大胆になる必要がある。

 われわれが生きているのは二都物語ならぬ二経済物語の世界である。かつての経済秩序における勝者たちの生活とキャリアが破綻しつつあるのだ。

 

  • 5 レントシーキング

 

 スーパーリッチの時代、われわれはエリートの動向につねに注意していなければならない。

 彼らは政治力を駆使し、経済にさらなる価値を付加してパイ全体を大きくすることではなく、すでに存在するパイの自分の取り分を大きくすることで金儲けしようとする。

 格差が広がるにつれ、割り当てのしなおしによる利得「レントシーキング」が政治問題として注目を集めるようになっている。

 国有企業の二大巨頭であった旧ソ連諸国と中国は莫大な資産を民間の手に譲り渡した。インド、メキシコ、ブラジルなどは、国有企業と天然資源を民間に売却している。

 どの国であれ、目的は政府を外へ追いやることだったが、それを実践したことが、経済史上最大規模のレントシーキングにつながったのである。

 ウォール街、シティ、フランクフルトの銀行家たちも、自国の規制機関と立法機関が自分たちに都合のいい決定を下してくれるおかげで富のほとんどを築いてきた。

 誰が金持ちになるかを決めるのは国である。その点は、自国の政府を選び、その決定に影響を及ぼすことに、プルトクラートが多くの時間と金を費やしている事実にあらわれている。

 いまや、レントシーキングまでグローバル化しつつある。合法的腐敗もまたグローバル化しつつある。危険なのは、レントシーキングを手がけるグローバル・オルガリヒの登場である。

 

  • 6 プルトクラートとそれ以外の人びと

 

 プルトクラートは、アメリカのミドルクラスの窮状に同情的であるとしても、自分たちがその窮状に加担してしまうのは致し方ないという考えだ。

 西洋、とりわけアメリカでは、スーパーエリートの台頭に伴い、ビジネスの利益は経済全体の利益であるという確信が強まった。

 これはあ大きな政府対小さな政府の問題にとどまらないのである。

 むしろ問題は、企業の利益とコミュニティ全体の利益がつねに一致するかどうかであって、一致しないとすれば、政府が、前者にいくら意義を申し立てられても後者を守れるだけの意思、権威、頭脳を持っているかが焦点となる。

 

  • 結論 

 

 国家が成功するか失敗するかを分けるのは、その統治のシステムが包括的か収奪的かであると主張するアセモグルとロビンソンは主張する。

 包括的な国家では、社会の統治や経済的機会への参入の方法に関して、あらゆる人びとに発言権が与えられている。包括的な社会の多くは、包括性を高めることで豊かになり、それが包括性をさらに高める善循環の恩恵を受けている。

 しかし善循環は断ち切れることもある証として「ラ・セッラータ(貴族閉鎖)」の件を引き合いに出している。

 いい例として取り上げられるわけのひとつは、自分達が属する社会を閉ざしてしまったヴェネツィアの寡頭制支配者が、開かれた強い経済から生まれていることだ。

 彼らは最初から寡頭制支配者だったわけではなく、自分達でそのようになったのだ。

 格差拡大に対する反応として圧倒的に多いのは、プルトクラートを善玉と悪玉に分けようとする試みだ。

 しかし、見分けるのは至難の業である。また、善玉と悪玉の差は大きいと考えたがるが、現実にはそれほどでもない。

 包括的経済と収奪的経済は大きく異なるが、経済エリートは彼ら自身と彼らの企業に競走上のアドバンテージを勝ち取る点で互いによく似ている。

 重要なのは善玉と悪玉の差よりも、自分の社会で適切な規則が定められ、その執行を可能にする監視体制が敷かれているかどうかである。

 

感想

 

 かつてNYTのフリードマンはフラット化する世界と喝破しましたが、その過程のなかで、あるいは混乱に乗じて、かつての尺度では捉えきれないほどの桁違いの最富裕層たちが誕生し始めました。決して遠くない一昔前は西武の堤氏が世界一の富豪であったことを考えると、おそるべきスピードであるともいえます。

 本書はアセモグルやスティグリッツだけではなく、ジョブズやソロスやリード・ホフマン(リンクドイン)、シェリル・サンドバーグまで引き合いに出されていてなかなか面白い内容であるし、経済だけではなく政治学的な方面も射程に捉えた良書であるといえます。邦題やデザインがやや低俗なイメージも与えかねないのは、内容の素晴らしさに比べるとやや残念ではあります。

 

フラット化する世界 [増補改訂版] (上)

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フラット化する世界 [増補改訂版] (下)

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国家はなぜ衰退するのか(上):権力・繁栄・貧困の起源

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国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源

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