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グローバル化と日本型企業システムの変容(1985~2008)

バブル崩壊、そしてリーマンショックといった企業を揺るがしかねない環境のなかで、日本企業はどう生き残りのための進化をしていったか、または何が変わらなかったのかを詳しく見ていきます。講座・日本経営史シリーズ6巻目で最終巻です。

 

グローバル化と日本型企業システムの変容―1985~2008 (講座・日本経営史)

グローバル化と日本型企業システムの変容―1985~2008 (講座・日本経営史)

 
  •  第1章 概観

 

 プラザ合意の成立した1980年代半ばには、日本経済の好調なパフォーマンスを反映して、日本の企業システムを肯定的に評価する見方が支配的であった。しかし、バブル景気が崩壊し失われた10年に突入すると、日本の企業システムに対する批判が勢いを強めた。

 この時期の変転に対して論理一貫的な説明を展開する事は容易ではない。橘川(2006)の結論を2つ紹介しておく。

 第1の結論は、1980年代までの日本経済の成功を説明しようとした理論モデルは、90年代の日本経済の失敗を説明することに失敗していることである。

 この理論モデルの代表的なものとしては、チャンドラー=森川の経営者企業論、青木の二重の利害裁定モデル、伊丹の人本主義論、馬場の会社主義論の4つをあげることができる。

 チャンドラーの所説を踏まえ森川が主張した経営者企業論は、株主ではない専門経営者がトップレベルの意思決定を行う企業が支配的であったことが日本経済の成功をもたらしたと主張した。

 しかし、90年代以降には株主主権型の資本主義に大きく舵を切ったアメリカ経済のほうが、基本的には経営者資本主義を維持した日本よりも良好なパフォーマンスを示すようになり、経営者企業論の説得力は大きく後退した。

 青木の提唱した二重の利害裁定の基本的な命題は、「日本企業の意思決定は、所有者の利害の一方的なコントロールに従うというよりは、金融(所有)的な利害と従業員の利害の二重のコントロール(影響)にしたがっている」というものである。

 これは端的には戦後の日本企業のコーポレートガバナンスを、メインバンクをモニターとする状態依存型のガバナンス構造と理解したうえで、モニタリング機能やインサイダーコントロールの弊害を押さえて有効性を発揮したという議論であったが、97年以降の金融機関の破綻とともに、急速にその影響力を喪失するに至った。

 伊丹の人本主議論は「ヒトが経済活動の最も本源的かつ希少な資源であることを協調し、その資源の提供者たちのネットワークのあり方に企業システムの編成のあり方の基本を求めようとする考え方である。

 意欲的な参加、協力の促進、長期的視野の保有、情報効率の向上という4つのメリットを持った人本主義システムが日本経済の成功をもたらしたと説明したが、日本経済の失敗への転換の説明が「人本主義のオーバーラン」という説明があいまいであることは否定できない。

 馬場は会社主義を「資本主義的競争と共同体的あるいは社会主義的結合との精妙な結合」と特徴付けた上で、戦後日本の会社主義企業では、所有者支配が弱い、従業員集団内部の格差や断絶が少ない、現場主義が強い、取引関係が長期化するという特徴が生産性上昇の契機になったと論じた。

 90年代初頭には大いに注目されたが、その後の日本経済の長期低迷や欧州での社会主義崩壊の影響もあり、急速に勢いを失った。

 第2の結論は、失敗を説明した諸文献が、日本経済の変転に関して論理一貫性をもった説明を展開するという課題の達成に至ってないことである。

 ここでは日本経済の失敗を論じた4冊の書籍に対するコメントを要約する。

 貝塚ほか編(2002)には、体系性の欠如および企業行動分析の不十分性があげられ、書籍中の第3章と第1章のメインバンクのモニタリング機能が揺らいでいたとする時期の矛盾に端的に示されている。

 伊藤編著(2002)の特徴には、企業行動と企業モデルに焦点を合わせた分析があげられる。

 日本企業が迷走した原因については、当初、企業統治構造の不備が盛んに指摘されたが、やがて、同じような企業統治構造をとっていても業績に大きな差が生じる同一産業内企業間格差が注目を集めている。

 しかし伊藤編著(2002)には体系性の欠如がさらに著しく、第3章第4章がメインバンク主導の状態依存型ガバナンスが後退し、それにかわり自立的ガバナンスが拡大したことを強調するが、第5章ではあいかわらず状態依存型ガバナンスに焦点を合わせた分析を行っている。

 大阪市立大学経済研究所・植田編(2003)も体系性の欠如があり、日本企業システムとは何かを明示していないし、90年代はどういう時代であったかを統括していない。

 寺西(2003)は、単著ということもありあり極めて体系的な議論を展開していて、長期にわたる歴史的視点を採用していることも大きな特徴である。

 しかし、寺西(2003)では、金融セクターに関して極めて説得力のある議論が展開されているが、事業会社の経営に関する行動に関する分析は手薄であり、肝心の高度成長期経済システムに関する歴史認識が必ずしも性格ではないという問題がある。

 

 

 トヨタのグローバル戦略では、日本でまず新車を開発・販売した上で世界各地の拠点へと移植するというのが従来までのやり方であったが、アジア通貨危機に伴う生産台数の激減をきっかけに、他の地域にも輸出できる共通車種の開発と世界での生産体制の再構築を目指したIMVプロジェクトを展開させている。

 Innovative International Multi-purpose(革新的国際多目的車)プロジェクトでは、「需要地に適した車種を部品調達から生産・販売まで現地で完結する」という方式を導入するとともに、ASEAN域内での現地調達率も60%から96%に引き上げコスト削減も目指したのである。

 2006年における第3四半期決算報告では「IMV・カムリを中心とした好調な販売により大幅増益」と順調さが報告されるに至った。

 アジア通貨危機という制約条件をグローバル展開に向けた輸出拠点拡充のビジネスチャンスと読み替えた柔軟性こそが、トヨタに持続的成長をもたらした最大のポイントである。

 

 

 東アジアの国際分業構造がどのようになっているのかをまとめる。

 第1の分業パターンは日本で擦り合わせ方の部品・材料・設備を生産し、それを使って台湾・韓国などが液晶パネルなどの中間財をつくり、中国で完成品になるという流れである。

 第2は、間に韓国・台湾を挟まず日本で作られた擦り合わせの部材設備が中国で加工されて完成品になるという流れである。

 第3は擦り合わせの部材設備が中国ではなくASEANで加工されるというパターンである。

 日本の製造業の生産の比較優位を決める特徴が製品アーキテクチャであり、強みとする擦り合わせ製品領域へと、企業レベルや産業レベルで集中が進んだ。

 

 

 バブル崩壊後の日本企業の進化は単一のパターンを示しておらず、米国型への単純な収斂とは理解できない。市場ベースの仕組みと関係ベースの仕組みという2つの異なったモードの結合という意味でハイブリッドな形に進化している。

 かつて、高い借入比率とメインバンクとの密接な関係、低い外国人所有比率で特徴付けられた日本企業は、90年代半ばまでに静かに多様化し、その後の進化の経路の決定に重要な意味を持つことになる。90年代を対象とした実証研究では、安定保有比率、あるいはインサイダー所有比率の高い企業ほど、ROAで測定したパフォーマンスが低い傾向であることを報告している。逆に、機関投資家、特に外国人投資家の所有比率が高い企業パフォーマンスをもたらすという点にも大方の一致がある。

 2000年代に入ると、バブル期以前に上場された日本の公開企業は、タイプ1ハイブリッド企業と、伝統的日本企業に分化したとみることができる。タイプ1ハイブリッドは、市場志向的な金融・所有構造と、関係志向的な内部組織が結合したパターンである。タイプ2ハイブリッドは関係志向的な金融と、市場志向的な内部組織の性格を持ち、IT・小売業に多く分布し90年代末の新興企業の大規模参入によりクラスターとして出現した。

 

 

 80年代半ば以降、日本企業の人事労務管理成果主義を1つの軸として揺れ動いた。成果主義の中身は単なる個人業績の賃金の反映ではなく、賃金基準を年功から役割、発揮能力、仕事によりシフトさせようとしたものであり、「年功からの脱却」であったといえよう。

 成果主義の導入が一巡した結果変わったのは、第1に50歳以降の高年齢者の賃金カーブが寝かせられ、第2に賃金が管理職はもちろん一般職においてもより個別化し、第3に賃金の変動化により労働者の負うリスクはより大きいものであった。

 変わらなかったのは、壮年層の賃金カーブであり、組合の成し遂げた成果といえるが、賃金水準は2000年代に入ってからは停滞または減少の傾向をたどっている。

 総じて、年功からの脱却にはある程度成功し、さらなる競争力を確保したものの、生産性向上の配分には新たな問題を生じさせたといえる。

 

  • 第6章 日本的マーケティングの源流とその戦後史

 

 江戸時代から戦前までの日本は、商業資本が支配するローカルブランド優位の分断の時代にかなり長い期間いたことになる。戦後は、ごく短い期間で全国市場の確立と市場のセグメンテーションで細分化される時代に突入する。

 日本における戦後マーケティングの学習過程はほとんど終わったといっていいだろうが、マスマーケティングを理解する部分においてはアメリカの後塵を拝していて、具体的に中国本土におけるマス市場のど真ん中で戦う企業ブランドの少なさがあげられ、ほとんどがプレミアムの小さい市場で戦っていることに見ることが出来る。

 

  • 第7章 規制改革の展開

 

まず、80年代に内発的要因と、特に日米経済摩擦を主要因とする国際的要因が絡み合いながら、主として外部要因が規制緩和・規制改革が進展した。

90年代になるとバブルが弾け、内発的要因として規制緩和を進めなければならない状態になる。また、90年代末の規制緩和から規制改革への意識的変化がある。規制改革とは、ルールの創設を含む規制のあり方の質的な転換を意味し、例えば大店法が廃止され都市計画法制を中心とした複数の政策を組み合わせるなどの新たな規制システムが創設された。

 

  • 第8章 日本における「企業の社会的責任」の展開

 

 日本企業における企業の社会的責任にかかわる活動の展開をまとめると、企業の社会的責任に関する認識の不安定さということになるだろう。

 アメリカのように利益との関係を中心に置きながら啓発された自己利益という形で広い範囲の義務を取り込むアプローチも、ヨーロッパのようにステイクホルダーに対する考慮を中心に置くというアプローチも上手く機能せず、日本における企業の社会的責任は常に希薄化する危険性を持っている。

 利益との関係を中心におくと不況の時には社会的責任が縮小していく恐れがあり、ステイクホルダーに対する考慮を中心とすれば、株主や経営者が潜在的に不満を持つ上に、ステイクホルダーの合意が取りにくい、例えば地域社会への貢献といったものはやりにくくなる。

 

まとめ

 

 すでに一昔前として確定した歴史を扱っていた前の5巻に対し、リーマンショック後までも含めた現在の経営の到達点に言及しなければならない今回は、第1章にも言及があるとおりに非常に困難な仕事だったようですが、総じて良い内容になっているといえるでしょう。本文中でもたびたび引用されますが、宮島先生の

 

 

企業統治分析のフロンティア (早稲田大学21世紀COE叢書―企業社会の変容と法創造)

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日本の企業統治―その再設計と競争力の回復に向けて

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 なども今作の理解を深めるといえるでしょう。