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戦後の高度経済成長の始まりと終わり(1955~1985)

 戦後の経済成長は2つの時期に分けられる。前期は2桁成長の続いた55年から70年あたりまで、後期はオイルショックニクソンショックなどを経た85年までの一桁成長の大量消費が一般化した時代でした。

 

「経済大国」への軌跡―1955~1985 (講座・日本経営史)

「経済大国」への軌跡―1955~1985 (講座・日本経営史)

 

 

 

  • 第1章 大変化をもたらした30年

 

 55年前後に一人当たりGNPや消費は戦前水準まで回復する。とはいえ、まだ全般的には窮乏状態を脱しきれず、日々の生活様式は戦前からの延長線上におかれていた。

 それが、この頃からスタートした高度経済成長で一変することになった。次々に先進各国を追い抜き、69年以降にはアメリカに次ぐ経済大国になったのである。

 他方、後半15年とは、ニクソンショック、二度に渡るオイルショック、プラザ合意まで至る時期である。成長率は1桁に落ちたものの依然として成長のトレンドを維持し、大衆消費社会の将来を現実の物とした。

 

  • 第2章 高度成長のエンジン

 

 2つの時期に分かれるという点を考えてみる。エドワード・デニソンいわく前半の成長に最も大きく貢献したのは資本だった。次いで技術、企業組織、経営方法などの知識の進歩が第2の貢献をなし、規模の経済が第3の要因、労働投入の増加が第4の要因だったという。

 第1の要因については国民の豊かさ=消費を後回しにして投資を行ってきたからであり、一人当たりの消費は諸外国よりかなり低い水準にあった。

 第2の要因については、明治以来新技術の導入に関して奨励・支持されていた下地と、労働節約的な技術導入に対して激しい抵抗をしない労働組合の存在が指摘される。

 1970年を経ると一人当たりGDPも先進国に並ぶまで増加し、消費文化が花開いた。3Cブームが本格化したが、住居の一人当たり床面積に代表されるようにストックのレベルでは依然として遅れたままであった。

 産業政策、同質的競争、技術導入、労使関係など日本的経営の特徴として指摘される要素は全て、激しい企業間抗争を生み出してきた。

 70年代以降には非正規雇用の拡大など減量経営を進め、ME(マイクロエレクトロニクス)化を推進させ、輸出競争力を回復させ国際競争力を身につけたが、大企業は輸出市場に依存した成長から抜け出せなかった。

 

  • 第3章 総合商社と企業集団

 

 総合商社は日本独自の業態とされ、企業規模(売上高)の巨大さ、取扱商品の多様性、取引地域の多様性などにより特徴付けられる。60年代後半には10大総合商社による寡占体制が成立した。

 奥村宏によると、総合商社は財閥、企業集団とは切ってもきれない存在であるという。企業集団の背後に持たない総合商社も、総合商社をグループにもたない企業集団もありえないという。

 三菱、住友、芙蓉、三和、第一勧銀系が六大企業集団と呼ばれてきた。

 総合商社から見た企業集団内取引を見ていくと、第1に集団内取引と言っても比較的少数の特定企業に集中してる特徴が見受けられる。

 第2には、集団内企業への依存度は売り上げよりも仕入れで大きかった。つまり、集団内企業の製品を集団外企業へ売るパターンが大きかった。

 そして、集団内取引依存度は高度成長期の企業集団結集に対応して上昇し、石油危機後には下落傾向に転じたと考えられる。

 また、総合商社の株式取得・出資は原則的には取引関係の強化のために行われてきたが、低成長期の77年度においてなお、集団内株式所有が効率の良い投資であったと論じられている。

 

  • 第4章 石油化学工業の誕生と産業政策

 

 石油化学工業においても、50年代から60年代にかけての立ち上がりの成功と、70年代以降の成熟産業への暗転という2つの時期の分類が適用される。

 欧米企業に比較して後発性と小規模性を危惧した通産省と、企業側の情報のキャッチボールが幾度も行われ、両者の共同作業により見事に立ち上がりに成功し急成長を実現する。

 しかし、成長産業だった時点において企業の絞込みの調整に失敗し、逆に過当競争をおこした。産業そのものが高い成長性を保ち積極的な行動を取っている時期には、制限する方向に舵を切る産業政策の実効性には限界があった。

 

  • 第5章 戦後日本の銀行経営

 

 一般的に戦後日本では、銀行優位の相対方間接金融システム、メインバンクの存在、護送船団方式による保護と規制が特徴とされる。

 逆に金融機関の経営行動が戦後日本型の金融システムを定着、発展させた側面も軽視できない。

 「人為的金利システム」と金融機関の競争制限に見られる金融システムは、国内の貯蓄を効率的に動員し、産業インフラや重点産業の発展に向けて優先的に資金を配分することを目的としていた。

 実際のところ都銀・地銀の融資は政策方針に従ったわけでなく、その目的がそのまま実現したわけではない。各金融機関が競って預金獲得に取り組んだ結果、必要な資金の不足が緩和されたと見ることができる。

 銀行間競争の結果、広範囲に渡る預金の獲得・回収に成果をあげたが、証券市場や国際金融の発達により、資金需要の伸びが鈍化する。

 銀行は顧客に対する新たなサービスの開発体制や海外展開の積極化など新たな経営戦略を開発したかに見えたが、結果的にバブルへとつながる貸し出し競争へとつながっていった。

 

  • 第6章 戦後日本における長期継続取引

 

 戦後日本における企業間取引は長期継続性が際立った特徴としてしばしば指摘される。

 日米構造協議における長期継続取引の排他性に非難が浴びせられると、そうした取引にもまた経済合理性があることが次第に明らかとなる。

 長期継続取引がもたらす成長メカニズムには、およそ取引コストの削減、製品開発の機動性、企業特殊技能の蓄積などの機能が考えられる。

 すなわち、発注先決定のコスト、相手先企業の信用調査コスト、交渉コスト、納入品検査コスト、在庫コストなどを軽減し、設計段階における親密なコミュニケーションを通し優れた製品を生み出し、特定の企業内でのみ通用する技術により独自の効率性をはぐくんだ。

 

 

 戦後の日本企業のキャッチアップは、先行する欧米企業から基本技術を獲得することから開始されたが、獲得した基本技術を製品に転換するための組織能力の形成において、早い段階から独自性の高いルーチンの束を形成した。

 トヨタにおける組織能力の形成が、偶然的・事後的・創発的と特徴付けられたのとは対照的に、ホンダは意図的・事前的・目的合理的といった概念で説明できる。

 ホンダの研究開発面での組織能力は、本田総一郎個人から組織的プロセスへと研究開発主体の主要な担い手を移行することを目的として形成され、現場システムのシステム創発といった側面よりも、競争環境への対応と自社固有の問題の解決を急ぐ上からの変革を特徴とした。

 類似した組織能力でもその形成プロセスには企業によって異なる成り立ちがあった。

 

  • 第8章 鉄鋼寡占資本間競争とその変容

 

 高度成長期における日本鉄鋼業の設備投資は、国際的に最高率の規模・水準を示した。売上高に対する設備投資の比率は2割近くに及び、67年以降には2割を超えるが、その水準の高さを生んだ事情は以下の通りである。

 新規製鉄所が13にものぼり、そのうち10はまったく新しく土地造成から始めたものであった。

 外部資金の積極的動員を行った。第1次合理化期の工事資金のうち、50パーセントは外部資金であった(社債18、各種金融機関からの長期借入金32パーセント)。

 日本鉄鋼業の生産性上昇は鉄鋼生産費の著しい低下をもたらし、その国際競争力は欧米をも上回るに至ったが、競争的寡占とも無秩序的寡占とも呼ばれるほどの、国家的援助を受けつつも国家的規制を受けることの少ない珍しい体質を持っていた。

 70年代を期に日本企業は明らかに強調的寡占体制に移行し世界の鉄鋼輸出市場においてもトップを占めるが、アメリカとの貿易摩擦から発展した世界の国際カルテル的な管理貿易の様相のなかで、韓国POSCOに代表される中進製鉄国の進出をもたらすこととなる。

 

  • 第9章 小売業態の転換と流通システム

 

 高度成長期における食生活の洋風化はスーパーマーケットにビジネスチャンスをもたらした。その過程で卸売商を排除して経路を短縮化すると想定されたスーパーマーケットは、逆に卸売商を積極的に活用した。

 当時のスーパーマーケットの信用力では、金融機関から資金を調達することは困難であった。不足資源の供給の役割は主として二次問屋が担い、それを契機に継続的な取引関係が構築された。

 

 

 戦後復興期には、生産活動に専念できる条件を整えるために年功による従業員基準型の安定賃金が戦時統制経済化に引き続き踏襲された。

 高度成長期には公平性の維持が難しくなり、能力で賃金を決める従業員基準型が用いられた。

 安定成長期に移行すると円高の発展と新興国の追い上げ等による国際競争力の低下により、安定賃金の縮小と、業績連動賃金の拡大により、人件費の増加と弾力性を維持した。

 人事労務管理はその仕組みの近代化を通して、企業の競争力を高め、日本の経済大国化を労働力の面から支援してきたのである。

 

まとめ

 

 低消費・高貯蓄の国民と、そして金融機関の旺盛な預金獲得競争により、戦後の大幅な設備投資への資金的需要は満たされます。労務制度改革や官民連携の国策的な競争により史上まれな高度成長を成し遂げます。オイルショックニクソンショックの痛撃を受けた後でも経営改革により安定的な成長を続けますが、そこにはやがてバブルが待っているのでした。次回はバブルから現在までを見ていきます。