長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

日本の産業革命について(1882から1914まで)

 日本の産業革命は、1880年代後半の企業勃興から始まるといわれています。鉄道網が急速に発展し、世界で見ても例が少ない1000人規模の製糸工場が多数出現し、財閥系の銅と石炭を発掘する鉱山が活況を呈するようになりました。

  • 第1章

 ガーシェンクロン仮説、つまり後発国の工業化の速度は先進国に比べて高速であるが、それは(1)先進国からの技術や制度の導入と資本の輸入によって、必要な時間と費用を節約できる、(2)後進国では熟練労働者が不足しており、産業構造は先発国より重工業化する、(3)重工業に必要とされる最小経営規模は大きいので、後発国では大企業化が進み、寡占組織が形成される事が多い。(4)後進性の優位は潜在的可能性にすぎず、現実には先発国の技術を需要する主体的能力が必要で、キャッチアップにはしばしば強い緊張を伴う。

 この仮説によってかなりの程度を説明できるが、明らかに反する点も少なくない。(2)の、熟練労働者の不足というのは日本にあてはまらず、江戸時代からの下地があったこと、そしてお雇い外国人から日本人学卒技術者への代替が明治前期で完了して、官庁から民間へ拡散した。

  • 第2章

 大日本帝国憲法施行の1890年までに、約300箇所の区裁判所を末端とする裁判所機構が全国を覆いつくし、国内市場は急速に統合されていく。市場が拡大するとともに、複雑に洗練された生産組織、労働組織、企業組織が形成されていく。

 1859年の自由貿易開始以来、生糸が主要な輸出品となっていく。1880年代末にアメリカ市場において日本糸は市場占有率の5割を占め、1920年代には7割に達する。

  • 第3章

 綿工業は英米日3国の工業化初期に共通した基幹産業であったが、各国の展開の様相はかなり異なっていた。イギリスではミュール精紡機と力織機を駆使した製品が世界各地に供給された。アメリカでは、労働が希少であったため省力的なリング精紡機が、19世紀末からは自動力織機が企業の主導下に普及して行った。日本では大阪紡の山辺丈夫がランカシャーでの研鑽を経て、最初はミュール式を、やがてリング式への転換を推進していく。

  • 第4章

 証券市場は成立していたが、先物取引がその中心であり、現物の取引は場外で相対で行われることが多かった。そのため株式の売却には多大なコストがかかり、株主は配当や株価に敏感であった。財閥は例外であり、財閥系資本家は長期的な利益を重視する傾向が強かった。銀行は役員派遣を含めた企業への積極的な関与を望んだが、安定株主としての長期的な成長に寄与するよりも、高配当、高株価の短期的な利潤最大化を求める中小株主の代弁者としての色彩が強かった。

  • 第5章

 開港後、外国商館や中国承認のネットワークに規定された貿易条件を改善する目的で、多くの貿易商社の育成が図られた。そのなかには1876年に設立された三井物産のように、政府御用商売を基礎に外国貿易業務に関する基盤を徐々に形成する商社も現れた。第1次大戦期になると、三井物産の国内の優位性が後退し後発商社の躍進が見られたが、恐慌時に破綻が相次ぎ、三井物産の優位性が再び確立する。

  • 第6章

 欧米の技術に基づき製造業が発展するためには、技術を導入する人間と、職工を指揮して製品を作り上げる現場の知識・熟練と学理的知識を併せ持つ人材と、2種類の人材が必要であった。前者は技術伝習制度、企業内教育施設、海外留学で育成され、やがて高等教育が整備されるとその卒業生の採用により調達されるようになった。後者の人材形成への取り組みは遅れた。

  • 第7章

 中規模会社においては設備投資に必要な資金を資本市場で十分に調達できずに、銀行依存を脱しきれず、大規模紡績においてさえ、しばしば依存を余儀なくされた。

 投資家の中心は商人で、華族・地主がそれにつづく。また、投資家は銀行から株式担保金融を受ける事も多かった。

  • 第8章

 1902年の工業の市場構造を検討すると、市場集中度は低くおよそアメリカの半分程度であった。アメリカはすでに1890年代に大きな合併の波を経験していたが、日本も19世紀末から集中度の比較的高い産業を中心にカルテルが見られるようになった。

  • 第9章

 全国各地で企業家ネットワークが生まれる。名古屋で最大であった奥田正香をリーダーにする地域経済重視型のネットワークは、彼に共鳴した商人たちからなり、実に多業種となる近代企業を設立している。これらメンバーはネット構成企業の役員を長期的に務め、安定的な株主であり続け、資本調達においても会社に貢献して、利潤を確保して資本を引き上げるなどといった行動は確認される限りほとんど取られなかった。

 

まとめ

 1880年代あたりを境に、江戸時代の中世的なるものははっきり姿を消し、まがりなりにも近代資本主義経済が確立され始めます。本書を読む限り工業の技術的なキャッチアップは上手くいったと評価はしていいだろうものの、金融・株式市場の相対的なキャッチアップの遅れがあったのではないかとの感想を持ちました。

 1898年の高額所得者のランキングなども載っているのですが、財閥系にならんで前田、毛利、島津などの華族が多いことに戦国時代好きとしてはやや感慨がありました。