長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

江戸時代が近代の始まりなのか、それとも明治維新が始まりなのか

 

経営史・江戸の経験―1600~1882 (講座・日本経営史)

経営史・江戸の経験―1600~1882 (講座・日本経営史)

 

  幕末の開港や明治維新による海外からの技術や制度導入が日本に近代をもたらしたのか、あるいは決して停滞した成長の社会ではなかった江戸時代の在来産業が明治の経済発展に大きな役割を果たしたことをどう評価するのか、それは断絶していたとも連続していたとも一概に言い切れません。

 

  • 第1章

江戸時代はかつて前近代(プリ・モダン)という含意で考えられていましたが、近代の萌芽的要素を多く見いだしうる初期近代(アーリー・モダン)と捕らえる歴史学者が増えています。1600年には1200万人であった全国人口は1720年には3128万人にまで増え、その後人口の伸びは停滞しますが、土地生産性の上昇により一人当たりの実収石高は上昇傾向になります。

 アンガス・マディソンの世界の一人当たり実質GDPの1000年から1913年までの推移のグラフが載せられていますが、1600年頃には中国・インドよりも低かった一人当たり実質GDPが、1870年頃にはそれらの国の停滞もあり、凌駕していることが見て取れます。

  • 第2章

 江戸時代の共同企業でより一般的に見られたのは同族的結合です。もちろん有限責任の株式会社は現れることがなく、共同企業にする目的も、資金調達等の積極的なものではなく家産の分散を防ぐ消極的なものです。ただし、廻船加入という共同出資において、出資の証券化と証券の譲渡性が実現されていて、共同企業の運営経験が、明治以降の会社制度の普及において無視できない役割を果たしたといえるかもしれません。

  • 第3章

 三井越後屋の京本店のデータより、労働内容を見ていきます。奉公人はいずれかの時期に奉公先に見切りをつけ、もともと所属していた小経営の世界へ戻ります。勤続比率は4年・16歳が60パーセント程度、15年・27歳が20パーセント程度です。大商家の奉公人制度は、奉公人の小経営の独立願望を前提に、それを実現可能とする報酬制度の組み込みによって、奉公人の定着と勤労の調達を実現していました。同時に、奉公人の独立志向が、定着と勤労の徹底にブレーキをかけています。三井ほどの大規模経営は江戸時代には特異な存在ですが、その一方で社会の小経営の価値観に規定された形で存立せざるを得なかったともいえます。

  • 第4章

 灘酒や西陣織などの江戸時代から技術的に連続する市場競争力のある産地が、明治以降西洋の影響を受けて経営の近代化を目指し、経済成長を牽引する企業をうみだしていきます。

  • 第5章

 江戸時代と近代の技術的断絶が比較的はっきりと見られる、製紙、紡績、造船、機械の分野を扱っています。ペリー来航の1853年から、日本の産業革命の始まる1880年頃までの四半世紀に貿易と技術導入が段階的に進んだのが見て取れます。

 一度導入された技術は各地に普及して独立経営が多く生じましたが、キャッチアップの必要性より留学生派遣や外国人招聘が行われました。

  • 第6章

 江戸時代には引札(ちらし)が新たに作り出され、普及していきました。物流システムは海運がにない、年貢米の安定的な売りさばきは、幕藩領主の最大の関心を払わざるを得ませんでした。

  • 第7章

 幕末期には大阪では99パーセントが手形で決済されていたが、京都では50パーセント程度、江戸では現金取引が主流でした。大阪における法と執行は江戸よりも経済活動に調和的でした。農家では農地を担保とした金融が最も一般的で、訴訟も多発していたが、財産の隠匿が行われるなど、債権保護の効果は万全とはいえませんでした。

  • 第8章

 有力な伝統的集散地問屋が、19世紀に入ると不振に陥り始めます。生存サイクルが比較的短い新興問屋が新たなビジネスモデルを実践すると同時に、伝統的問屋にもその経営の存続をかけた対応を迫りました。

 

まとめ

 

 著者の方の多くは連続性に重きを置いていますが、同時に江戸時代からの断絶した箇所にも留意されています。歴史人口学の速水先生などの研究成果もたびたび引用されていますが、以下の本も本書と関連した理解の手助けになるのではないかと思います。

 

徳川日本のライフコース―歴史人口学との対話

徳川日本のライフコース―歴史人口学との対話

 

  封建主義的な中世社会の到達点として、そして近代につながる緩い始発点としての両義的な性格の江戸時代を考えさせてくれる好著でした。