長々としたブログ

主にミネルヴァ書房の本が好きでよく読んでいます

飛鳥と古代国家 3  皇極の時代と白村江の戦い

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/02/222702

の続きです。

 

 

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

 

 

 

 推古紀によれば、621年に厩戸皇子が没し、その5年後に大臣の蘇我馬子が薨じたとある。

 そして、馬子の死の2年後、推古女帝が亡くなったとされる。

 厩戸は新たな王統の担い手として太子に立てられたのであるから、推古の前に厩戸が没したことにより、当然また新たな王位継承問題が生じたはずである。

 推古の「遺詔」には問題があるが、推古死去の段階で、田村と山背大兄の二人が大王の候補者と目されていたことは事実であろう。

 マヘツキミらが田村を推すことで合意した理由の一つには、田村の母は王家の女性であるのに対し、山背大兄はそうではない(母は蘇我氏の女性)という点があったと考えられる。

 舒明紀によれば、舒明の即位は629年正月のこととされ、翌年正月には、宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)が「皇后」に立てられたという。

 舒明即位時において、二人の間にはすでに中大兄皇子が生まれていた。舒明即位当時は四歳であったことになる。

 

 舒明朝の政策としては、即位後すぐに遣唐使を派遣したことも注目される。

 倭は唐に対しても、隋のときと同じく、冊封体制は結ばないとの立場をとったと推定される。

 また、舒明朝における朝鮮三国との関係は、推古朝に引き続き良好であったようである。

 

 舒明が死去した翌年(642年)、大后の宝皇女が即位した。推古に次ぐ二人目の女帝、皇極天皇である。

 倭国では、643年の上宮王家滅亡事件、 645年の乙巴の変、649年の蘇我石川麻呂討滅事件と、この時期あいついで政変がおきた。

 640年代におきた朝鮮半島諸国と倭国の政変は、それぞれ独自の事情のもとでおきた事件であるが、いずれも軍事的・政治的緊張下において、権力の集中体制が要請されるという共通した背景があった。

 皇極紀には、蘇我入鹿は独断で上宮の王たち(山背大兄王とその一族)を廃し、古人大兄皇子を天皇にしようと謀り、斑鳩宮を襲撃させたという。

 山背大兄皇子らは、いったんは逃れたが、やがて斑鳩寺(法隆寺)に入り、一族とともに自殺したとされる。

 入鹿が事件の中心であったことは間違いないであろうが、それは、蘇我入鹿の独断ではなく、当時の朝廷の方針としておこされた事件とみた方がよいだろう。

 乙巴の変は、蝦夷、入鹿父子だけではなく、古人大兄も討たれた事件として捉えられなければならない。

 すなわちそれは、王位継承問題において、古人大兄―入鹿のラインが否定された事件といえるのである。

 また、事件の直後に皇極が譲位し、考徳が即位しているのだから、そのような結果をもたらした事件としても捉えられなければならない。

 乙巴の変は、王位継承をめぐって、考徳と中大兄とが協力し、古人大兄―入鹿のラインを否定した事件であったが、それによって成立した新政権は、中継ぎの大王である考徳と、正統の太子である中大兄との対立を、はじめから内包していたのである。

 十年後に考徳が死去したのちは、再び皇極が即位していることからすれば、皇極の譲位が、中大兄の意向(または皇極自身の意向)によったものとは考えがたい。

 新政権の主導者が考徳であったからこそ、皇極は譲位したのであり、皇極の譲位は、譲位というよりも、考徳によって退位させられたというのが実情であろう。

 天皇(大王)における「譲位」というのは、この皇極の例が最初である。それまでは、大王は終身であり、前大王の死を受けて次の大王が立てられてきた。

 譲位によって、王権内部に新たな権力構成の問題が生じたのは確かであろう。

 

 

 考徳天皇が死去した翌年(655年)正月、譲位していた皇極が再び即位した。これが斉明天皇である。

 なぜ中大兄が即位せずに、皇極が 重祚したのか。中大兄が太子の地位にあったことは事実と見てよく、そうであるならばなおさらこの点が疑問となる。

 皇極のもとで、成人に達した中大兄が太子に立てられ、皇極の死を待って即位するというのが、皇極即位段階での、その後の王位継承についてのマヘツキミらの了解であった。

 斉明 重祚は、その状態に戻そうとしたと考えられる。

 

 斉明紀によれば、660年9月、百済からの使者により、7月に百済が唐と新羅に滅ぼされたこと、百済の遺臣の鬼室福信らが百済再興運動をおこしていることなどが伝えられた。

 百済再興のための援軍の派遣と、王子の召還の要求を受けた斉明―中大兄の政権は、すぐにそれに応じることを決断し、その年の12月には斉明自ら難波に出向いた。

 翌年に朝倉宮に還った斉明は、その二ヵ月後、死去した。

 斉明天皇の死に何らかの事件性を想定する説もあるが、高齢をおしての遠征による病死とみてよいであろう。

 これを受けて中大兄の称制が始まった。

 称制とは、『日本書紀』では即位の式をあげずに政務をとることを指している。

 

 倭は663年、新羅を討つため、2万7千の大軍を派遣した。

 同年8月、倭軍は唐の将軍率いる水軍と白村江で戦ったが、結果は、状況判断を誤り、無謀な攻撃を行った倭軍の大敗であった。

 逃れた倭の軍船は、多くの百済人を乗せ、倭に帰った。

 その後、唐と新羅は、高句麗攻撃に集中することになり、668年に高句麗は唐軍に王都平壌を落とされ滅亡する。

 そして676年、新羅が唐に勝利し、朝鮮半島の統一を成し遂げるのである。

 

 668年、中大兄は即位した。

 天智は、異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫を大后としておりこの間に生まれた男子が王位を継承するのが当時の原則であった。

 しかし、二人の間に子はなく、そのため天智は、長子の大友を後継者に選んだのである。

 大友は、『懐風藻』にその風貌・人格・才能を誉めた文章が載せられており、君主としての力量も備えていたようである。

 日本書紀に、天智朝の「東宮(皇太子)と記されているのは大海人皇子である。しかしこれは事実と考えがたい。

 

  • まとめ

 

 半島情勢は急を告げ、倭国は白村江の地にて唐と新羅の連合軍に大敗します。倭国に逃げ延びてきた百済の重臣達とともに、倭国は生き残りのための近代化を図っていくのでした。

 

続きます。

飛鳥時代と古代国家 2 推古そして厩戸

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/01/220820

の続きです。

 

 

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

 
  •  二 六世紀の王権と蘇我氏の台頭

 

 『日本書紀』によれば、欽明は571年4月に崩じ、「皇太子」に立てられていた敏達が即位したとある。

 欽明は、臨終の際に敏達に、新羅を討って任那を復興するよう遺言したとされる。

 そしてこの「任那復興」問題が、敏達朝およびそれ以降も、外交上の課題とされていくのである。

 現実に「任那」の再興がなしえないのであれば、新羅に「任那の調」を肩代わりさせることによって、「任那復興」をはたしたことにしようとしたのである。

 調の貢上は服属を示すものであり、倭としては、たとえ名目にすぎないにせよ、倭に服属する国としての「任那」の存在を必要としたのであろう。

 新羅も倭との対立を避けるため、名目上の「任那の使い」を立て、その調を貢上したものと考えられる。

 

 欽明から敏達へと王位が継承されたことは、王位が一つの血統に固定化されたこと、すなわち王統が形成されたことを示すものとして注意される。

 王統の固定化は、いいかえれば、有力な豪族の誰もが王位に就き得た状況の否定であるが、その場合の王統は、一般の豪族の族長位の継承とは異なる原理を持つことが、その形成・維持に有効と判断されたのであろう。

 その近親婚を採用したのが欽明であり、ここに近親婚による所生子を継承者とする特殊な父子直系継承を原理とした王統が形成されたのであり、その後この王統の原理は、六、七世紀をとおして維持されていった。

 しかし当時は、この王統に位置する人物であれば、誰でも王位に就き得たという状況ではなかった。

 大王は成人でなければならず、それは、大王には大王としての力量が必要とされたからである。

 支配組織が未発達な段階では、権力の頂点にどのような力量の人物が立つかという問題は、支配者層全体にとって重要な問題であった。

 そして、実際に大王が権力の頂点に立っていたことは、六・七世紀の政権抗争のほとんどが王位継承にかかわる争いであったことに良く示されている。

 いずれにせよ、十分な経験と知識をもった成人であることが、大王の必要条件とされていたと考えられる。

 

 当時の王権のあり方を考えるうえで、「皇后」「皇太子」の問題も重要である。

 律令制下の皇后は、天皇の正妻であるとともに、一定の政治的権限をもった存在であった。

 律令制下の皇后に相当する地位は、それ以前から存在していたのであり、それは、オホキサキと呼ばれ、大后と表記されていたと考えられる。

 王権を大王一人に集中させた場合、大王の死による王権の動揺は大きいが、大后が王権を分掌するならば、その動揺を小さくすることが可能である。

 皇太子というのは、いうまでもなく次期天皇という地位である。

 ワカミトホリと呼ばれる倭王の後継者を示す地位の存在したことが伺える。

 大王と大后の間に生まれた男子が、成人に達し、次期大王としての力量をそなえていると判断された場合に、太子に立てられたのである。

 つまり、大王と大后との近親婚による所生子が王統の担い手になるということと、大后・太子が王権を分掌するということとは、まさに一体のものとして存在していたと考えられるのである。

 この次期、有力な氏の長による合議が、諸政策の決定、さらには大王、大后、太子の決定などに重要な役割を果たしていたことは間違いないであろう。

 有力豪族の大王への臣従化と合議制の形成とは並行してなされたとみられるのであり、それはまた、王統の固定化とも並行しておこなわれたのである。

 

 敏達は585年に崩じ、その死後に即位したのは、異母弟の用明であった。

 王統の原理からすれば、敏達の次の王統の担い手は、敏達と推古との間に生まれた竹田皇子である。しかし、敏達が死去した時点で、竹田は成人に達してはいなかった。

 ここにおいて、当面は誰かを中継ぎの大王に立てなければならないという状況が生じたのである。

 用明は二年ほどで死去し、次いで即位したのは、欽明と小姉君(蘇我稲目の娘)との間に生まれた崇峻であった。

 この崇峻も、竹田への中継ぎの大王であったと考えられる。

 

 

 崇峻は、592年に、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって殺害されたという。

 大王の殺害ともなれば大事件であったはずであるが、崇峻紀には、その後東漢直駒が馬子によって殺されたとあるのみであり、さして混乱があったようには記されていない。

 おそらく崇峻の殺害は、馬子個人の意向によるのではなく、敏達の死後、そのまま大后として王権の頂点にあった額田部皇女(のちの推古天皇)の意向でもあり、また多くのマヘツキミらも、それを支持したのであろう。

 竹田がいつ死去したかは不明であるが、母の推古より先に死去していたことは間違いない。

 竹田が死去したことによって、欽明―敏達―竹田という直系の王統は途絶えたのであり、竹田への中継ぎとして即位した崇峻は、竹田の死により、新たな王統の担い手になる可能性が生じたのである。

 新たに王統として選ばれたのは、欽明―用明―厩戸の直系であった。

 

 崇峻が殺害された翌日、マヘツキミらの要請を受けて、額田部皇女が豊浦宮で即位した。推古天皇である。

 そして、翌年593年4月に、厩戸が「皇太子」に立てられたというのである。

 すなわち推古は、厩戸への中継ぎとして即位したといえるのである。記紀にいうところ最初の女性天皇でもある。

 中継ぎの大王を立てる場合、前大王の大后を立てるということは、王位をめぐる争いを回避するという点においてすぐれた方法である。

 前大后であれば、前大王とともに王権を分掌したという経験の持ち主であるから、政権担当者としての力量に欠けるということもない。

 また、中継ぎの大王として男帝を立てた場合は、本来の王統とは別に、その男帝の血統も生じてしまうが、前大后を立てた場合は、そのようなこともないのである。

 もちろん、中継ぎの女帝だからといって、大王としての権威・権限を持っていなかったというのではない。

 推古から称徳天皇の死去までのおよそ180年間に、女帝は六人登場している。

 この次期に女帝が集中したことには、なんらかの理由があったはずである。

 おそらくそれは、この時期の王統が、父子直系を原則としており、しかも幼帝が認められていなかったためであろう。

 女帝は、その王統を維持するために中継ぎとして登場したのであり、皇統の原則が崩れ、幼帝が登場することによって、女帝の時代は終焉を迎えたのである。

 推古紀においては、厩戸は聖人として特別扱いされており、記述の中には、明らかに事実ではなく、厩戸を顕彰するための作文とみられるものが多い。

 これまで述べてきたことからすれば、推古朝の政治は、政権の頂点には大王である推古が立ち、次期大王の地位にあった厩戸は、王権の分掌者として推古を補佐し、馬子はオホマヘツキミとしてマヘツキミらの合議を主導して推古を支えたとみるのが妥当であろう。

 

 推古朝の外交政策といえば、遣隋使の派遣が特筆されるが、まずは朝鮮半島諸国との関係についてみておきたい。

 推古紀によれば、602年2月には、新羅を討つため、来目皇子(厩戸の同母弟)を将軍とする大軍が派遣されたという。 

 しかし来目は、派兵の準備中筑紫で病死し、かわって当麻皇子(厩戸の異母弟)が将軍に任じられたが、明石で随行した妻が死去したため、新羅征伐は中止になったとされる。

 その軍事行動の効果か否かはともかく、推古朝においては、新羅に「任那の調」を貢上させるという外交課題は、ほぼ実現されたようである。

 遣隋使について、かつては「対等外交」を強調する見方が多かった。

 しかし近年では、「日いずる処」「日没する処」というのは、単に方角の東西を示したものに過ぎず、必ずしも対等の立場を示そうとしたものではないとの説が有力である。

 ただ、遣隋使の派遣は、倭の五王の時代のような、倭王が中国皇帝の臣下となり、中国の冊封体制下に組み込まれる、という関係を結ぼうとするものではなかった。

 当時、高句麗百済新羅の王はいずれも隋の冊封を受けており、遣隋使の派遣に、朝鮮三国に対して優位に立とうとする意識をうかがうことは出来よう。

 

 推古朝に冠位十二階が制定されたということは、『隋書』倭国伝にも推古紀にも記事があり、確かな事実ということができる。

 朝鮮三国、とくに百済の冠位制にならって定められた制度と考えられており、最上位の大徳が律令制下の正四位に相当し、一位から三位に相当する冠位がないのも、朝鮮三国の冠位制と対応している。

 憲法17条の信憑性についての評価は、ここでの判断を保留にしたい。

 「皇太子」が自ら作ったということについては、厩戸を顕彰するための一連の作文である可能性が高く、内容的には推古朝当時のものであったとしても、事実の伝えとして疑わしいと思う。

 

  • まとめ

 東アジア情勢の緊迫の中で、少しずつ権力の集中と強化が図られ、その流れの中で最初の女王推古と、そして厩戸皇子が時代の一線に出てきます。

 聖徳太子は実在しないなどの釣りがありますが、あくまでも超能力持ってないだけでよくできた皇子さんだったようです。

 

飛鳥時代と古代の日本、そして半島情勢

 古代の日本の歴史はいまだ数多くの論争が続く時代です。記紀や中国・朝鮮の史書に多くの記録を残す飛鳥時代もまだその例外ではありません。

 研究者によりその色彩が大きく変わりうる往時の日本の姿ですが、2013年に出版された本書は、丁寧に数多くの論争に配慮しながらも、納得できる一つの姿を提示してくれていると思います。とりあえずこの本が現在読みうる飛鳥時代の研究のフロンティアでしょう。

 

 

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)

 

 

  • 六・七世紀という時代―プロローグ

 

 飛鳥時代というのは、言葉の意味としては、飛鳥に都が置かれていた時代ということであり、ふつうは、推古の即位から「大化改新」で都が難波に移されるまでの間を指していう。

 「日本」の国号が成立したのは七世紀末のことであり、それ以前は「倭」と呼ばれていた。

 倭国における六・七世紀という時代は、本格的な古代国家が形成されていくとともに、仏教の受容、儒教道教の導入、漢字文化の広まりなど、今日に通ずる文化が形成されていった時代でもあった。

 

  • 一 継体・欽明朝と東アジア

 

 記紀によれば、継体天皇は26代目の天皇とされる。

 記紀の王統譜は、初代の天皇とされる神武から、16代目とされる仁徳までは、13代成務から14代仲哀への継承を除き、すべて父子直系で継承されたとしている。

 おそらくこれは、記紀の編纂段階において理想とされた皇位継承のあり方であって、事実を伝えた系譜とは考えられない。

 五世紀代の倭王位の継承は、父子・兄弟継承であったとみてよいだろう。

 そのような王統譜において、26代継体が、15代応神の五世孫とされているのは明らかに異例である。

 これまで多くの議論が重ねられてきたところである。

 継体の出自について、『古事記』によれば近江国から迎えられ、『日本書紀』によれば越前の三国から迎えられたとされる。

 記紀に伝えられる継体の后妃は、近江の出身者が多い。これらのことからすると、継体の出身地は、近江と考えるのが妥当のように思われる。

 

 継体が六世紀初め頃の大王であったことは間違いない。

 そのころ朝鮮半島では、新羅百済が、南下策をとる高句麗に対抗しつつ、それぞれに伽耶地域への進出をはかっていた。

 『日本書紀』においては、当時「任那」地域は日本の支配下にあったとされるのであり、新羅百済も日本に従属していたと位置づけられている。

 倭が伽耶地域と密接な関係を有していたことは事実であるが、このような位置づけは一方的なものであり、事実と見ることはできない。

 522年の新羅の女性と加羅(大伽耶王)との婚姻は、百済の侵攻を受けた加羅王が、新羅との同盟をはかって申し込んだものと考えられる。

 「任那四県の割譲」を受けた百済も倭と結ぶ方針を継承し、さらに領土の拡張を目指していった。

 

 その頃、倭国内においては、磐井の乱という大事件がおきた。

 一つの事件について多くの文献に記事があるというのは古代においてはめずらしく、磐井の乱が、八世紀の人々にも大きな事件として認識されていたことが知られる。

 磐井の乱は、新羅に破られた南加羅とトクコトンを復興するために「任那」に派遣された近江毛野の軍を、磐井がさえぎったことにより始まったとされる。

 新羅が磐井に賄賂を送って、近江毛野の軍を妨害するように勧めたというのも、当時の朝鮮半島情勢からすれば、事実を反映した記述である可能性が高い。

 磐井の勢力は、新羅からも高く評価されていたことになる。

 磐井の墓に該当するのは、福岡県八女市の岩戸山古墳である。北九州全体の中でも最大であり、この時期の古墳としては、畿内地域の最大級の古墳に比べてもひけをとらない規模である。

 磐井の乱の性格については、倭政権に対する反乱ではなく、日本列島における国土統一戦争であったとする見方もある。

 たしかに、大王を中心とした中央政権が、国造制・屯倉制などの制度を通してこの地域を支配するようになったのは、磐井の乱後のことと考えられる。

 磐井の乱後、近江毛野の軍は朝鮮半島に渡ったが、新羅に敗れ、毛野による外交交渉も失敗に終わったとされる。

 結局南加羅(金官国)は、532年、新羅に降伏することになった。

 

 継体の死をめぐっては不明な点が多いが、『百済本紀』に、「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がともに亡くなったと聞いた』とあるのが事実の伝えであったならば、それは尋常なことではない。

 『百済本紀』の記事をいかに考えるかという問題は残るが、継体の死後、安閑、宣化そして欽明へと王位が継承されていったとする記紀の伝えは、年月の細部はともかくとして、事実と認めて良いのではないかと思う。

 『日本書紀』によれば、539年10月の宣化の死去を受けて、同年12月に欽明が即位したとされる。

 欽明は、継体と仁賢の娘との間に生まれた子であり、継体の多くの子の中で、特別な地位にあったとみてよい。

 欽明もまた、宣化の娘を皇后に立て、欽明の次は、その間に生まれた敏達が王位を継承していくのである。

 

 金官国が新羅に降伏したのは、532年であったが、その後倭政権は「任那復興(金官国など新羅に併合された伽耶諸国の復興)」を方針とし、それを実現するための拠点を安羅(残る南伽耶地域の最有力国)に置いたと考えられる。

 欽明紀に登場する「任那日本府」は、その拠点を指すとみるのが妥当だろう。

 「任那日本府」という語は『日本書紀』編者の造語と考えられるが、それは、倭政権から派遣された倭臣と、現地の倭系の人物から構成されていた。

 倭政権から独立した存在とみる説もあるが、安羅や新羅の意向に影響されることはあったにせよ、それは基本的には倭政権の方針に従ったその出先機関であったとみてよいだろう。

 

 またその頃になると、高句麗で新たな動きが生じた。

 554年に大規模な政変が起こり、陽原王が即位し、百済北辺への圧力をかけてきたのである。

 この高句麗百済の戦いに乗じて、新羅が侵攻し、結局は新羅がこの地域を領有することになった。

 こうした中で、百済聖明王新羅との戦いを覚悟し、552年以降、頻繁に倭に援軍を要請してきたのである。

 倭もこれに応じて出兵したが、554年7月、聖明王新羅との戦いに敗れて戦死した。

 百済との戦いに勝利した新羅は、まもなく安羅など残された南部伽耶諸国を制圧し、562年には大伽耶を降伏させ北部伽耶地域も支配下におさめた。

 ここに任那伽耶諸国)は滅亡したのである。

 

  • まとめ

 任那のその実態についても数多くの意見が出される今日ではありますが、複雑化しうる朝鮮半島情勢の中で、とうとう倭国はその足がかりを失います。

 その後、半島への足がかりの復権が、倭国の最重要の外交課題となるのでした。

 

(続きます)

 「DNAでたどる日本人10万年の旅」を読んで 下

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/27/211240

の続きです。

 

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

 

 

 前章まではDNAによる推察でしたが、次からは言語学など違う側面からも古代の日本についてスポットライトを当てていきます。正直言えば、こちらのほうが本書の白眉となる印象を受けました。

  • 第3章 日本列島における言語の多様な姿

 

 日本列島には北からアイヌ語、日本語、琉球語の三つの言語圏が存在する。

 琉球語と日本語とは同じ系統の言語、同じ言語族に所属することがわかっている。しかしアイヌ語は別系統の言語と考えるのが妥当である。

 言語の変化はいろいろな要因によって引き起こされるが、言語内部の変化、および外部からの影響の二つに大別される。

 言語内部の変化の過程は、比較言語学によって検討されてきた。共通の祖語から、言語内部の要因によって複数の言語が成立したと考える。

 この方法によってインド・ヨーロッパ語族ウラル語族セム語族、オーストロネシア語族が確立された。

 この系統樹モデルによる言語生成理論の前提条件についてはいろいろな問題点が指摘されているが、現在でも有効性は認められている。

 

 日本語の成立に関して、過去長い間にわたって比較言語学の専門家による研究が重ねられているが、ほとんど有力な仮説がない状態である。

 ここでは渡来系弥生人について簡単に検討してみる。

 渡来系弥生人はY染色体O2b系統ヒト集団であり、長江文明に由来するようであり、オーストロアジア系集団と考えられる。

 東南アジアの集団はオーストロアジア系言語を保持しているのに対して、朝鮮半島、日本列島の集団は母国語を消失したようである。

 では、渡来系弥生人が逃亡先、つまり日本で使用するようになった言語はいったい誰が使用していたのだろうか。

 渡来系弥生人は先住系集団であるD2系統集団に受け入れられながら、O2b系統もD2系統もともにこの日本列島で増加していったことが確かめられている。

 つまり渡来系弥生人によって先住系縄文系ヒト集団が駆逐されるような事態は日本列島では起きなかった。

 ユーラシア大陸東部でみられるような先住系集団の消滅が日本列島では起きなかったことは、新石器時代の文化・言語の継承を考えるうえで重要な点である。

 また日本列島以外にD系統がまとまってみられるのはチベットビルマ系だけである。

 チベットビルマ系祖語と日本語の間に関連性があるのかどうか、今後の解明が待たれる。

 

  • 第4章 日本列島における多様な民族・文化の共存

 

 九州・四国・本州が金属器時代弥生時代)に入っていく紀元前三世紀になっても、北海道まで弥生文化は達することはなく、その後北海道は続新石器時代へと移行していく。

 6世紀ごろから次第に道南から擦文文化へ移行するが、土器に関しては縄文土器から縄文を欠く擦文土器への変遷が見られる。

 擦文文化は本州の平安文化の影響を東北北部を通して受け入れた背景があるようであり、それまでの北海道における新石器時代文化・続新石器時代文化の伝統とは異なる文化の要素が強くなってくる。

 金属器についても北海道内での製作が始まる。続新石器時代に鉄器の使用は確認されるが、本格的な普及は擦文文化の時代に入ってからのようである。

 なお、これらの系統と異なる文化が道北からオホーツク海沿岸において紀元前5世紀ごろから10世紀ごろまで存在した。これがオホーツク文化である。

 さらにオホーツク文化と擦文文化との融合した文化が道東(網走から釧路を結ぶ線の東側)に確認され、トビニタイ文化といわれている。9世紀から12世紀にかけての過渡的文化である。

 アイヌ文化と擦文文化との文化的要素にはかなりの断絶が指摘されている。

 オホーツク文化およびその影響かにあるトビニタイ文化が、近世のアイヌ文化成立に何らかの役割を果たしている可能性が考えられる。

 もしそうであれば、アイヌ文化における北方シベリア系文化の要素の重要性を再認識する必要性があるかもしれない。

 なおアイヌ民族の生業として狩猟、最終や漁撈だけが注目されるが、実際には雑穀農耕もかなりおこなわれている。

 本州を経て流入したルート以外に、別系統のサハリン経由のルートも想定される。

 アイヌ文化は縄文文化と同一視することはできない。

 それはDNA多型からも文化的にも、アイヌ民族アイヌ文化はシベリア系北方文化の要素を強く保持し、日本列島中間部に固有の縄文文化の要素が加味されたものであることが想定される。

 縄文系言語(日本語)とアイヌ語が系統的にまったく異なることなどから、アイヌ語はシベリア系の古い言語を保持している可能性が高いものと思われる。

 

 奄美諸島沖縄諸島を合わせて北琉球とする。それに対して南琉球先島諸島宮古諸島八重山諸島とを含むことにする。

 この琉球における先史時代は日本列島中間部とはかなり異なる状況を示している。

 約6,300年前の鬼界カルデラの噴火によって南九州の貝文文化が滅亡したあと、縄文文化が南九州へ広がっていったが、その流れが一部北琉球まで及んだようである。

 しかし北琉球は本質的に縄文文化と異なり、漁撈を中心とする独自の貝塚文化が続くことになった。

 南琉球の先島先史文化人については、台湾やフィリピンなどのオーストロネシア系文化の影響下にあったことが推定されているのでY染色体O1系統もその可能性が高い。

 つまりアイヌ琉球同系論は支持されないことを意味し、琉球諸島先住民はアイヌ民族とは関連性が低いことが伺われる。

 形質人類学からも同じような見解が表明されており、DNA多型分析による推定と同じような結論へ至っているようである。

 琉球民族の成立は、このように日本列島中間部やアイヌ民族とは非常に異なる経過によっており、琉球独自の歴史が認められる。

 

 日本列島の中間部を構成する九州・四国・本州、つまり狭義の日本においても、非常に多様な歴史、文化が共存していることが十分にうかがわれる。

 日本列島中間部において東西二つの文化に相違が認められるうえに、東日本および西日本内部においてもさらに細かい文化圏の差異が認められるようである。

 

  • 第5章 多様性喪失の圧力に対して

 

 日本列島において、ヨーロッパ文明の影響かにある国民国家という概念は、むしろ日本列島の伝統的価値観の喪失に拍車をかけている。

 つぎに、経済のグローバル化が、全世界的に文化や言語の多様性喪失に拍車をかけてきていることが指摘されている。

 日本列島において伝統的であった多様性維持を再評価し、それを普遍的な言葉でもって国際的に発信することで、共生の原理によって、世界的な対立の回避、緩和を進める可能性とチャンスがわれわれの手元にあるのではないだろうか。

 

まとめ

 一時期話題となった、水稲栽培の始まりの長江文明についても幾度か言及されていますが、今はどれほど研究が進んでいるのか、その点からのアプローチも楽しみです。

 本書の内容の一部は、ダイヤモンドの「昨日までの世界」にも相通ずるところがあると思います。未読の方はぜひ。

 「DNAでたどる日本人10万年の旅」を読んで 上

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/01/31/004439

 こちらでは主にミトコンドリアDNAのハプログループから人類の移動を見てみようという試みでしたが、こちらの本は主に、Y染色体ハプログループから推定してみようという興味深い試みです。

 比べるとあくまでサンプル数の比較的な少なさや上記リンク先で語られるような不利な点もありますが、むしろ競合するものではなく、補完的に裏付けるような結果となっています。

 

 

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?

 
  •  第1章 日本列島におけるDNA多様性の貴重さ

 

 約10万年ほど前に生まれた現生人類は、誕生の地アフリカを後にして全世界へと冒険を重ねて広がっていった。

 その人類の流れがユーラシア大陸東部に位置する日本列島にも数次にわたって押し寄せてきた。

 このアフリカから日本列島へいたる長きにわたる人類の移動の歴史について、DNA多型分析という強力な方法により、かつDNAの中に宿されている歴史の直接証拠でもって、いまではその再現がほぼ可能となった。

 そして日本列島においてルーツを異にする多様なヒト集団が現在でも共存していることが明らかになった。

 Y染色体は大きくAからRまでの18の系統に分けられ、さらに5つのグループに分けられる。

 アフリカに留まったA系統及びB系統を除くと、アフリカから出ていったグループは三つの系統、つまりC系統、DE系統、FR系統に分かれる。

 Y染色体亜型から九州・四国・本州におけるヒト集団は、C系統、D系統、N系統、O系統の四つのグループ、そして主要六系統に分けられる。

 多くの地域でもっとも頻度が高いのがD2系統である。

 この日本列島におけるD系統は、新石器時代の縄文系ヒト集団に由来するということが学会のコンセンサスとして確立されている。

 世界的にみると、D系統がまとまってみられるのは、日本列島とチベットという特異性が高い分布を示すので、D系統の移動の歴史を考えるうえでこの歴史は重要である。

 O系統は、金属器時代弥生時代)以降に日本列島へ流入した集団として想定されているが、九州・四国・本州ではO2b系統とO3系統とがまとまって認められる。

 まずO2b系統について、日本列島以外では朝鮮半島に非常に高い集積が見られ(51%)、朝鮮半島との関連性を示す亜型である。

 日本列島中間部でも東京で36%~26%と、ある程度の頻度で見られる。

 O2b系統は渡来系弥生人集団である可能性が高く、長江文明との関連も考えられている。

 

 C系統全体の移動の歴史をまとめてみる。C系統の分岐の推定時期は、27,500年前、あるいは28,000年前であり、いずれも旧石器時代であることが推定されている。

 アフリカを出たC祖型集団はまずユーラシア南部(インド)へ達したようである。

 そして東へ南ルートで移動し、インドネシア東部、パプア・ニューギニアへ達し、さらにオセアニア各地およびオーストラリアへ達した。

 そのうちC1系統は日本列島でしか見出されない稀な亜型である。インドの集団から直接日本列島の集団へ分岐したことが推定されるが、その移動ルートは不明である。

 C1系統は、航海術と貝文土器を携えて新石器時代早期に日本列島の南部に達した貝文文化の民との関連が注目される。

 その見方に立つと、日本列島の新石器時代において、縄文文化型ヒト集団(D2系統)とは異なる、貝文文化系ヒト集団が共存していたことになる。

 

 次に出アフリカの第二グループであるDE系統に由来するD系統の移動ルートについてみてみよう。

 DE祖型の分岐の時期は69,000年前、あるいは38,000年前である。

 共通の祖型とはいえ、アフリカとユーラシア大陸西部に限局するのが、E系統の特徴である。

 これとは対照的に、D系統はユーラシア大陸東部に限局する分布を示す。

 D系統は低頻度ながら各地に分散して見られる。D1系統は南方に、D3系統は北方に、D2系統は日本列島のみに特異的に見られる。

 D祖型の分岐時期は13,000年前、つまり旧石器時代から新石器時代への移行の時期である。

 D系統の移動ルートは、いったんアフリカを出た後、ユーラシア南部を東へ移動していったようである。

 その後、東南アジアを経て北上し、華北から一部はモンゴルへ達したようである。

 その後、さらに華北から朝鮮半島を経て日本列島へ渡ってきたことが推定されている。

 また華北から一部はチベットへ達したことが推定されている。

 D系統はシベリアではほとんどみられないことから、サハリン経由で北海道へいたるルートは可能性は低くなる。

 またC系統が繁栄したインドネシア東部、パプア・ニューギニアオセアニア、オーストラリアではD系統の亜型がみられないことから、移動の歴史やルートがかなり異なることがうかがわれる。

 

 N系統の分岐年代は8,800年前あるいは6,900年前と推定されているので、すでに新石器時代に入ってから生じた比較的新しい亜型と思われる。

 N系統の分布は、ユーラシア北西部のウラル系に特徴的な系統であり、ヨーロッパ北部の先住系ヒト集団を構成しているようである。

 日本列島では少数ながら複数の報告で繰り返しN系統の報告例がある。

 N系統の移動経路として、その祖先型が出アフリカ後、南アジアへ達し、その後華北朝鮮半島を経て直接日本へ達したと考えられる。

 

 O2b系統は、南琉球八重山諸島(67%)と朝鮮半島(51%)に高い集積を示し、日本列島の他の地域(東京26%)でもある程度の頻度で見られる。

 東アジアの歴史を考えるうえで、このO2系統は長江文明崩壊後の人々の離散の歴史と、現在にまでいたる共通文化(長江文明由来の稲作文化)の基礎を提供しているのかもしれない。

 O系統の発祥の地として、東アジア南部が想定されている。

 O2b系統の分岐の時期は3,300年前、そして移動開始の時期は2,800年前ということが推定されている。

 O2b系統は弥生時代以降に日本列島へ入ってきた渡来系弥生人であるものと推定されており、この移動開始時期の推定値は渡来系弥生人の移動時期によく合うようである。

 O3系統については、早い時期に南から北への移動をおこなったことが推定され、5000年ほど前から漢民族・中原勢力の膨張とともに黄河上流域から今度は北から南への移動が確認されるようである。

 このように、時期が異なり相反する二つのヒトの移動の流れが、現在の東アジアにおけるO系統の分布の解釈を難しくしているようである。

 諸々の好条件が揃っていたおかげで、この日本列島ではユーラシア大陸東部で敗者となったさまざまなヒト集団がそれぞれ生き延びることができたのではないかと思われる。

 

  • 第2章 多様な文明・文化の日本列島への流入

 

 後期更新世の最終氷期には気温の低下により、約二万年前、マンモスゾウが南下してきたのを追って、シベリアからサハリンを経て北海道へ人類が移動してきたことが推定されている。

 当時技術革新を遂げた細石刃によって狩猟の技術を飛躍的に高めたこともその背景にあるものと思われる。

 細石刃技法の二つめの流入ルートが朝鮮半島--九州を通りナウマンゾウを追って日本列島へ来たルートと考えられ、後期旧石器時代においてすでに多くの文化やヒト集団の流入ルートとして機能していたことを示す点で興味深い。

 次第に温暖化が進み、現在に近い温暖な気候へと移っていった。

 環境変化やヒトによる乱獲による大型哺乳動物の絶滅という動物相の弱体化は、それを栄養源の中心としていた旧石器時代人の生存にとっても大きな危機をもたらした。

 このような背景の下に、ヒトは多様な栄養源確保というあらたな生活様式新石器時代)へ移行していった。

 旧石器時代における狩猟中心の移動型生活から、新石器時代における多様な栄養源確保様式の組み合わせによる定住生活への変化が、後期更新世から完新世への時代の移行とともに起こった。

 新石器時代へ移行する新石器時代草創期において、すでに日本列島では多様な文化圏に分かれて発展していったようである。

 つまり北から、後期旧石器時代に留まる北海道、東日本型隆起線文土器文化圏、西日本型隆起線文土器文化圏、九州型隆起線文土器に細石刃を伴う北部九州文化圏、それとは異なる南九州文化圏、それに土器が見られない琉球諸島のように、異なる文化圏が存在した。

 新石器時代の前期に至っても日本列島の地域的差異は大きかったようである。

 新石器時代の全盛期ともいえる中期には日本列島全体で九つの土器文化圏が区別され、北琉球でも土器が見られるようになった。

 これら地域ごとに異なる文化圏は相互に影響を与えながらも地域的特色を残しながら、次の時代である金属器時代弥生時代)へと移っていった。

 

 朝鮮半島から日本列島の北部九州へ水稲農耕が渡ってきたのは、新石器時代末期だと思われる。

 そして九州から本州を東へ進み、東北北部まで稲作は比較的急速に達したようである。

 それ以前から雑穀農耕の中でイネもアワなどのほかの穀物と一緒に栽培されていたようであり、陸稲栽培はすでに新石器時代縄文時代)におこなわれていた。

 それが水稲農耕という新しい文化を伴うものとして本格的に日本列島で普及するのは弥生時代であり、今から2,400年前(あるいは2,800年前ころ)だと推定される。

 これは朝鮮半島陸稲農耕よりも遅れるが、朝鮮半島における本格的な水稲農耕の開始の時期からはそれほど大きく遅れていない可能性がある。

 渡来系弥生人の日本列島への移動のあり方については、小数の集団が何回にも分かれて細々と九州へたどり着いてきたことが推定されている。

 

 

 まとめ

 本書は数多くの研究成果を引用していますが、あくまで推定の域を出ないもので、また引用することそれ自体疑問符がつくような(一例・倭族を提唱している鳥越など)ものがあったり、手放しで納得させられるものではないし、ある程度ひいて読まなければなりませんが(サンプル数の少ないことを言及していなかったりします)、こちらもいずれ多くの研究があがってくることでしょう。

 母数の大きいD系とO系に関しては保留はいらないと思いますが、こちらはミトコンドリアハプログループの研究結果を補完していることがわかり勉強になりました。

 日本にも一つの民族ではなく数多くのユニークな人種集団があって、単一ではなく多くの異なる文化があったことは強調されてしかるべきでしょう。

 人類史に興味がある方はぜひ一読を薦めます。

 

(続きます) 

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/28/223846

セデック・バレ 第二霧社事件とその後  

http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/02/20/225134

の続きです。 

 

  霧社事件の惨劇のあとに、第二の惨劇が待ち受けていました。故郷を失った彼らは、川中島という所へ強制移住させられ、そこで生きていきます。

 霧社事件の全容を解き明かしたのは、かつて蕃社で生まれ、とてつもない努力の果てに警察の公医となった一人の少年でした。

 なお下記の時制は、1980年の出版当時によるものです。

 

 

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

 

 

  • 3 霧社事件その後

 

 1931年4月25日午前8時ころ、台湾総督府理蕃課長のもとに至急の警察電話がかかってきた。

 霧社事件の反抗蕃として収容されている「保護蕃」が、味方蕃であるタウツア蕃の襲撃をうけ、多数の死者を出したとの急報であった。

 これが第二霧社事件の第一報である。

 官憲のきびしい監視下におかれていたはずの保護蕃が、襲撃を受けて216名の死者を出すことになったことはまぎれもない事実である。

 収容所の家屋に放火をうけ、火を逃れて外に出たところを馘首された101名に加えて、焼死した96名、さらに自ら死をえらんで縊れた19名という被害を生じてしまった。

 当時、タウツア駐在所の主任を務めていた小島源治巡査部長は、上官の命令を受けて、自分がタウツア蕃の頭目・勢力者をそそのかしたのだと明言する。

 第二霧社事件の後始末は、保護蕃の川中島移住完了によって、とりあえず一段落する。

 

 保護蕃を、霧社から遠く離れた土地へ移そうとする計画は、理蕃課長の手によりかなり早い時点からなされていた。

 移住地は、当時川中島と呼ばれ、現在は清流と呼ぶ地に定められた。

 けれども、保護蕃の側では、移住の説得には容易に応じようとしなかった。

 第二霧社事件によって半数に近い人々が命を失ったうえ、隣接してかつて味方蕃として奇襲隊となったバイバラ蕃の居住地があったからである。

 しかし警官と同道のうえでのバイバラ社頭目などの説明により、保護蕃の疑いは解きほぐされたようである。

 1931年5月7日、保護蕃278名の川中島移住は、途中何の事故もなく無事に終了した。

 10月15日、理蕃警察は川中島の住民のうち32名の壮丁を霧社事件の凶行に関与したとの理由で捕らえる。彼らはその後川中島に帰ってくることはなかったという。

 

 事件の発生からほぼ三ヶ月、石塚総督が経過報告のため上京し、参内して天皇に拝謁した。

 そのおりに石塚総督は事件の取り繕いに努めたという。

 天皇は、直接的には何の言及もしなかったが、総督の退出後、内大臣牧野伸顕に向かい、

 「右は一巡査の問題に非ず、由来、我国の新領土に於ける土民、新付の民に対する統治官憲の態度は、甚だしく侮蔑的圧迫的なるものあるやうに思はれ、統治上の根本問題なりと思うが如何」

 と下問したと、牧野からの話を木戸が聞き書きしている。

 

 霧社事件が契機となって、台湾総督府の理蕃事業はその方針を大きく改めている。

 1933年の逢坂事件では、頭目以下108人が立てこもったのに対し、包囲はしても殺戮はおこなわず、味方蕃を仲裁にたてての和平交渉により決着をつけている。

 処刑されたものも皆無だったという。制裁主義の誤りを気づかせたところに、霧社蕃蜂起の歴史的意義を認めるべきであろう。

 それでも、頑迷にして凶暴な「蕃族」ゆえに事件はおこるとの見解を、台湾総督府は、外部に対してはつねにとり続けていた。

 もっともこうした保身工作をおこなっても、台湾総督の更迭をまぬがれることはできなかった。

 

  • 4 事件をめぐる人々

 

 霧社蜂起の最高指導者がモーナルダオであったことは、日本側も台湾側も認めるところである。

 けれども、蜂起発生からしばらくの間は、その最高指導者がだれであったかについて、いろいろと憶測がなされていた。

 そのころ蜂起の指導者と目されたのは、花岡一郎・花岡二郎の義兄弟であった。この二人は当時の霧社では「蕃人」きってのインテリであり、エリートとされていた。

 そうしてこの二人を「撫育」したのは、理蕃警察それ自身なのである。

 「蕃人」に計画的・組織的な行動ができるはずがないとの観測がなされる一方、「撫育」の成果を逆撫でする花岡首魁説も認めたくないとする判断が、事件鎮圧に関わりあった側に存在した。

 霧社事件における両花岡の立場と行動については、関係者のほとんどが死亡しているため、真相の究明は不可能といってよい。

 今日の台湾では蜂起の指導者、民族の英雄として一般的に扱われているのだが、それでいて花岡は忠なりやはたまた奸なりやとの論を張る立場もあるとのことである。

 

 第二霧社事件の発生を防げなかったことを理由に減俸処分を受け、1936年には依願免官となるが、小島源治(演・安藤政信)は台湾にとどまっていた。

 小島の台湾の履歴は1915年基隆に来着したところから始まっている。理蕃事業に従事していた兄を頼ってのものであった。

 兄は1920年のサラマオ蕃蜂起による合流点分遣所襲撃の犠牲となって、非業の最期をとげてしまう。

 兄の遺骨をもっていったんは故郷の宮城に帰るが、けれどもふたたび台湾に渡ってゆく。その職に愛着を持っていたからであろう。

 霧社事件発生の当時、小島はタウツア駐在所に属していた。

 小島をはじめ日本人警官とその家族の命を救うきっかけとなった頭目タイモワリスは討伐中に馘首されてしまう。

 そのことが、第二霧社事件の遠因を形成するのである。

 第二霧社事件は小島が、タウツア駐在所の先任者として、頭目・勢力者にその実行を示唆(事実上は命令)したのが、直接的な要因である。

 明らかにしたのは江川博道(演・春田純一)が完成させた『霧社の血桜』に全文収載された小島の書簡による教唆の告白である。

 小島は、第二霧社事件発生の責任が直接的には自分にあるとの告白を何故おこなうに至ったのだろうか。

 善意的な解釈では自分の行動に端を発したことによるヒューマンなものの見方に立脚する。

 けれども、事件後末端の責任者にすぎない小島がもっともきびしい措置を受けた形であり、真の責任者を糾弾しようとする立場から踏み切ったとする解釈もまた成立する。

 小島の妻のマツノ(演・田中千恵)は二日二晩にわたって17人の子どもたちの命を守り抜くが、三男の正男を惨劇の中で失っている。

 

 花岡二郎の自決以後、花岡初子夫人(オビンタダオ、演・ビビアンスー)は再婚し、いまは高永清夫人として高彩雲を名乗っている。

 この本は、高永清夫妻の証言と、高永清の回想録の存在に大きく支えられている。

 高永清はホーゴー社の出身である。聡明に生まれつき、理蕃課が中山清の日本人並の氏名をあたえ、霧社尋常小学校に入学させて撫育しつつあった。

 事件以後九死に一生を得た彼は、高砂族出身者としては前人未到の地位を獲得する。

 川中島での生活が始まってから三ヶ月とたたぬうちに、オビンタダオと彼は強引に縁組させられる。

 正確な統計ではないが、マラリアの感染や自殺者が増え、川中島の人口は、移住から二年後にはおよそ三分の二に減少するほどになったという。

 31年12月からの警察勤務の中で独学を積み上げ、巡査採用試験・普通文官試験にはじまり、ついには医師の資格すら取得のうえ、公医として警察行政に関与するに至る。

 公医の地位を手中にし、非公開の警察関係書類を閲覧しうる立場に身をおいて以来、事件に関する証拠を抽出し続けた。

 

 霧社事件を知るための資料としてもっとも基本的なものは山辺健太郎編・解説『現代史資料』22・台湾2(みすず書房)所収の「霧社事件」である。

 これは、当時台湾総督府のもとに集積された多量の事件関係書類のなかから、必要な文書を山辺が編集したもの、および牧野伸顕文書の中から山辺が発見した『台湾霧社事件調査書』によって構成されている。

 つぎに、文書記録以外の資料として、江川博通『昭和の大惨劇 霧社の血桜』、森田俊介『台湾の霧社事件』などが上げられる。

 

霧社の血桜 (1970年)

霧社の血桜 (1970年)

 

 

 

まとめ

 

 この本が書かれた1980年時点で小島氏は寝たきりの老人として、オビンタダオ氏は旅館の経営者の妻として生存なさっていて、その当時が、そして今も1930年の台湾の霧社と一続きに繋がっている世界だということを改めて気づかせてくれます。

 ちょうど取材の時期などが中国との国交正常化、台湾との国交の途絶の時期にも当たっており、そのやや緊迫した空気もこの本でうかがい知ることが出来ます。

 

セデック・バレ 霧社事件を読み解く 1

 

 

 

 セデック・バレを見て霧社事件に興味を持ち、図書館に行って関連資料を探した所、残っていたのは1980年第1刷発行のこの本でした。

 

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

霧社事件―台湾高砂族の蜂起 (1980年)

 

  現在では霧社事件に関わる書籍がいくつか出版されているようですが、この本も現地取材を通して、また当時生きていた事件の関係者への直接の聞き取りを得ている点がとても貴重で、映画では伝わりきらなかったその全容について解き明かそうとしています。以下、単語の使い方は書籍のままを尊重して書いています。

 以下に映画のネタバレを含みます。

 

  • 1 「理蕃」事業の歩みをたどる

 

 日本の台湾領有は、下関条約の締結によって始められる。1895年4月に講和は結ばれ、台湾の日本への割譲が規定されていた。

 しかし日本は、この時点までに、台湾を軍事的に制圧していたわけではない。

 割譲が風聞として伝わったころから、反日・独立への動きがたかまっていた。

 5月23日、”全台湾島民の名において”「台湾民主国独立宣言」が発せられた。

 5月29日、日本軍は、台湾北東端に上陸し、台北をめざして進撃を開始した。

 日本軍が台北に迫ると、民主国要人は本土に逃れ、台北はあっけなく陥落した。しかし、抗日武装闘争は、民衆・土豪にひきつがれて、なお激しく展開されていく。

 10月21日、日本軍はついに台南城を落とし、三軍が合流してこの地に入った。抗日軍の組織的抵抗はここに終わったわけである。

 しかし、台湾民衆によるゲリラ的な抗日闘争は、この後もなお継続する。

 このような抗日闘争にたいした時期を含めて、台湾における日本軍の残虐行為には、すさまじいものがあったという。

 「台湾匪乱小史」は住民の抗日闘争の終わりを1902年としている。

 日本当局は、このときまでの八年間に処刑もしくは殺害した「叛徒」数を、公式には12,000人と記している。

 

 この抗日闘争は、漢系民衆によるそれである。しかし、台湾の現地民は彼らだけではなかった。

 このもうひとつの現地民は、少なくとも漢系の現地民ほど組織だった抗日闘争を、当初はくりひろげなかった。

 彼らにしてみれば、日本軍が相手にしている漢系の現地民も、彼らの土地を奪い、彼らを虐げてきた侵略者なのであった。

 新たに進出してきた日本軍にたいして、とくに矛先を向ける理由はなかった。

 日本でも、漢系住民による闘争鎮圧に、全力を注がなければならなく、原則的には「蕃地」の攻撃を、当初は得策としていなかった。

 

 もうひとつ見逃せない事実があった。漢系民衆の抗日闘争を日本軍が鎮圧していく過程で、先住民のなかからも兵を募ったという点である。

 1897年、第三代総督乃木希典のもとで、「蕃人」の荘丁80名が集められたということである。しかし、「蕃人」募兵は、総督が児玉源太郎に代わると、廃止に向かった。

 その理由は、ひとつには、訓練を施すことに危険を感じたということであり、また、台湾統治上の手段としては、国際的に不評だったためとも言われている。

 「蕃人」あるいは「蕃地」の掌握は、「理蕃」ととくに称された政策であった。「理蕃」は硬軟の策を使い分けながら進められた。

 あるときには、「討伐」が展開され、あるときには、「撫育」と称される懐柔策が主流になっていった。

 

 日本側では「理蕃」の対象であった高砂族をどのように認識していたのかを、つぎにみていく。

 高砂族は従来、男が狩猟、女が農耕・飼蓄・機織をもっぱらおこなっていたが、「理蕃」政策の進行によって、徐々に農耕の比重が増加していった。

 彼らの宗教は多神教であり、さまざまな紙が信じられていた。かつて高砂族の社会においては、政治や裁判は祭祀と不可分であったといわれている。

 「出草」とはいわゆる首狩りのことだる。これは宗教的観念にもとづく行為であり、敵の勢力削減を目的とする戦闘とは性格が異なった。

 出草がどれほど重視されていたかを示す例は多い。

 例えば「死後、未来の国へ行くときには川を渡らねばならないが、吊橋には『家来をつれない男はわたることができない』という札が立っている。この家来は馘首によってのみ得られる。」という説話があったという。

 

 1902年、漢系住民の抗日闘争の鎮圧をほぼ終えると、蕃人討伐の回数がこのあたりを境として急に増えていく。

 「討伐」は、あらかじめ調査し、そのうえで軍隊が蕃社に入り、建物を焼却したり、戦闘を交えたりするというようにして進められる。

 しかしこの方法では威圧できない場合も多く、長期的な見通しに立った策を講じる必要も生じてくる。

 直接的な攻撃が主であったが、物品供給の制限、一般的な警察の取り締まり、隘勇線の設定および強化などがあった。

 隘勇線制度とは、清の時代よりおこなわれていたもので、蕃地と非蕃地の境にあって、防御と攻撃をおこなう施設を意味している。

 1910年から1914年にかけては、佐久間総督によっていわゆる五カ年計画なるものが作成され、銃器の欧州を中心とする討伐が推し進められた。

 五年間に押収した銃器は22,950挺にものぼった。それは1902年から1929年までに押収した銃器28,492挺の約八割にものぼった。

 もちろんそのための費用も大きかったし、動員も前例をみないほどの多数であった。

 明示松から大正にかけての一時期は理蕃史上でも画期的な一時期であった。

 

 撫育は、帰順した部族あるいは蕃社ごとにおこなわれるのが常であった。

 彼らの旧来の生活様式は否定され、植民地支配者側の構想した生活様式が、かわって彼らに強制されていった。

 当然のことながら、こうした施策にたいして、高砂族が反撃する場面も出現する。

 

 サラマオ騒擾事件は1920年に発生した。9月18日午前一時、合流点分遣所にたいして「サラマオ蕃」60名が襲撃を加えてきた。

 サラマオ事件では軍隊や「味方蕃」による奇襲隊の活動が目立った。

 事件処理の段階においては、同族を動員して鎮圧する策が大規模に採用されている。いわゆる「反抗蕃」にたいして「味方蕃」を対置していく作戦である。

 サラマオ騒擾事件の後にも、何度か事件が発生したが、全社をあげて抵抗するような事件は、霧社事件までおこらず、「蕃地」は小康状態を保つようになった。

 ところで「味方蕃」を編成する際に、日本側であh、彼らによる馘首を認めていたと判断される。この対応は、「味方蕃」を動員するのに効果を発揮していたとも言われている。

 

  • 2 霧社事件の原因と経過

 

 1930年9月中旬から、霧社分室内の「蕃社」を巡視した江川博道警部(春田純一)は、異常な雰囲気に慄然とした。

 台湾の「光復」後も、江川警部は徳の人であり、彼が早くから能高郡警察課長の職にあったなら、霧社事件はおこらなかったかもしれないと現地で評されている。

 江川氏がその職についたのは、前任者が職にたえずとして辞表を提出の上、内地にかえってしまったための補充人事であるという。

 彼は困った事態が発生しつつあると告げられた。

 「小学校などの改新築工事と、その材料採集を警察が一手に引き受け、職員が伐木造材に全力を傾倒し、蛮人がそれを搬出している」と江川氏の回想録『霧社の血桜』は記述している。

 警察が本来の職務外の仕事に手を染めるのは、にがにがしい現象であるし、「多くの蛮人に彼らの不得手な、材木担送等の過重の労働を強いていることは好ましくない。」

 トラブルの拡大を恐れた江川警察課長は、台中州庁に出頭し、理蕃課長に面会して直営工事の中止を進言するが、「いまさらそのような申し出をされては困る」と言い渡されてしまうのである。

 問題が発生しつつあるマヘボ駐在所の監査に行った江川警察課長は、タダオモーナと顔をあわせるが、彼は「私たち一行になんの会釈もしない。」

 「僕の経験によると、彼らは私たち一行に出会えば必ず敬意を表する。」と、江川氏にはなにか容易ならぬ事態がそこにあるとの判断があったようである。

 タダオモーナの不敬は、吉村巡査殴打事件のトラブルの末に起こったものであるとも考えられる。

 

 霧社分室自身が工事にあたった原因については、「予算の限度を超えて無理な工事を企画遂行」したものと『霧社の血桜』は解しているように思われる。

 直営していたのは、警官が私服を肥やすための手段であったと見る立場も生じえよう。

 取り分の増加を狙って、ピンはねと奴隷労働が強要されれば、不平不満がたかまるのは、理の当然であった。

 このような強制労働を警察力によって強行できたのは、多分に当地の「蕃地」がおかれた特殊事情によっている。

 特別行政地域に属していた「蕃地」では、民法・刑法など、一般の法律は施行されず、租税の賦課も行われていなかった。

 行政はこれを「蕃地警察」が施行するのだが、その規範を定めるのも「蕃地警察」であった。すなわち司法立法行政の三権は、すべて一手に警察が握っていた。

 租税の賦課がないというのは、金銭による支払いが求められないという意味であり、それにかわる存在が各戸に割り当てられる出役となり、前記の材木搬送が、その具体例を構成する。

 

 霧社蕃マヘボ社の頭目モーナルダオは1873年の出生とされている。しかし、当時の高砂族は文字を持たず、清朝化外の民であるとして施政の対象外においていたので、出生年は推定であろう。

 台湾総督府側では、『霧社事件の顛末』において、推定48歳と記している。

 モーナルダオも、その最期、さらに死後の措置は悲惨であった。

 モーナルダオは、事件発生から四日目に、家族の婦女子に縊死を命じ、それに従わなかったものを銃殺し、自分も死を選んだと報じられている。

 数年の後、マヘボ渓の奥に狩猟した高砂族の壮丁が、彼と目される白骨死体を発見したのである。

 この白骨は、日本側に収集され、台北帝国大学の考古人類学科の資料陳列室に標本として保管されることになる。

 霧社に里帰りし、「霧社山胞抗日起義紀念碑」のかたわらに手厚く葬られたのは1974年であった。

 

 討伐に従事した警官隊・軍隊のなかから、戦闘によって28名の死者が出た。また、「味方蕃」となった700名前後の「霧社蕃」が生命を失った計算になる。

 それに加え、第二霧社事件と称される「味方蕃」による無差別殺戮に伴う死者216名を加えると、「反抗蕃」の死者は1000名を優に超える非常な数にのぼった。

 第二霧社事件の後、命を永らえた人数は298名に過ぎなかったのを見ても、「反抗蕃」のうけた人的損害は非常なものであった。

 これほど多くの死者を出したのは、抗戦のほかに、多くの婦女子が投降するよりもすすんで死の道を選んだことに、その一員を求めるべきである。しかもそれは集団自殺である場合が多かった。

 極限状態のなかで、戦闘になおも従おうとする壮丁たちにたいし、後顧の憂いを断ち得るようにとの見方もあるが、馘首に対する懸賞金の設定が大量死を招いたと思われる。

 霧社事件の生き残りの小島源治巡査(当時・安藤政伸)から、金額は忘れたが、馘首にたいする懸賞金はたしかに存在したとの指摘を受けている。

 

 

まとめ

 映画でも殴打事件や、ひたすら圧政に耐えたモーナの姿は見ることが出来ますが、この本を読んだ印象については、学校の増改築を含む警察の略取がその大きな原因と見ることができます。あるいは、生番を味方蕃と反抗蕃として対置していく政策が、かなり最初期から用いられていることに驚きを覚えます。

 映画と重複する記述はなるべく避けています。続きます。