コリアー 『最低辺の10億人』 5 貧困の罠との戦い方
続きです
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/13/224012
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第5部 最低辺の10億人の国にとっての戦い
- 第11章 われわれの行動の指指
10億人の人々はこうした世界に閉じ込められ続けるかもしれない。再び回避可能な大惨事へ迷いこむのを阻止するのは、すべての市民の責任である。
そしてそれは避ける事ができる。そのための四つの方法を論じた。援助、安全保障、法と憲章、そして貿易である。
もう一度罠を見直し、私達が手に持つどの手段で罠を打ち破ることができるかを考えてみよう。
紛争の罠を打破する
紛争の罠には二種類の介入の仕方がある。それは紛争後の介入と、強力な紛争の防止策である。
すべての内戦のおよそ半分が紛争後に再発しており、しかもこれが起こっているのは数カ国に限定されているため、紛争後の介入の効果を高めるという点から始めるのは有効だ。
援助は急いで一気に実施するよりも、10年程度かけて段階的に行うほうが役に立つと援助側は気づいてきた。
紛争後の初期に圧倒的に必要なものは、政府の無能力によって阻まれる。
これを解決する方法は、独立サービス機関モデルを通して基本的な社会サービスを提供することである。
紛争後の国における治安維持には、長期に渡る外国軍の駐留が必要になる。
外国軍の駐留がおよそ10年に及ぶことを覚悟して、それにコミットしなければならない。
情勢が悪化する状況では、性急に新しい要求をするよりも、国際的規範を適用するほうが、はるかに受け入れやすいだろう。
さらに援助国や国際機関が問題ごとに提携するよりは、あらかじめ合意している規範について協調するほうがはるかに容易である。
このように紛争後の情勢では、四つの手段のうち三つが重要である。
援助はすでに大きく改善されたし、軍事介入も改善されつつある(少なくともイラク以前までは)。
しかし憲章は今のところはるかに遅れている。
このため現在最も緊急の課題は、憲章を公布させることである。
天然資源の罠を打破する
多くの底辺の10億人諸国では資源は豊富だが政策が貧弱である。
これらの国では援助によってより多くの資金を供給することは、ほとんど意味を持たない。
天然資源の富によって国は紛争に駆り立てられかねず、これに対する介入の主要な手段としては、私達の法と国際的な規範だろう。天然資源のための憲章である。
劣悪な近隣諸国に包囲された内陸国の罠を打破できるような強力な手段はない。
そして内陸国の罠を打ち破るには、まず他の罠を壊さなければならない。ただし問題を低減するためであれば、私達にできることはまだ多くある。
まず援助であり、しかも大規模な援助である。これらの国の貧困はまだ長く続くだろう。
私達の貿易政策は内陸国の開発にはそれほど大きな影響力をもたない。なぜなら輸送コストという自然の障害があるためである。
しかしヨーロッパに近いため、貨物の空輸がヨーロッパ市場へのライフラインとなりうる。
主要な輸出品目は価値の高い農作物であり、この場合にはヨーロッパの貿易政策が関係してくる。
失敗国家における改革の難局を打破する
劣悪なガバナンスと政策の国でも時には方向転換の兆しをみせることはあるが、これらの国の改革は内部から行われなければならないが、それには勇気がいる。
改革者は容易ではない。改革は困難だが勝利をおさめることはできるのだ。
著者は7章で、いつ援助が改革を助け、どんな時に改革を妨害するかを指摘した。懸命な援助を行うには、技術協力の実施を実質的に改めることが必要である。
法と国際的な規範についてはどうだろうか。私達の法律は腐敗を抑制する上で重要である。
また国際憲章は改革者たちに劣悪なガバナンスを避難する手段を提供し、結束する目標を提供する。
援助を改革する上で重大な障害は世論である。援助の支持者は成長に疑念を持ち、成長の支持者は援助に疑念を持つ。
現在、人気を得ている考え方は、援助機関に対して逆の方向に向かって圧力をかけている。
いわく援助機関に失敗は許されない。いわく援助機関は管理費を節約してスリムにならなければならない。
いわく改革と成長を目指して、短期よりも長期の目標を優先しなければならない。
いわく無条件の債務援助を与えなければならない。
一般市民が十分な情報を得ようとはせず、ただひたすら声高な要求と圧力を支持するのは誤りである。
援助機関には多くの優れたスタッフがいるが、彼らは世論のあり方に強く縛られてもいるのだ。
- まとめ
この本の多くは先進国の援助する側の政府・NPO関係者に書かれたものでありますが、同時にその政治制度の根幹をなす我々に向けての心構えでもあります。
国内の貧困・格差への目線と同時に、世界のそれへの目線も忘れないようにしたいと思います。
コリアー 『最低辺の10億人』 5 軍事介入、法、貿易
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/11/223808
の続きです。
窮乏する最低辺の国々を救うための手段は何があるのでしょうか。
そして我々には何ができるでしょうか。
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第8章 軍事介入
イラク戦争以降、軍事介入への支持を訴えることは非常に難しくなった。
この章は著者にとって一番厄介なパートである。
なぜならば著者は、本章で、底辺の10億人の社会を助けるためには、外部からの軍事介入が重要だと強調したいからである。
1990年頃までは、失敗国家への国際的な軍事介入は冷戦の延長にすぎなかった。
侵略者を追放するという意味で、クウェートは明らかに国際的介入の好例である。
しかし外国の軍事介入には、他にも重要な三つの役割がある。それは秩序の回復、紛争後の平和の維持、それにクーデターの阻止である。
豊かな国の軍隊はもはや底辺の10億人諸国では役割を失ったという主張は、政治的に公正な意見とされている。
紛争後の情勢やクーデターのリスクに対しては、なぜ底辺の10億人の政府は自国の治安部隊に頼れないのだろうか。
政府が最大の危機に直面しているまさにその状況のために、自国の軍事組織はその解決策ではなく、むしろ問題の一部なのである。
政府が選択した軍事支出のレベルは、政府が直面する内戦のリスクを反映していることが判明した。
紛争後の政府は異常に高いリスクに直面しているため、より多く軍事費に費やす。
多額の軍事費の支出が、紛争を抑止する上で有効かどうか検証することにした。
結果的には、軍事支出が紛争の抑止に完全に有効でない限り、多額の出資がかえって紛争の再発に関係していた。
そして最終的に発表した結果では、紛争後の状況下で多額の軍事費の支出は解決にならず、逆に問題であることがわかった。
クーデターの明らかな特徴は、それが自国の軍部の企てであるということである。
クーデターの危険が非常に大きい時には政府は軍を買収しようとするのだろうか。著者はそうした疑問を抱いた。
もしそうだとすれば、軍は「上納金」目当てに大掛かりなゆすりをしていることになる。
ここでひとつはっきりとした疑問がある。クーデターのリスクが非常に大きい時には、軍事予算は引き上げられるだろうか。
著者の研究によれば、底辺の10億人の諸国の政府では、間違いなく軍事予算は増発されていた。
底辺の10億人の政府は苦境に陥っている。彼らはまさに自国の軍隊に脅迫され大掛かりなゆすりたかりにあっている。
底辺の10億人の諸国の多くでは、軍事費のおよそ40%が不本意にも援助から調達されている。
そしてわたしたちの援助プログラムが犠牲になっている。
クーデターは通常、政府交代の方法として機能しない。
これがクーデターに対して、国外から軍事的保証を与えなければならない理由だ。
そして政府はわたしたちの援助をゆすり取られるかわりに開発に利用することができるだろう。
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第9章 法と憲章
ここまで援助と軍事介入についてみてきた。その両方とも有益だが、非常にコストがかさむ。一方は金が掛かり、他方は決断力が必要である。
ここでははるかに安くつく一連の介入について触れる。それは二種類に分かれる。
一つは底辺の10億人の国の利益になるような私達の法律の改正であり、もうひとつは行動を導く上で役立つ一連の国際的規範である。
経済成長自体によってチェック機構が保証される水準にまで所得が向上すると、その後の改善は継続的に自律的に増進されていく。
このためチェック機構を促進する国際的な努力は一時的なもので済むようになる。
1990年代に開発途上国に、そして現在では中東にまで広がる選挙導入の波は、政治的規制への熱意でさらに保管されなければならない。
予算のプロセスについての憲章には、トップダウンと同様にボトムアップの監視体制を明記することも可能だろう。
さらに三番目の監視体制があり、いわばこれは「横から」であり、国同士の相互の比較である。
この横からの監視体制は「アフリカ相互監視機構」(APRM)として知られるプロセスの中で浮上した。APRMはOECDをモデルにして設立された。
アフリカ諸国が自主的に自己評価を行い、また各国政府が互いを比較しランク付けをしており、有益である。
この三タイプの監視体制は事前と事後に機能する。
「事前」とは支出の承認についてであり、「事後」とは追跡の評価についてである。
最後に支出について非常に異なった二つの側面を監視しなければならない。それは支出の公正性と効率性である。
改革者は公正性に重点をおくが、効率性のほうがはるかに重要である。
予算の監視のための憲章は複雑である必要はない。それは以上に述べた三方向の監視と、二つのタイムフレーム(事前、事後)と二つの基準だけである。
底辺の10億人諸国に監視体制を持ち込むには勇気が必要だが、たぶん国際憲章があれば、敷居は少し低くなるだろう。
底辺の10億人の国に関係する国際憲章について最も広範にわたる状況が、紛争終結である。
紛争後の憲章には援助側と国際安全保障機関の行動に関する指針が含まれるべきである。
紛争後の政府が成約のない主権を与えられる以前に、最低限許容できる進展を規定したルールの下で、最初の10年間は事実上の保護観察下に置くべきである。
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第10章 周縁化を逆換させる貿易政策
底辺の10億人の国の問題の大半は豊かな世界の市民が責めを負うべき類のことではない。
しかし、著者はある問題については豊かな世界の市民に責任があると考える。
貿易政策について無知であることの影響に対しては彼らは責任を負わなければならない。
本来まったく戦略的な動機ではなかっただろうが、保護貿易は表向き底辺の10億人の国の戦略だった。
企業が無風無憂を享受する一方で、そのつけを払うのは保護政策によって国際水準以上のインフレに苦しめられる一般国民だ。これが保護の意味するところである。
なぜ底辺の10億人の政府は高い関税障壁を採用するのだろうか。それは関税障壁が汚職の大きな源泉の一つであるからだ。
追加援助にはアフリカの貿易自由化が伴うべきであり、さもなければ援助は貧困を深刻化することにもなる。
援助が使えるのは輸入だけだ。援助はドルやユーロなどの外貨である。
政府が援助を学校に使うことにすれば、現地通貨を調達するために外貨を売らねばならない。
人々は輸入品に支払うため外貨を買う。このように人々が輸入品を購入したいと思うときにだけ、援助には価値がある。
追加援助は輸入品の供給を増すが、それに見合うだけ輸入需要も増える必要がある。
底辺の10億人の国の製造業は衰退している。30年間の保護政策のなかで、生産性は停滞し寄生的傾向を強めていった。
どうすれば製造業は生産性を向上させることができるだろうか。
輸出から学ぶことは特に多い。ダイナミックな製造部門を持つことができるとすれば、それは輸出市場への参入によって果たされるだろう。
その政策はいわゆるフェアトレードではなく、また「貿易の公正」と評されるものでもない。
底辺の10億人の国は輸出品目を労働集約型製造業とサービス業に多様化する必要があるが、これはすでにアジアが行っていることである。
OECD諸国が、その市場で底辺の10億人の国を保護するために、アジア諸国に対して新たに関税を課すなどはありえない話だし、すべきでもない。
そうではなく、OECDは、アジア諸国がすでに関税をかけているところで、底辺の10億人の国に対する関税を撤廃すべきである。
この戦略は緊急に取るべきだ。
コリアー 『最低辺の10億人』 4 どのような援助が求められるのか
続きです。
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/10/222739
最低辺の10億人の国々が陥る罠については分かりました。私達が取るべき心構えについても分かりました。では、具体的にどんな手段を必要とされているのか。その手段はただの自己満足ではなく、根拠に基づいたものであるのか、著者なりの答えが以下です。
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第4部 われわれのとるべき手段
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第7章 救済のための援助となっているのか?
ここまでの話をまとめてみよう。
およそ10億の人々が住む国々は、四つの罠のどれかに捕らわれている。
その結果ほかの途上国は空前の速度で成長しているが、これらの国は停滞するか凋落を続けている。
停滞した貧国の国に生きる10億の人々とともに生きる未来は、私達が許容できるようなシナリオではない。
このために私達は何かをすべきである。では、なにをすればよいのか。
まず援助の問題から始める。これまではほとんど使われなかったが有効と思われる三種類の手段を取り上げることにする。
援助がなければ底辺の10億人諸国は、今以上に貧しくなっていただろう。
援助は崩壊を食い止める現状維持策だったのである。
援助をより効果的にしてその九州余地を増加できるように、援助の方法を変えることができるだろうか。
文字通り援助は国家財政を支援するのである。しかし多くの底辺の10億人諸国では、予算の状態は健全でなく、時にはグロテスクですらある。
ただ金を与えて効果が上がるのは、よく統治された国においてだけである。
著者とアンケは反乱とクーデターについていつもの方法を採用した。反乱とクーデターの原因分析に援助を持ち込んだ。
概して援助は内戦リスクに直接的な影響はないが、後に触れるように間接的には影響がある。
またクーデターはさらに別の問題である。事実大規模な援助はクーデターを誘発しやすい。
一方、天然資源は反乱を助長するが、援助の方は助長しない。しかし、クーデターは援助によって助長される。
なぜこうした違いがあるのだろうか。
たぶん反乱は普通長期間に渡るため、援助の可能性だけでは強力な誘引にはならない。
これに対して資源の連とは、内戦中でもずっと入手でき、反乱者にはこのましい。
では、援助はなぜ反乱を刺激しないのに、クーデターには援助が誘い水になるのか。
それはおそらく、クーデターが決着するには何年もかからないからだろう。
事実上クーデターは始まった途端に終わってしまい、成功した場合には、すぐに援助をわがものにできる。
援助はもともと第二次大戦後のヨーロッパを再建するために発案された。そしてその機能を十分に果たした。
しかし最近では紛争後の情勢に対する援助には欠点があり、それはあまりに少額で、早すぎ短すぎることである。あまりにも早く実行されるのだ。
そして最初の数年間は援助が殺到するが、たちまち枯渇する。
しかし紛争直後の国家は典型的に、恐るべきガバナンスと制度と政策の下にあるのだ。
このため大型援助は最初の数年間だけでなく、紛争後10年間は継続されなければならない。
第二の罠は天然資源の罠だった。率直に言って、ここでは援助はかなり無益である。
第三の罠は内陸国であることの罠である。これらの国は基本的に長期にわたって国際的な援助を必要としている。
これらの国にとっては、援助とは開発への一時的な刺激としてではなく、援助が生活水準に必要最低限なものをもたらすものとしてなされる必要がある。
援助は、内陸国の生命線である地域の輸送路の整備に充てられるべきである。しかしそれは実現していない。なぜだろうか。
一つは、インフラ整備が少なくとも援助機関の間で流行らなくなったからである。
またインフラ整備からの重点シフトは、健康や教育など"絵になる"社会的優先事項や、ますます神聖視される環境問題に援助を回すべきだという圧力が強まったことにもある。
また地域の輸送路が無視された別の理由は、援助プログラムが圧倒的に国別に組まれるためである。
第四の罠はきわめて劣悪なガバナンスと制作である。援助を受けることでこの罠から脱出することはできるだろうか。
ここに追加的援助の最も大きな活用の余地があるように著者には思える。
援助が潜在的に方向転換を促進する三つの道がある。それはインセンティブ、スキル、それに強化である。
援助が効果を上げるかどうかは、政策が今後どのように変化しつつあるかではなく、達成された政策の水準により判断される。
そして、約束を必要とすること事態を避ける――こうした考えのほうが研究による証拠と整合的なのである。
唯一の問題は、これによって最大の問題を抱えた国が援助から締め出されることである。
失敗の国家に政策の改善を促す方法としては、事前の政策コンディショナリティは無意味である。それは機能しない。
「ガバナンスコンディショナリティ」という非常に異なった考え方をしてみよう。
この融資条件の主な目的な権力を政府から援助側に移すのではなく、権力を政府から国民に移行することである。
事後の形でのガバナンスコンディショナリティは関心を集めてきている。
しかし、いささか驚いたことに、事前のガバナンスコンディショナリティを採用している援助機関はない。
こうしたアプローチがもたらす利点は、追加援助が与えられるためには、政府がどのような期間になにをなすべきかがより明確になることである。
著者たちは援助を、政府に対する技術協力と資金援助の二つのタイプに分類することにした。
ここでは技術協力に焦点を当てる。援助の1/4が技術協力の形で供与されることは、いくらか物議をかもしている。
援助される側が資金を目にすることがまったくなく、代わりに人を与えられるからである。
残念なことに方向転換前の失敗国家に対する技術協力は、転換が起きる可能性にほとんど影響を与えない。
しかし、改革が始まって最初の4年間、特に最初の2年間は、技術協力は改革の勢いが持続されるチャンスに非常に良い影響を与える。
それではプロジェクトや財政支援のために政府に供給される援助金はどうだろうか。
著者たちはここでも同じアプローチをしたが、結果はまったく異なっていた。
改革のはじめに与えられる援助金は、実際、逆効果で、望ましくない結果を生む。改革は勢いを維持できなくなる。
しかし、改革が数年続いたあとには、技術協力と税制援助の統計的な効果は逆転する。
技術協力は無意味になり、あるいは逆効果になる。
なぜならばある段階で政府には、外部の専門家に依存し続けるよりは、独自の能力を築く必要が生じるからである。
一方財政援助は役に立つようになり、改革のプロセスを蝕むどころかプロセスを強化していく。
つまり技術と資金の援助は一連のものでなければならない。
失敗国家を方向転換と導く上では、援助はあまり効果的ではなく、政治的機会を待たなければならない。
しかしチャンスが訪れたら、改革の実行を支援するためにできるだけ早く技術協力を行い、それから数年後に政府が使用できる資金を援助するのである。
被援助国が方向転換する前におこなう援助の有効性は、その供与の仕方にかかっている。
援助が適切に使われることを保証する方法は、プロジェクトを通じた出資である。
調査の結果、失敗国家にでのプロジェクトの管理監督に援助機関が使う経費の有効性に差異があることがわかった。
その有効性の差こそが、著者たちの結果の核心である。
援助機関が失敗国家で活動するときには、現実に支出する資金に対して、かなり高い割合の管理コストを予算化すべきだ、というのが明らかになったのである。
援助機関が活動しなければならない環境で効力を発揮するためには、援助機関は一層管理コストを支払わなければならない。
続きます。
コリアー 『最低辺の10億人』 3 集積する経済とガバナンス
続きです。
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/09/214906
前回では、最低辺の10億人諸国が陥る4つの罠についての説明がありました。
援助では解決しないという意見も、援助が足りないという意見もあり、先進国に住む私達はどのような目でこの問題をとらえるべきでしょうか。
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第3部 グローバル化がもたらしたもの
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第6章 世界経済の中で好機を逸する最貧国
底辺の10億人の国々は、先に四つの章で取り上げた罠のうちいずれかに捕らわれている。
人々の73%は内戦を経験し、29%は天然資源の収入に支配される国に住み、30%は資源に乏しい内陸国で劣悪な近隣諸国に囲まれている。
さらに76%は長期に渡る劣悪なガバナンスと経済政策を体験してきた。
さらに、国の中には、同時にあるいは連続してひとつ以上の罠にかかる場合もある。
これらの罠は確率的なものであって、ブラックホールと違い、脱出が不可能ではない。ただ困難なだけである。
罠から脱した時には、国は追い上げを始め、急激に成長すると考えられるかも知れない。
この追い上げの専門用語は「収斂」であり、そのよく研究された例が欧州連合である。
そこではポルトガルやアイルランド、スペインのように最初は一番貧しかった加盟国が急速に成長し、一方ドイツのように当初は一番豊かだった国の成長が足踏みした結果、ヨーロッパ連合を形成する国々は収斂したのである。
底辺の10億人の国々が収斂の方向に逆らっているという事実が、著者が最初にとりかかった謎だった。
グローバル化によって多くの開発途上国は繁栄へと弾みをつけたが、悲しい現実として、それよりも遅れてきた国にとっては、グローバル化は事態をさらに困難にしているのだ。
そもそもグローバル化とはなにか。開発途上国へのグローバル化の影響は、明確な三種類のプロセスを経る。
ひとつは物品の貿易、二つ目は資本の移動、最後は人間の移動である。これが底辺の10億人の国にどのような影響を与えるかを見てみよう。
国際貿易は数千年間続いているが、その規模と内容が劇的に変化したのは、この25年間のことである。
この時期に開発途上国が史上初めて、一次産品ではない商品とサービスの分野で国際市場に参入したのだ。
なぜ開発途上国に競争力がなかったのか。
その理由の一つは、豊かな世界が貧しい世界に対して貿易障壁を築いていたからである。
また貧しい国が自ら貿易障壁をつくって、これが競争的な世界市場への輸出の障害となり、自分たちで災いを招いたからである。
しかし貿易障壁だけでは、これほど長期間賃金格差が続いたことの説明にはならない。
より重要な説明としては、製造業においては、豊かな世界が生産規模を拡大することでコストの節約を図ることができ(規模の経済)、これによって大きな賃金の格差による影響を排除できるからである。
すなわち、もし別の企業が同じ場所で同じ製品を作っているならば、あなたの企業のコストも引き下げられることになるだろう。
このためほかに企業のない場所に移転すれば、非熟練労働力ははるかに安く手に入るが、コストそのものはかえって非常に高いものにつくことになる。
これについての専門用語は「集積の経済」であり、ポール・クルーグマンとトニー・ベナブルズによる洞察の重要な構成要素である。
欧米からアジアに製造業が移転したのと同じ現象である。
ひとたび移転の動きが始まると、低賃金のアジアに「集積」が膨らみ、爆発的な変化になる。
こうなるとアジアでも賃金は上昇するが、最初の格差が大きく、またアジアには大量の低賃金労働力があるため、「収斂」のプロセスにはまだ相当の年月がかかるだろう。
90年代には、アジアが工業製品とサービスについて集積度を高めていったため、アジアではこうした経済の集積によって競争力は途方もなく強くなっていった。
彼らに豊かな国も底辺の10億人の諸国も競合できなくなった。
豊かな国は低賃金でなく、底辺の10億人の国々は低賃金だったものの、集積がなかった。こうしてどちらも乗り遅れてしまったのである。
まずアフリカ諸国は格段に内陸であるか、また資源が豊富化のどちらかである。
この二つのカテゴリーは輸出の多様化に関する限り、それぞれ別の理由から脱落しやすい。
80年代を通じて劣悪なガバナンスと政策を免れていたのは、モーリシャスぐらいだったのだ。
もし、ガバナンスと政策が好転していたのなら、企業はアフリカを選んだだろうか。
その結果、ガバナンス及び政策のひどい失敗を免れるごとに、年々、輸出の多様化の成功例が優位に増加していくことがわかった。
自ら災いを招くことをやめた国は新しい輸出市場に参入できたのである。
グローバル経済の自動プロセスによって、いずれは好機は訪れるだろう。
しかし底辺の10億人の国は長い間待たなければならないだろう。
アジアの発展を促した自動プロセスが、今度は底辺の10億人の国の発展を妨げるのである。
ここで明確にしておくが、私達の手ではそれらの国を救済することはできない。底辺の10億人の諸国は内部からのみ救済される可能性があるのである。
すべての底辺の10億人の諸国にも、変革のために尽くす人達がいる。私達はこれらの英雄に手を差し伸べ続けるべきである。
続きます。
コリアー 『最低辺の10億人』 2 国家に襲いかかる罠とは
続きです。
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/07/220546
コリアーは世銀での経験から、スティグリッツやサックスらの薫陶も受け、最貧国の成長のプロセスを阻害する4つの罠を喝破します。下がその4つの罠です。
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第2部 これらの国を捕らえる数々の罠
- 第2章 紛争の罠
すべての社会には紛争があり、紛争は政治につきものである。
底辺の10億人の国に際立つ特徴的な問題は政治紛争なのではなく、その形式である。
内戦とクーデター、この二つの政治的紛争のコストは大きく、また繰り返される可能性がある。そして国を貧困の中に閉じ込めてしまう。
著者達はミシガン大学で包括的な内戦のリストを入手することができた。
これによって各国ごとに、また各年ごとに、大量の社会経済的データと対比することができるようになった。
戦争の危険と所得の水準の関係に、著者たちはまず着目した。内戦は低所得の国のほうがずっと起こりやすい。
因果関係を混同しているのではないかという疑問を抱くかもしれない。
例えば貧困が国を内戦に駆り立てるというよりも、戦争が国を貧困にするのではないかと。実際はその両面が言える。
低所得、低成長、一次産品への依存が内戦の可能性を高めているが、それらが内戦の真の原因だろうか。
反乱組織の不満にもきっと十分な根拠があるはずだと思われるであろう。その考えには一般に受け取られているほどの論拠はない。
基本的には政治的抑圧と内戦の危機には相関関係はない。また民族的マイノリティは、差別されていようといまいと関係なく、反乱を起こす傾向にあった。
アンケ・ヘフラーと著者は所得の不平等の影響について調査したが、驚いたことに内戦との関係は見当たらなかった。
この論理をさらに推し進める気はない。差別や抑圧を行う政府を許すわけにはいかないからである。
次に幻想について語ろう。すべての内戦は民族紛争に基づいているという錯覚がある。
統計的には民族の多様性と内戦の起こりやすさにはそれほどの関係はないが、私たちは一定の影響は見出した。
一つのグループが人口の大半を占めているが、他のグループもそれなりの勢力を維持している社会(これを民族的優位と呼ぶ)のほうが実際に、内戦の可能性が高い。
内戦が起こる要因は、このように数多くある。そして最も重要な問題は、紛争の終結が何によって決まるかだろう。
ここでも再び低所得が重要な意味を持つ。内戦が始まったときの所得が低ければ低いほど、内戦は長期化する。
また国の輸出産品の価値が上がれば上がるほど、戦費を調達しやすくなり、内戦は長く続く傾向がある。
内戦は非常に長期化する。国際的な戦争は厄介なものでも平均半年である。
これに対して一国内の内戦は、始まったときには小規模なものでも、国際紛争よりも10倍以上は長く続き、開始時に貧困であるほど長引く。
最期に、内戦のバランスシートについて考えてみる。
内戦によって国の成長は年間でおよそ2.3%低下する傾向にあり、つまり7年間戦争を続けると、国はおおよそ15%貧しくなる。
経済的損失と疫病は継続し、戦闘が終わっても、この二つは終わらない。
内戦のコストは、たぶんその半分は、戦争が終わった後に生じる。
そのコストの多くは近隣諸国も負担することになる。疫病には国境がなく、経済の崩壊も国境を越えて拡散する。
貧困、経済の停滞、一次産品への依存、これらは底辺の10億人の国々固有の問題と重なっているのである。
これらの国がすべて紛争の罠にかかっているわけではないが、そうなりやすい傾向が底辺の10億人の国すべてにある。
成長なしには平和はますます困難になる。そして底辺の10億人の住む社会では、経済は行き詰っている。
このため紛争の罠とクーデターの罠を、これらの社会が自らの力で打破するのは容易なことではないのである。
- 第3章 天然資源の罠
その国が政治的に安定している場合でさえも、天然資源の発見によって成長できないことがある。
実際に天然資源の輸出による黒字は成長を著しく鈍らせる。
底辺の10億の人々の29%は、資源の富が経済を支配する国に生きており、底辺の10億人の国について語る場合には、資源の富が重要な意味をもってくるのである。
資源のレントは民主主義を機能不全にする。これが資源の呪いの核心である。
著者達は天然資源から生じる収益を各国の政治制度と照らし合わせてみた。
石油および他の天然資源による収益は、選挙競争によるプレッシャーとはとりわけ相性がよくないことがわかったのだ。
天然資源からの収益が大きい場合には、独裁国家は民主主義国家の経済パフォーマンスをしのぎ、その正味の効果も大きいのだ。
これから示唆されるのは、資源の豊富な民主主義国家が投資を控えたということである。
民主主義的な政治がなぜ資源国でうまくいかないのか。
資源のレントが多ければ、選挙運動の進め方が変わる。基本的にはそれは買収や懐柔などの利益誘導政治を招く結果となる。
言論の自由が欠如し、また民族の忠誠心が高い環境の中では、利益供与が票を獲得するための費用対効果の高い手段となる。
この結果、有権者に訴える方法として公益事業を選ぶ非現実的な政党は、ただ選挙で敗北するだけなのである。
言うまでもないことだが民主主義は、経済への影響とは関係なく、多くの重要な理由から望ましいものである。
ほとんどの底辺の10億人の国々にとっても、経済の側面から見て独裁制は好ましいことではない。
また底辺の10億人の国の多くで独裁性が機能しない大きな理由がある。それは民族の多様性である。
世界的に見て多様な民族の国では、独裁制は成長を減速させる。
その一番もっともらしい理由は、民族の多様性が独裁者の支持基盤を狭める傾向があることである。
社会的支持基盤が小さければ、収益を独裁者の支持層に配分するために、成長を犠牲にするような経済政策をとることになる。
著者が示したいと思ってきたのは、独裁制を民主制に変えても、それだけでは十分と言えないということである。
民主主義の移行にあたっては、様々なグループには激しく選挙を争う動機はあるが、それに対して彼らにはチェック機能を確立しようとする動機はない。
私たちは幸いなことに、支払い主の立場から資源の罠に関わっている。このため罠を打ち破る手段を手にしており、ただそれを行使するために動いたことがないだけだ。
- 第4章 内陸国の罠
この10年間に経済学者の間では、地理の重要性に対して関心が高まっている。
サックスの研究によると、国が陸地に囲まれている場合には成長率はおよそ0.5%低下するという。
スイス、オーストリア、ルクセンブルグ、またアフリカではボツワナといった長期間に渡る急成長国を挙げることはできる。
内陸国だからといって必ずしも、貧困や遅い成長を運命づけられているわけではないのは事実だ。
しかし、底辺の10億人の国に生きる人々の38%は陸地に囲まれており、これは極めてアフリカ的な問題である。
海への輸送路に乏しい内陸に封じ込められていて、その経路のコントロールが自国の手に負えない場合、長距離輸送を要する産品を国際市場に参入させるのは非常に困難である。
それ以外にもいろいろな面で隣国は重要な役割を果たす。
多くの内陸国は海外市場への輸送路として隣国に依存するだけでなく、それがまた直接のマーケットでもあるのだ。
なにが成長の深刻な障害になるかを検証するにあたっては、内陸にあって出口がないという問題を、天然資源が豊かでない国に一応限定して考えたほうが懸命だろう。
それでも底辺の10億人の国のうち30%がこのカテゴリーに当てはまるのだ。
内陸にあろうとなかろうと、だいたいすべての国は隣国の成長の恩恵に与っている。成長は国境の外にまで及ぶからである。
世界的に見た場合、資源に乏しい内陸国は隣国の成長に便乗しようと、特に努力しているようにみえる。
このためスイスのような国は、近隣諸国のマーケットに自国の経済を不均衡なまでに順応させている。
資源が乏しい内陸国は、近隣諸国にチャンスがない場合には成長の停滞を余儀なくされる。
アフリカを除く開発途上国では、人口のわずか1%が資源のない内陸国に生きている。
表現を換えれば、アフリカ以外では資源がなく海岸線から遠い地域は国として存立し得ないのである。
アフリカでは事情が違っている。アフリカの人口のおよそ30%が、資源の乏しい内陸国に住んでいる。
アフリカの内陸国は隣国を指向しない。そのインフラと政治は国内だけに集中するか、世界市場を目指す。
隣国は世界市場への経路にすぎなく、それ自体がマーケットではない。
現状ではたとえ周りに運のよい成長を始める国があったとしても、内陸国には役立たないだろう。
しかし、資源に乏しい内陸国が劣悪な近隣諸国に囲まれていても、良質な政府があれば事情は違ってくる。
例えばウガンダやブルキナファソの政府は、おそるべき前政権による損害からある程度回復し、10年以上も一応の成長率を維持している。
- 第5章 小国における悪いガバナンスの罠
ガバナンスと経済政策は経済の実績に大きな影響を与えるが、この2つを適切に行うか否かで得られる結果には非対称性がある。
一方、劣悪なガバナンスと政策は恐るべき速さで経済を破壊する。
悪い政策やガバナンスは必ずしも罠の面ばかりではない。社会は失敗から学ぶことができるし、多くのそういう例がある。
中国やインドなど多くの国が政策を変更できたのに、変更できなかった国があるのか。
なぜある環境では、劣ったガバナンスがこれほど続くのだろうか。
一つの理由は、すべての人がその損失を被るわけではないからである。
多くの最貧国の指導者は世界でも超富裕階級に属しており、彼らは現状の変更を好まない。このため国民を無教養で情報不足のまま放っておくほうが有利である。
勇敢な改革者も戦略を完成する前に、彼らに刃向かう勢力に圧倒されてしまうことが多い。
潜在的に方向転換が出来うる国で、方向転換の可能性を年ごとに推定し、ついでこれらの国についてその潜在的特質を広範囲にわたって調査した。
三種類の特質が検出され、これによって方向転換が可能かどうか決まることがわかった。
つまり人口が多ければ多いほど、また中等教育を受けた国民の割合が高いほど、さらに驚くべきだが最近内戦から脱した国ほど、失敗国家にとっての持続的な方向転換が可能になる傾向があった。
また方向転換にあたって重要でないように思える特質は、民主主義と政治的権利だった。
改革戦略を策定し実行するためには、教育を受けた批判精神をもつ大衆が必要なのである。
改革が内戦の後ほど起こりうるという一見奇妙に見える結果があるが、これは決して奇妙なことではない。
古い利害関係が刷新されるため、政治はいつになく流動的となり、比較的変化させやすくなるのである。
しかし、ここで悪い知らせがある。全体的に見て、一年以内に持続的な方向転換が始まる確率は、どの年でも非常に低く、わずか1.6%にすぎない。
事実、この年ごとの確率から数学的期待値と呼ばれるものを算出できるが、それによると失敗国家の状態から抜け出すためには、平均で59年が必要である。
持続の要件と方向転換のための前提条件とを比較した場合、いくつかの驚くべき類似性と一つの驚くべき相違を発見する。
類似性とは、人口が多くまた教育水準が高い国は二重に恵まれており、方向転換を行いやすく、またいったん転換を始めると成功する可能性が高いことである。
大きな相違とは、紛争後の経験である。紛争を経験した国では持続的な方向転換自体は達成しやすいが、初期の改革はどれも進行しにくい傾向がある。
この矛盾した結果からわかるのは、紛争後の情勢が非常に流動的だということである。
この結果、失敗国家を支援するための私達の政治的介入は、様々な情勢のタイプを差別化した上で、紛争後の情勢を大きなチャンスととらえる必要がある。
失敗国家のコストは年々積み上がっていく。そして失敗国家の成長率は激減していき、絶対的衰退に陥りやすい。また近隣諸国の成長も激減する。
失敗国家が方向転換するには長い時間がかかるため、これらのコストは将来にわたって続く。
経済学者は通常将来のコストの流れを「割引現在価値」と呼ばれる単一評価尺度に変換する。
それに従い著者たちは、失敗の歴史を通じての一カ国の失敗国家のコストは、その国と近隣諸国を合わせておよそ1000億ドルに達すると評価した。
持続的な方向転換の価値を下限で見積もった場合の評価である。
後に検証するが、著者は方向転換が成功する可能性が70億ドル以下に見積もられた場合でも、非軍事的介入は行う価値があると考える。
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まとめ
コリアーは最貧国に構造的に潜む罠をロシアンルーレットに例えます。それは比喩の通りに、長い時間の間に何度でも襲いかかる危険性があり、そして成功とは比べ物にならない破滅をもたらします。次回ではその対処法を考えていきます。
続きます。
コリアー 『最低辺の10億人』 1 国家はなぜ成長できないのか
最近ではアセモグルの「国家はなぜ衰退するのか」の出版もあり、成功した国家と失敗した国家が、どのあたりに原因を求めるのかという議論もありました。
アセモグルでは主に先進国と発展途上国に視点を当てていましたが、本書はボトムビリオンと言われる最下層の10億人のみに着眼しています。
また『国家はなぜ衰退するのか』がともすれば還元主義のように見えなくもなかった内容でしたが、本書では徹底的に統計的な手法を用いて実証的に検証しています。
執筆時期により人口60億人強の頃の話で、数字もそのように書かれていますし、今では発展も進みつつありますが、本書で挙げられる数字の多くは強烈なイメージを今も与えてくれます。
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はじめに
本書ではマラウイやエチオピアなどのように、今も世界経済システムの底辺にある開発途上国を扱っている。
現在底辺にある国々は最貧状態にあるばかりでなく、成長できなかったという点も特徴的だ。
これらの発展の失敗は世界的な発展の成功の陰で起きた。発展の失敗の多様性すべてに通用するような説明はない。
そして著者は四種類の罠によって現在底辺にある国々を説明できるようになった。
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第1部 なにが本当の問題なのか?
- 第1章 脱落し崩壊する最底辺の10億人の国
50億の人々は既に繁栄しているか、あるいは少なくとも繁栄の途上にあり、一方の10億人の国々は底辺に閉じ込められたままひしめいているのである。
大部分の社会は上に登っている。底辺にある国は墜落していく不運な少数派であり、そこにはまり込んでしまっている。
開発の罠はアカデミックな分野でも、右と左に別れて活発に論争されるテーマである。
右派の論理では開発の罠は存在せず、良い政策を採用した国は貧困から脱することが出来るとする。
一方、左派の論理はグローバル資本主義が本来的に貧困の罠を生み出すと主張する。
本書はこれまであまり注目されてこなかった四種類の罠を取り上げている。
紛争の罠、天然資源の罠、劣等な隣国に囲まれている内陸国の罠、そして小国における悪いガバナンスの罠である。
あえて底辺の10億人に対し地理的レッテルを用いるとすれば、「アフリカ+α」となるだろう。
つまりアフリカに、ハイチ、ボリビア、中央アジア諸国、ラオス、カンボジア、イエメン、ミャンマー、北朝鮮のような場所がプラスされるのである。
底辺の10億人の国々はどのような状態にあるのか。平均寿命はほかの開発途上国では67歳だが、底辺の10億人の国では50歳にすぎない。
底辺の10億人の国々とほかの開発途上国の間には、もともとギャップがあったのだろうか。
1970年代には年間2%の相違だったが、それは底辺の10億人の人々にとって、成長どころか凋落への一つの分岐点であり、まもなく情勢はきわめて悪化していった。
80年代にはその差は年4.4%、90年代には年5%にも達したのである。
底辺の10億人の国の社会はほかの開発途上国から加速度的に大差を付けられることになり、二つの異なった世界を形成するにいたった。
この格差によって底辺の10億人の国々の大部分は既に、グローバルな堆積の最下辺に押し込められてしまった。
現在では成長率の視点からではなく、貧困削減とミレニアム開発目標の側面から論議されている。
しかし、著者は今でも、底辺の10億人の国にとっての問題の核心は成長であると確信している。
改善は可能である。変化は底辺の10億人の国の内部から起きなければならない。
続きます。
飛鳥と古代国家 4 天武・持統の時代
http://naganaga5.hatenablog.com/entry/2014/03/04/204125
の続きです。
白村江で大敗した倭国ですが、いよいよ大転換点となる天武の時代を迎え、国名も日本と改めます。
鮮烈な経過をたどる壬申の乱ののちに権力を握った大海人皇子と菟野皇女=天武天皇と持統天皇は日本史でも稀に見るほどの最高のパートナーでした。
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六 壬申の乱と天武朝
壬申の乱は天智天皇が死去した翌年(672)に、天智の弟の大海人皇子と、天智の子の大友皇子との間におきた皇位継承争いであり、古代最大といわれるほどの争乱となった。
吉野に退いていた大海人皇子は、その年の6月、吉野を出発し、大友皇子の近江朝廷側と、近江や大和などを舞台に戦った。
戦闘は二ヶ月ほどで終わり、この乱に勝利した大海人は、翌年(673)2月即位した。これが天武天皇である。
『日本書紀』は大友の即位を認めておらず、実際に大友が即位したか否かは不明であるが、明治政府は『大日本史』の見解に従い、明治三年に大友に弘文天皇とおくりなし、公式に歴代天皇の一人に加えた。
即位した天武天皇は、同時に菟野を皇后に立てた。菟野は天智の娘であるから、この婚姻はオジとメイとの近親婚である。
天武は菟野のほかに、天智の娘を三人も妻としているが、即位時の王家の女性である妻は、菟野一人であり、菟野が大后に立てられたのは当然であった。
菟野との間に生まれた草壁皇子は12歳になっており、この草壁が次に王位を継承すれば、それは王統の原理に即した継承ということになる。
しかし、草壁の継承者としての地位は、確固たるものではなかったようである。
679年5月、天武と菟野は6人の皇子を連れて吉野に行幸し、互いに争いを起こすことのないよう盟約を交わしたという。
そして吉野の盟約の2年後、草壁は皇太子(太子)に立てられた。草壁はこのとき20歳であり、成人に達するのを待っての立太子と考えられる。
当時、草壁より大津の方が王位継承者としてふさわしいと考えていたマヘツキミ層は、少なからず存在したと考えられる。
大津は、その人格・能力を称えた文章が残され、人望の大きかったことも伝えられている。
これに対して草壁は、その人格・能力をほめたような伝えは残されていない。
天武の死後もすぐに即位せず、結局即位しないまま若くして死去していることからすると、草壁には、健康上の問題もあったのではないかと推測される。
天武が草壁よりも大津に期待したとして不思議ではない。
しかし天武は、最終的には草壁を後継者と判断したようである。
「天下の事、大小をいはず、悉くに皇后および皇太子にもうせ」と勅した宣言で、皇太子の地位にある草壁が後継者であることを改めて宣言し、自身が死んだ後の争いをおさえようとしたのであろう。
「日本」の国号について、近年では「天皇」号とともに天武朝に成立したとみる説が有力である。
『日本書紀』によれば、天武天皇が死去したのは、686年9月9日であった。
それを受けて、皇后であった菟野皇女(のちの持統天皇)が称制を行い、9月11日には天武の殯宮が開始された。
そしてその直後の9月24日、大津皇子の謀反が発覚したのである。
翌月の二日には、大津とそれに加わった三十余人が逮捕され、はやくもその翌日に死を賜っている。
事件は、持統によって仕組まれたとする見方が有力である。
すなわち、持統は、自身の子である草壁皇子を皇位につけるため、そのライバルである大津を除いたとするのである。
しかし『懐風藻』の大津皇子伝と河嶋皇子伝からすると、謀反を計画していたことは事実とみなければならない。
また、大津が除かれたからといって、すぐに草壁の即位が可能になったのでもなかった。
殯宮儀礼は、2年以上の長期におよび、688年11月11日に終了し、同日、天武の遺体は埋葬された。
この段階では、草壁即位の合意が成立していたはずであるが、即位しないまま翌年の4月に28歳で死去している。
草壁が死去した翌年、称制を行ってきた持統天皇が即位した。
皇太子草壁の死を受けての即位であり、予定を変更しての即位であった。
草壁には、天智の娘であり、持統の異母妹にあたる阿陪皇女(のちの元明天皇)との間に、珂瑠皇子が生まれており、ほかに男子はなかった。草壁が死去した時点ではいまだ7歳である。
持統の即位は、珂瑠に皇位を伝えるための中継ぎであったと見てよい。
もちろん中継ぎだからといって、君主としての権威・権力に欠けていたということではない。
女帝は、直系の王統を維持するために登場したと考えられるのであり、持統の場合は、天武―草壁―珂瑠という直系王統(皇統)を維持するための即位であった。
697年2月、15歳の珂瑠皇子が皇太子に立てられた。20歳未満の皇太子(太子)は、これが最初である。
半年後の8月、はやくも持統は、珂瑠皇太子に譲位した。文武天皇の即位である。
譲位は皇極についで二例目ということになるが、皇極の場合は、退位させられたという面が強かった。
自らの意思で自らの望む人物への譲位は、この持統の例が最初である。
譲位というのは、自らが皇位を伝えようとする人物に確実に伝えることのできる方法であり、この意味において、王権の強化・発達を示すものである。
譲位は異例ずくめであったが、しかしそれは、持統の独断というのではなく、それを支持したマヘツキミらも多かったはずである。
持統の年齢は、このとき53歳である。病を得たことが、譲位を急がせた直接の理由になったのではないかと考えられる。
持統は、譲位したが、その後も政治から退いたのではなかった。持統と文武が「並び坐してこの天下を治め」と『続日本紀』にあり、共同統治が行われたのである。
文武は即維持に15歳であり、主導権は当然、持統が握っていたと推定される。
持統が死んだのは702年であったが、この間に、大宝律令が制定・施行され、長い間途絶えていた遣唐使が派遣された。
本来ならば、文武の皇后が王権の分掌者・共治者となるはずであったが、文武は王家の女性を妻としておらず、皇后を立てることは出来なかったのである。
また文武の子は、宮子(藤原不比等の娘)とのあいだに生まれた首(オビト)皇子一人であり、持統が死去した当時、首は生まれて間もない2歳であった。
結局文武は、首皇子以外の子を残さないまま、707年6月、25歳の若さで死去した。
文武の死を受け、同年7月、文武の母であり、草壁の妻であった阿陪皇女が即位した。元明天皇である。
文武が死去した時点で首はいまだ7歳であったため、首が成長するまでの中継ぎであったと見てよい。
首の即位については、王家の女性を母としていないということで、支配者層の十分な合意を得られない状況があった。
ほかに、首の出自を皇室に準ずる地位に高めるという方法があった。
すなわち、宮子の父である藤原不比等に対する特別扱いである。
首(聖武)が即位するのは、不比等の死後であるが、聖武もまた、不比等の娘の光明子を妻としている。
光明子は皇后に立てられるが、皇太子に立てられた皇子が死去した後男子は生まれず、皇位は、二人の間の女子である孝謙・称徳天皇に継承されていくことになる。
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まとめ
こちらの本ではむしろ天武よりも菟野皇女が積極的に壬申の乱を計ったという興味深い説が唱えられています。
それがまんざら荒唐無稽な内容には取れないほど、持統天皇が往時の政治に与えた影響は非常に大きいものと思えます。
日本、そして天皇の名は天武・持統天皇の世に始まり、あらゆる意味でメルクマールとなった時代でした。